心の柔軟性

今まで沢山のクライアントさんとご一緒に、心の癒しを進めさせていただいて来ました。それはもう、ありとあらゆる問題についてつぶさに向き合ってきたと思います。

そうした多種多様な問題には、直感的にとても大変だと思えるものから、それほどの大問題でもないと感じるものまでありました。

そして、当然大変だと思われるような問題こそ、改善していくのに相当の努力や時間が必要になるだろうと予想するわけです。

ところが、実際にセッションを重ねていくと、私のそうした予想がいつも当たるとは限らないのです。すぐに改善されるはずと思っていた問題がいつまでも続くことがあったり、その逆に深刻な問題と見えるものがあっという間に改善するということもあるのです。

なぜそのように、私の予想通りには癒しが進まないのかということを考えてみると、実は問題の解決、あるいは改善の鍵となるのはその問題の深刻さではなくて、クライアントさんご本人の心にこそ大切な要素があると気づいたのです。

癒しというのは、ある意味それまでのクライアントさんが信じてきたこと、あるいは生き方、考え方というものを変えていく必要がどうしてもあるのです。

従って、深刻さが大きいときには、それだけご本人は追い詰められているために、それこそなりふり構わずに私のセラピーに賭けてくださるのです。

本当は、今までの人生で信じてきたことなどを、他人である私にこうして下さいと言われただけで変えるということはとても難しいことですね。

でも切羽つまると人はとても大きなエネルギーを使うことができるし、また硬くなっていた心を柔らかくして、目新しい考え方などに順応させようとするのです。

それこそが、癒しを進める原動力であるし、もっとも大切な鍵となることだということです。心が柔軟な状態であれば、それだけ受け入れる能力が高くなるということですね。

転移について

セラピスト(カウンセラーでもいい)というのは、とかくクライアントさんから投影される立場にあるのです。それを心理学では転移と呼んでいます。

転移というと、なにやら特別なことのように思えますが、ごく普通の人間関係における投影と全く同じです。ただ、クライアントさんは何らかの問題を抱えてセラピストのもとに来るわけですから、投影しやすい状態にあるというのは十分に考えられることです。

肯定的な転移もあれば、否定的な転移もあり、それこそありとあらゆるクライアントさん自身の心の問題を映し出す鏡として使われてしまいます。

この仕事を始めて間もないころ、ネット上での中傷的な内容の書き込みをされたこともありました。HPの掲示板などへの書き込みで、いわれのない否定的な言葉を書かれたこともありました。

自分もただの人間ですから、それはいい気持ちがしないことも多かったのですが、転移であることが分かっていたので、半ば興味深く見ていたのを覚えています。

個人セッションの中で直接的に怒りをぶつけられることもたまにはありました。途中で帰ってしまわれたり、遠まわしに二度と来ない旨を言われたこともありました。

それが、気がついたらそうしたことがどういうわけか影を潜めてしまい、最近ではあからさまに否定的な転移をされる経験が非常に少なくなりました。

そう思っていた矢先のこと、多分一ヶ月くらい前だったと思いますが、とある人のネット上での書き込みをたまたま見付けて読んでいたときのことです。

名前は伏せてありましたが、明らかに私のことについて書かれていて、それもこれでもかというくらいに大々的に否定した文章になっていました。

その人の名誉のために、私との関係については言えませんが、とにかくそれは単なる否定というよりは憎しみに満ちた思いで書かれているように感じました。

そこに書かれていることの中には、きっと当たっていることもあるのでしょうが、それでもその人の悲痛な叫びを感じて、とても悲しくなりました。

まだまだ、転移はされるようですが、心底からいたわりの気持ちで受容したいと思います。その人の心が一日も早く、救われることを祈るばかりです。

ストイックな生き方

ストイックというのは、禁欲的とか自制的なというように、つまり自分自身に厳しくある事を指すのだろうと思います。

そうすると、自分は完全なる非ストイック的な人間だと言えると思います。言い方を変えれば、快楽的であって自分を律することがとても苦手なのです。

そのことについて、取り立てて自分を責めるということもないのですが、最近自分とまるで正反対とも思えるあるストイックな人について知るようになって、しばし考え込んでいるのです。

そのストイックな人は、傍らから見る限りにおいては非常に魅力的なのです。単に自分には無理だからという理由で羨望するから魅力的に映るのか。

それとも、自分の心の奥にはそうしたストイックな生き方を本当は望んでいる部分があるということなのか、調べてみたいと思ったりしています。

ただ、生まれてからずっと変わらずに快楽主義的な生き方をしてきたわけで、それを急に180度変えるということは実際不可能ですね。

セラピストの立場として、クライアントさんと向き合うときには、口が裂けてもストイックな生き方を提案するということはありません。

なぜなら、ストイックであるためには自分の心身の自然な欲求を抑えてしまう必要があるため、一つ間違えるとそこに自己犠牲が発生する可能性が高いからです。

したがって、ストイックな生き方をわざわざこんな形で取り上げるようなことも今まではありませんでした。しかし、長い間セラピストをしてきて、癒しの王道から少しはずれる可能性のあることにも興味を持つようになったということかもしれません。

