本質的な孤独

人によっては、深い孤独感に苛まれている場合があります。孤独感はひどくなると恐怖と同じくらいに苦悩の元となってしまいます。

そうした孤独感というのは、子供の頃は別として、その原因は当人の心のあり方にあるのです。多くの場合には、本人が自分を守るために作ってしまった頑丈な城壁によって、孤独になってしまうのです。

その高い城壁を自分の周囲に作って、他人から自分を守ろうとするわけです。その目的は、ある程度は達成することができても、そのために今度は孤独感を味わうことになってしまうのです。

何から自分を守ろうとしているかといえば、自分が認めたくない部分、本人にとって都合の悪い部分を他人の目から隠そうとしているということ。

したがって、こうした場合には通常の心の癒しをしていくことによって、自己否定感や罪悪感を小さくしていき、どんな自分でも認めてあげられるようになれば、自己防衛の力が緩んできます。

その結果、高く立派だった城壁が、無用のものとなっていき、次第に周囲との距離が縮まっていくことで孤独感から開放されていくようになるのです。

と、ここまではごく一般的な癒しのお話しなのですが、実は、その先にもっともっと深い、本質的な孤独があるのです。それは誰もが同じように持っているということに気づいていくことになります。

それは、個人として生きている限りは、どうしても避けては通れないものとして、受け入れるしか解決することはできないものなのです。

その本質的な孤独を抑圧して、みんなで一緒だから孤独じゃないんだと思い込もうとしてしまうと、最も大切なことに気づくことができなくなってしまうのです。

それは、本当の自分とは誰かということです。それを見つめていくときには、その孤独を感じることになるはずです。自分が誰かを見ることができるのは、自分だけだからです。

最終的な気づきがやってきたときには、今度は孤独というものは幻想だったということに気づくことになるのだと思います。

親は絶対的存在という洗脳

クライアントさんの中には、子供の頃親の言うことは絶対だと信じていたという人が意外に多いのです。親の正しさというものの配下に自分がいたというイメージです。

ある意味、親は神様のような存在だったということかもしれません。それは実は、子供本人の気質にも関係ありますが、親の子供への対応の仕方がより強く影響していると言えると思います。

つまり、親自身が正しさというものを大事にする生き方をしている場合、当然のごとく親はいつも正しいのだという信念が子供へと伝播してしまうのです。

だからこそ、親はその正しさと共に子供にとっては絶対的な存在として君臨することになります。それは当然のことながら、無邪気に逆らったりすることが出来にくくなります。

しかし、子供は子供ですから、やはり親の言いなりにはなりたくないのが本音ですね。必ず親と子供とは意見や気持ちが異なるはずです。

そうした事態がやってきたときに、子供は自分の気持ちを受け入れて欲しいのに、親の正しさでそれを突き放されてしまうことになります。

それは言葉を変えると、親の正しさによって自分が裁かれたということになるのです。結局、裁かれた数だけ、子供は自己否定感を積んでいくことになってしまうのです。

親は愛情を込めて、正しさを子供に教えようと一生懸命になるのですが、それが子供からすると、受け入れてもらえずに裁かれたという印象をためていくことになってしまうということです。

結局、親は絶対だと信じて育ってきた人は、必ず強い自己否定感を持ってしまうことになるのです。これはもう必ずそうなると断言できます。

そして大人になって癒しを進めるうちに、自分は親から丸ごと受け止めてもらえたという記憶がほとんどないということに気づくことになります。

だから、大人になっても親から受け止めて欲しいという思いが強く残っているということがわかるようになります。

ところが、そのことをすぐには認めることが難しいのです。なぜなら、それを認めることは親の正しさを否定することになるような気がしてしまうからです。

そしてもう一つの理由は、それを心底認めてしまったら、親に従ってきたゆえの自己犠牲に気が付いてしまい、溜め込んできた怒りを爆発させることになると、どこかで分かっているからです。

正しさとは恐怖が底にあるのです。逆に、愛は受け入れるのです。つまり、愛を持って子供に接することができる親は、正しさを教える代わりに子供を受容することができるのです。

性別による違い

よく男性は目的を持って会話するけれど、女性の会話には何の目的もなくて、ただ話しをすること自体が目的だというのがありますね。

私自身は男性なので、確かに何か結論じみたものがないと、話しをすることはないのかもしれないという自覚があるように感じています。

どんなくだらない話しであっても、何を言わんとしているのかということだけは押さえているようなところがあるのです。

それに比べて、女性はただおしゃべりすることが楽しいので、その楽しさを享受することがシンプルに目的なのだということなのでしょう。

こうした男女の違いというものは確かにあります。他にも例えば旅行にいこうとする場合でも、男性はただ何となく行くのではなく、何がしかの目的がそこに必要な感じがしています。