だから、人には決してお勧めすることはないのですが、自分の場合についてのみ、ほんの少しだけ、なんちゃってストイックなるものを考案して、実践してみたらどうなのだろうかと思っているのです。

なんちゃってという枕詞をつけるくらいですから、それこそストイックな生き方とは正反対であることが露呈してしまってますね。

三つの生き方 その4

昨日の続きです。

この数日に渡って、人の生き方には概ね三種類の生き方があり、それは心の癒しと共に次のように変化していくということをお伝えしました。

つまり、③(自己犠牲を強いる生き方)→②(自己愛ベースの生き方)→①(私心を手放した生き方)ということです。

そして、この③→②→①という推移については、それほどはっきりとしたものではなく、場合によっては、それぞれの間を行ったり来たりするものだということもお伝えしました。

さて、ここで①が究極の生き方なんだろうかということについて、書いていかなければなりません。というのも、それ以外の生き方があると分かったからです。

正確に言えば、それは単純に「生き方」という言葉ではうまく説明することができないものです。そして、何よりも大切なことは、③→②→①のその先に到達するのではないということ。

つまり、③の状態にいる人でも、②の状態であってもまた①であろうとも、そういった現実レベルの生き方には影響されることのないものだということです。

それを、「○」(ゼロ)であらわすとしたら、③⇔○、②⇔○、①⇔○ということになります。つまり、③→○のように、移行するものではなくて、それぞれの生き方と同時に体験するものなのです。

この「○」(ゼロ)の状態とは、自分の本質に気づくということであって、③~①の生き方とは独立した体験であるとも言えます。だからこそ、同時に成り立つわけです。

ただし、「○」(ゼロ)とう自分の本当の姿に気づく体験は、③→②→①という変化を促進することにとても大きな影響を与える可能性があると思っています。

つまり、通常の癒しの作業に比べても、とても早い生き方の変化を導くものだということです。なぜなら、「○」(ゼロ)とは、元々自分とは無であるという気づきだからです。

③~①が人としての自分の生き方であるのに対して、「○」はすべてを受容する真の自己への気づきだからです。 みなさんとご一緒に、「○」への気づきについて見る体験を分かち合っていけたらいいなと思っています。

三つの生き方 その3

昨日の続きです。

①の生き方とは、自己犠牲の生き方である③から自己愛の生き方②を経由して、その先にある生き方であるというお話しをしました。

それは、自分のためにという私心を手放して、人のため、公のために生きるという生き方です。そして、ある意味とてもエゴイスティックな生き方でもあるともお伝えしました。

例えば、伝え聞いた話しなので真偽のほどは定かではないのですが、マザーテレサはまもなく死を迎える人たちに限られた薬をふんだんに与えたということです。

その薬を与えれば十分に命が助かるような人たちが他に沢山いたので、マザーに同行したシスターたちがそれを制止したのですが、彼女は頑として聞かなかったということです。

理性では考えられないことですが、彼女は目の前にいて死んでいこうとする人たちをそのままにしておくことができなかったのでしょうね。

そうしたエピソード以外でも、彼女自身、自分はやりたいことをやりたいように我がままにやっているだけだということを言っています。

①の生き方をしている人は、人の迷惑にならないようにということにあまり重きを置いていないのです。それは、自分が人からどう思われても構わないという心の状態であるからです。

だから恐れの少ない生き方であるということも言えますね。それは自分を守らない生き方であるとも言えるわけで、だからこそ心は満たされるのです。

しかし、①の生き方の人は、自分の身体を犠牲にするかもしれません。それでも、誰かを守るため、何かのために私心を手放して生きるので、心は充実することができるということです。

③→②→①という生き方の変化について、お話ししてきましたが、この推移というのはそれほどきっちりしたものではなくて、実際には③と②と①の間を行ったり来たりするかもしれません。

それでも、確実にいえることは、③よりも②、②よりも①の生き方がより満ち足りた人生を生きることになるということです。

では、①が究極の目標となるのでしょうか。それについては、また明日にこの続きを書くことにします。

つづく

三つの生き方 その2

昨日の続きです。

最も苦悩する生き方である③は、自己犠牲を強いてしまう生き方であって、セラピーによって、自己愛を高めて自分自身のために生きる②の生き方に変えていくというお話しをしました。

そもそも③の生き方は、幼いころに何とか生き延びるために本人が作り出した生き方であり、その場その場では一時的な安心を得ることができますが、必ず自己犠牲をその裏で蓄積していくことになります。

自分が本当にやりたいことができない、言いたいことが言えない生き方が③であるわけです。簡単に言えば、「ノー」が言えない生き方であるともいえるのです。

したがって、自分がやりたいようにやり、言いたいように言える②の生き方になると、当然自己犠牲が減り、余計なエネルギーを浪費せずに快適な人生へと向けることができます。

しかしながら、②の生き方ができるようになって、しばらくの間はいいのですが、じっくりと自分の心と向き合ってみると、やはりどこかで虚しさがあったり満ち足りているという気持ちにはなれないことに気づくようになります。

そこで、その先の生きかた①というものが視野に入るようになってきます。①の生きかたとは、一番辛かった③の生き方と表面上は似ているかもしれません。

それは、自己犠牲を払わずに、つまり自分がやりたいように、誰かのために、何かのために生きるという方法だからです。

①の生き方は、ある意味とてもエゴイスティックであるかもしれません。③の生き方をしている人にとっては、②の生き方でさえエゴイスティックだと思うはずです。

例えば、親の仕事を継いで欲しいという親の意向に反して、本人のやりたいことをやっていく②の生き方が、③から見たら親を裏切る、まさに親不孝な生き方に映るからです。

しかし、①の生き方は②の生き方よりもはるかにエゴイスティックに映るかもしれません。それも、どこか常識を超えたふるまいに見えることが多いかもしれません。

①の生き方についての事例と、それがなぜもっとも満ち足りた生き方であるのかは明日またこの続きでお話しさせていただきます。

つづく

三つの生き方

人の生き方を大雑把に三つに分けて考えることができます。まず初めに、一番苦しい生き方についてお話しします。それは、自己犠牲を強いる生き方であると言えます。

形は誰かのために生きているように見えるのですが、それは究極的には自分を守らねばならないためなのですが、本人にはその自覚がない場合もあるのです。

その生き方の人は、外側からみるといい人に見えるかもしれませんし、とても愛情深く見えるかもしれませんが、長くは続けることができません。

なぜなら、その自己犠牲がいずれは大爆発を起こすか、大きな病気になってしまうかして、みずからその生き方を変えさせようとするからです。

セラピーにいらっしゃるクライアントさんの大多数がこの生き方をしている人であると言えます。したがって、セラピーでは誰かのために生きるのではなくて、自分のために生きるようにとお伝えすることになります。

二つ目の生き方とは、自分の人生の主人公は自分なのだという自覚を持って、できるだけ自分のために生きるという生き方です。

セラピーでは、自己犠牲を強いる生き方(③)から自分のために生きる生き方(②)へと変える方法を学んでいただくことになります。

③の生き方をする人は、総じて自分の存在価値に気づかないで生きていることが多く、それを自己愛に満ちた②の生き方へとパラダイムシフトできるようにするのです。

この③→②という変化によって、人はかなりリラックスした快適な人生に変えていくことができます。しかし、③→②によって心が満ち足りるかというと、実はそうでもありません。

その先の生き方(①)があるのです。①の生き方については明日続きを書きます。

意志の強さ

世の中を見回してみると、とても意志の強い人もいれば、弱い人もいます。自分の場合は、完全に意志薄弱であるという自覚を持っています。

たとえば、女性の場合にダイエットを計画したものの、三日坊主で終わってしまう場合もあるかもしれませんが、大好きな食べ物を我慢してもダイエットをやり通す人もいます。

いけないことだとは知りながらも、どうしても誘惑に負けてやってしまうことも多々あるのが人間ですね。その場合、大抵は自分で自分のことを駄目出しすることになります。

こうした意志の強弱の違いというのは、一体どこからやってくるのだろうかと考えたことはありませんか?

自分で決めたことを守るかどうかというのは、簡単に言えば、それを守りたい意識と守りたくない意識の戦った結果で決まるということです。

そして、私の経験ではそうした意識同士の戦いによって、どちらに軍配があがるかというのは幼い頃に作られたものによるところが大きいと思うのです。

ルールを守りたい意識というのは、幼いときであれば親から褒められたいとか、認めてもらいたい、あるいは怒られたくないということと関連しています。

一方ルールを守りたくないというのは、そのルールを守らないほうが楽しいとか嬉しいといった無邪気で単純な理由によるものです。

罪悪感が強い人は、一般的には自制的な傾向が強いために、ルールを守ろうとする意志が強くなるはずです。つまり、ルールを守れなかったときの自責がきついために、それを見越してルールを守ろうとするということです。