一方女性は、ただその旅行で一緒に楽しめればいいというようなことが多いのではないでしょうか。男性は理由付けがどうしても必要なのです。

男性は自分の言動に対して、理由がないままでいることが気持ち悪いのかもしれません。女性は理屈抜きにして楽しもうとする傾向が強いように思います。

だとすると、この話しの結論は明確で、女性のほうが一歩も二歩も進んでいるということが言えると思います。なぜなら、人生を楽しむのに理由などいらないのは明らかだからです。

男性もそうしたことは、頭では理解できているのですが、いざとなると尤もらしい理由がないと何となく何かが足りない感じがして、純粋にそうしたいからするという生き方から遠のいています。

今までのこの社会が男性性をベースに出来上がっていることによって、男性の方がより、責任や期待への対応を重視するように躾けられているからかもしれませんね。

女性は、より自由に人生を謳歌しようという姿勢が見受けられます。男性はそれを羨ましいと感じつつも、より価値ある自分を作りたくて、なかなかまねが出来ずにいるのです。

これからは、女性性が中心となった社会に変化していくはずですので、性別にかかわらず誰もがよりシンプルな生き方をしていけるようになると感じています。

行為者ではない

ここ数年、真実とは何かということばかりにずっと関心を向ける生活を続けてきたのですが、探求すればするほど、それは自分が今まで正しいと思っていたこととはまるで正反対でした。

しかも、一般常識的見地からすると、なんたる奇想天外なことか。それはもう、本当にびっくりすることばかりでした。

例えば、自分が宇宙の中にいるのではなくて、宇宙が自分の中にあるということ。あるいは、時空こそが幻想であるといったことです。

それは、真実とは決して変化することがないということに行き着きます。そして、起きることは起きる、つまりすべては大いなるシナリオ通りに現象化するということ。

そこには、私たちが普通に考える自由意志というものが入り込む余地などないということです。自分の人生は自分の決意によって決められると思っているのは、間違いだったと知ることになりました。

確かに自分が何らかの行為をしているようにも見えるのですが、それは物理的にそう見えるだけだということです。

つまり、この世界には真の行為者というものは一人もいないということ。これを受け入れるのは、至難の業かもしれませんね。

ですが、もしもそれを腹の底から認めることができたとしたら、どんな人生が待っていると思いますか?それにはメリットどデメリットを考えて見ればいいのです。

まず、デメリットからですが、手柄というものが一切なくなってしまうということ。自分の能力と頑張り、そして努力によって何を成し遂げたとしても、その成果を自分のものとすることができないということ。

なぜなら、そのことに対する行為者ではないからです。いかなる結果を出すことができたとしても、それを自分の功績とすることができないのです。

その代わりにメリットもあります。それは、帳消しにしてしまいたいような失敗や罪深い行為などもすべて、行為者の立場から開放されるということです。

罪悪感や自己嫌悪、自己否定感などから開放されます。このメリットは計り知れないくらいに、人生を軽やかで平安なものにしてくれるでしょう。

そして、更なるメリットは、責任や義務、あるいは重荷などからも解放されるはずです。今日から、あなたは真の行為者ではないということをいつも意識してみて下さい。

勿論このことは、自分だけではなくて周りのすべての人にも当てはまることですので、誰かのことを責める必要もなくなるという特典つきです。

新規講座開始

昨日の日曜日からまた新しく講座が始まりました。ヒーラー養成講座とカウンセラー養成講座の二つの講座が午前、午後とあったのですが、どちらもルシッドの講座は初めてという方ばかりでした。

それもあってか、私自身がとても新鮮な気持ちで初回に臨むことになりました。そして、フタを開けて見ると、以前よりも遠慮なくドンドン言いたいことを言っている自分に気づきました。

今まで講座を受講された方々がどう感じられてたかは分かりませんが、私なりにあまりに常識から外れたようなお話しは慎むようにしていたつもりでした。

それが、これまで以上に初めてお会いした方々に対して、自分が信じるままにお伝えしている自分に気が付きました。

例えば、ヒーラー養成講座において、常々お伝えしていることは、自分がヒーリングしているという自覚を捨ててくださいということ。

ヒーラーが自分自身の能力や努力、そういった独自のものを使ってヒーリングしているという思いは、それだけヒーリングの効果を阻害してしまうからです。

しかし、気が付いたらもっとダイレクトな表現を使っていました。それは、自分はヒーリングの時だけではなく、いついかなるときもその行為者ではないということ。

ここまでの表現は確か今まではしていなかったはずなのです。そういった制限が、自分の中で崩れてきているんだなと思わざるを得ません。

そんな私の話しにも、みなさんよくぞ付いてきて下さってるなと、時々感心しながらも、先へ先へと遠慮なく手綱を緩めることも忘れて、講座は進んでいきます。

この先、受講生のみなさんの癒しがどれだけ進んでいくのか、それを脇から見させていただけることがとてもありがたいと思います。

講座の終わる来年の3月初めの頃には、みなさんきっと大きな気づきをいくつも通り越して、本当の自己との距離が近づくことと信じています。それを思うと、今後がとても楽しみでワクワクしてきます。

超能力への憧れ

子供の頃からあらゆる超能力に対して、憧れを持っていました。一世を風靡したユリゲラーという人が来日して、スプーン曲げなどを披露するのを見たら、自分でも試して見たり…。

勿論そうしたことにのめり込むまでには至らなかったのですが、そうした不思議な能力に対する興味や憧れがなくなったことはありませんでした。

会社員を辞めて、ヒプノセラピーやヒーリングのクラスに行くようになって、それまでの自分にとっては不思議な能力だと思っていたようなことを、実際持ち合わせている人が周りに増えてきました。

それで自分もオーラが見えるようになりたいとか、幽体離脱ができるようになりたい、リーディングや予知などができたらいいのにと思うようにもなったのです。

ところが、神はどうしたわけか、友人たちにばかりそうした能力を授けておいて、私には一つたりともそういう能力を授けてはくれなかったのです。

不思議なもので、もしかすると自分にも超能力が開花するときがくるかもしれないという、はかない期待がなくなった途端に、そうしたものへの憧れもきれいに消えていきました。

そして今となっては、そうした超能力が自分にはなくて本当によかったとさえ思えるようになったのです。それは、その能力を欲する自分とは誰かということを考えるようになったからです。

もしも、私にそうした能力があったら、きっと真の自己を探求するうえでの大いなる邪魔者になったであろうことは想像に難くありません。

なぜなら、元々あった超能力への憧れというのは、自分を守ろうとするエゴの欲望に他ならないからです。そこから脱することを難しくしたはずです。

こうしたことは頂上体験などと言われるようなものにも当てはまるのです。誰がそれを体験したいと願っているのかが重要なところです。

一過性のものには、本質的には何一つ価値のあるものはありません。永遠である本当の自分を発見することにこそ、本当の真実があるのです。

部分を見れば苦悩する その2

昨日のブログでは、私たちは全体の中の部分だけを見ることによって、苦悩することになるというお話しをしました。

そのことについて、もう少し補足したいと思います。私たちの傾向は、全体よりもその一部分である個人としての自分の幸せを目指しています。

したがって、私という個人が苦悩することを目標にすることはありませんので、苦悩を拒絶するようになるのは当然のことです。

ところがこの拒絶こそが自分を不幸にする根源なのです。拒絶というのは、言い換えれば恐れであるとも言えるのです。

恐れとは愛の欠如であり、そのときには苦悩は耐え難いものと感じるようになってしまいます。それこそが不幸なのです。

逆に、部分である個人の代わりに、全体性を見るようにすることで、現実は一変します。勿論苦悩がなくなるわけではないのですが、それにOKを出すことになるからです。

拒絶する苦悩と、受容される苦悩には大きな違いがあります。全体性の中で生きることができれば、あらゆる苦悩を抱きしめることができるのです。

私たちは非常に小さな個人という部分に、自分の視野を限定してしまったのです。それこそが、「私」という想念に違いありません。

「私」とは誰かをよ~く見てあげると、それがでっち上げられたものであることが良く分かってきます。それは、私は人間である、私は日本人である、私は男性である、私は○○歳である等々。

このように、「私」を説明するためには、○○である、といった属性を羅列させるしか方法がありません。

これは、英語で表現すれば、I am Japanese. などのようなものであり、もしも実在の私を表現するなら、I am. で止めることになり、それは、日本語では「私は在る」ということになるのです。

私とはあれやこれやというものではなく、何の属性もない、ただそれとして在るのです。それこそが、全体である真の自己なのです。そこには、拒絶がないので至福だけがあるのですね。

部分を見れば苦悩する

野生動物というのは、弱肉強食の世界で成り立っているのは、誰もがよく知っていることですね。ライオンが弱いシマウマの子供などを襲っているシーンは、テレビなどでよく見かけることができます。