そう考えると、自制心の強い人、つまり意志の強い人が立派であるとは、一概に言えるわけではないということです。

だからと言って、意志薄弱である自分を正当化しようというのではないのですが、一つ気づいていることがあります。

それは、自分自身のためには意志が弱いと感じる場合でも、誰かのためにということになると意志を強く持って頑張れるということがあるのです。

やっぱり、人は自分のためよりも誰かのために、という場合の方が何につけ底力のようなものが出てくるのかもしれません。だからこそ、何倍も意志を強く持って自制することができるということです。

心が満たされる法則

私たちは自分のことが関心事の一番であるときは、心が満たされた感じがしないのです。もっとも簡単な例としては、何もすることがなくて退屈だなと思うときには、その退屈をもてあましている自分に意識が向いているということです。

駅で電車が来るのを待っているときとかに、何もすることがないよりは、ケータイでゲームにでも興じていれば退屈はしのぐことができますが、それは自分から意識が離れてゲームに向いているからです。

自分は夜寝るときに、少しでも暑くて寝苦しさを感じてしまうと、なかなか寝付けなくなってしまいますが、その場合も暑さを感じている自分に意識が向いてしまうから寝つきが悪くなるとも言えるのです。

勿論、快適さを感じているときや、自分の願いごとや望みが叶ったりしたときには、意識が自分に向いているとしても心は満たされている状態になることができます。

しかし、それは一過性のものであって、しかもその満足感というのは実は幼い頃に欲しいものが手に入ったときのようなレベルであって、心の底から充足するということとは違います。

したがって、しばらくすると、また違うものが欲しくなって、それを手に入れるまで満たされないということが起きて、それを繰り返してしまうことになるのです。

自分が関心を向けるものの中から、完全に自分のことをはずしてしまうということは、とても難しいことです。肉体を持った人間として生きている限り、それは不可能なことかもしれません。

それでも、自分への関心を二の次、三の次に持っていくことはできるかもしれません。それは、誰かのために、何かのために、自分の労力や時間を捧げるということです。

こうしたことが実際に心の中で起きているときには、肉体的な犠牲はあったとしても、精神的な自己犠牲はとても少なくなるために、一過性ではなくて継続的にそれをすることができるはずなのです。

そしてそのようなときには、心はきっと満たされた状態が続くはずです。何かに打ち込んでいるときは、退屈などしないでいられますが、それが自分のためではなくて、自分以外の誰かのため、何かのためであれば、より深い満足感を得られるということです。

その場合の、誰か、あるいは何かというのは、本当に何でもいいのです。ただ、自分以外ということでさえあれば、この心が満たされる法則は成り立つということです。

情報を分かち合う

つくづく今の日本は、北朝鮮のことを馬鹿にすることができないくらいに、国やメディアによって情報操作がされているということが、浮き彫りになってしまいましたね。

日本という国がまさかこれほどの悲惨な状態だったのかと驚きの毎日が続いています。これも、3.11以後次々と明らかになってきてしまっています。

当オフィスのある武蔵野市吉祥寺では、隔週で「むさしの」という市報が届けられます。いつもはほとんど読むこともなかったのですが、昨日ふと気になって目を通していたら、「武蔵野の水」というページで目が釘付けになってしまいました。

武蔵野市の水道水がどのくらい放射性物質によって汚染されているかという記事なのですが、次のように書いてありました。

「飲料水の指標値は、放射性ヨウ素は300Bq/kg未満、放射性セシウムは200Bq/kg未満です。例えば、放射性ヨウ素300Bq/kgの水を大人が毎日2リットル一ヶ月間飲み続けると、約400マイクロシーベルトの被曝量になりますが、この値は人間が自然界から一年間に受ける放射線の4分の1程度で、健康への影響は心配ありません。」

これは情報操作というよりも、単なる無知からくる間違った情報の提供だと思いますが、もうすでに原発事故から2ヶ月以上が経つというのに、こんな馬鹿げたことしか書けないとは…。

これを書いた人は、一年のうち、一ヶ月だけ水を飲み、残りの11ヶ月は飲まずに過ごすと思っているのでしょうか??

一年に換算すると、3.6ミリシーベルトの被曝をすることになり、国が規定する上限値である1ミリシーベルト/年の3.6倍となってしまいます。

しかも、被曝量は足し算されるので、外部被曝と水以外の内部被曝のことも考慮しなければならないのですが、そんなことはまったく考慮していません。

こうした計算方法も分からないというのは、立場上単なる無知では済まされないはずです。市民の命に直接かかわるようなことですから。

今、情報の分断が起きているということですね。つまり、新聞やテレビからしか情報を得ていない人たちと、本やインターネットからリアルタイムで捏造されていない情報を収集できる人との明らかな差があるということです。

正しい情報を知っている人たちが、騙されたままになっている人たちと正しい情報を分かち合うことができるといいのですが。