その場面だけを見れば、あるいは襲われたシマウマの親の気持ちになってみれば、これ以上悲惨な出来事はありません。

ですが、シマウマがいなければライオンは飢え死にしてしまうかもしれないし、ライオンがいなくなってしまったら、シマウマの生態に変化が起きる可能性だってあります。

つまり野生動物の生態系全体を維持していくためには、そうした弱肉強食のメカニズムはなくてはならないものだということです。

全体のためにこの構成要素としての部分があると分かれば、個別に起きている一つひとつのシーンにいい悪いということはないと分かります。

同じようにして、全体としての宇宙の一部に銀河系があり、その一部に太陽系があって、我々の地球とはその部分であるわけです。

その地球の一部として人類がいて、その中の一人に「私」としての存在があります。もしも、私たちが全体を見ることを忘れなければ、苦悩はありません。

ところが、残念なことに「私」は、自分の人生のことにばかりいつも意識を集中させているために、苦悩が付きまとうことになってしまうのです。

それは、全体からすればほんの一部分だけをずっと見ていることになるからです。この間違いとは、実は全体を部分に分けることができるという妄想が基になっています。

真実は、全体を分割することはできないと分かれば、「私」とは全体の一部ではなくて全体そのものと融合していると知ることになります。

もっと言えば、全体の中に「私」がいるのではなくて、私が全体であることこそが真実だと気づくことです。覚醒した賢者は、共通してそのようなことを言っています。

本当の自己を感じるようにしていると、そのことが心の底から腑に落ちるようになります。騙されないことです。この世界は、私の内側に内包されていると気が付くことです。

目をつぶれば世界が消える その2

先日のブログで、目をつぶって生活することが多くなってきたお話しをしました。そして、目をつぶると、この世界は消滅して、代わりに音だけの世界がやってくるとも言いました。

量子力学では、物質とは単独に存在するのではなくて、観察するものに依存しているのだということが分かっています。

つまり、自分にとって目を閉じてこの世界を見ることをやめた瞬間に、この世界を形作っているすべての物質が存在しなくなると言うことを科学が説明しているのです。

自分にとってというところがミソです。そして、それは物質が存在する空間についても同じように、その存在が消滅すると言ってもいいと思います。

そうすると、自分にとってどういうことが同時に起きていることになるかというと、その空間の中にあった自分の身体も消滅したということです。

簡単に言ってしまえば見てないもの、見えないものはないのです。そして驚くべきことに、自分とは身体が消滅しても何ら変わらないままに自分は存在し続けるという感覚です。

このときにはっきりと、自分は身体ではないということに気づくのです。そしてついでにもう少し実験をして見ます。

安全な場所で、目をつぶったまま、つまり自分の身体もこの世界も消滅させたままで、少し歩いたりして身体だと感じているものを動かしてみるのです。

そのとき、自分ではどんな行動をとったつもりになったとしても、自分はまったく動くことができないのだと分かります。

身体もその周りにあったと思い込んでいた空間すらないのですから、自分が移動することができなくても当然なのです。

こうしたことは、自分の気持ちをなるべく素直な状態にしてから行って下さい。今まで培ってきた常識や思い込みを使うとそれが邪魔になるからです。

目を閉じたら、あなたは身体ではなくなり、そして移動することさえできなくなるということを体感していただきたいと思います。

助けてもらってはいけないという思い込み

この世界では、通常、幼い心である依存状態から、成熟した心である自立の状態へと進化していくことが良いことだとされています。

何もかも未発達な子供は自分ではできないことが多くて、それを両親や周りの大人たちからの支援を受けながら成長していくわけです。

その過程において、少しずつ自らの能力を向上させていき、大人になる頃には精神的にも経済的にも自立することを期待されます。

その期待値は、女性よりも男性に対しての方がより強い傾向があるように感じます。一般的に言われるのは、女性には優しさが求められる一方で男性には逞しさが求められるという点とも符合しますね。

したがって、特に男性により多く見られる傾向なのですが、立派な大人、社会人にならなければならないというプレッシャーを持っていることが多いのです。

そして、そのプレッシャーの中には、誰にも助けを求めずに、自力で難関を突破していくべきであるといった考え方があるのです。

そうすると、苦難がやってきても、おいそれと他人に助けを求めることができなくなってしまうのです。それは、「助けてはもらえない」あるいは、「助けてもらってはいけない」という思いに成長します。

勿論それは当人だけの思い込みであって、周りの人たちはそれほど冷たいわけではないのですが、本人が助けを求めてこないだけでなく、苦しみを隠そうとするので、結果として誰も手を差し伸べないという状態となるのです。

このような人生がとても孤独であるということを想像するのは、それほど難しいことではないですね。困っても、素直に助けを求めることができないのですから。

しかし、こうしたことは社会的なプレッシャーからきた単なる間違いであるということを認めることができれば、生き方を変えていくことも可能なのです。

もしも、素直に「苦しいので助けて欲しい!」と表現することができたら、本人はどれほど安堵することができるでしょうか。

自分は該当するかもしれないと感じるなら、勇気を持ってその言葉を言ってみることです。「私を助けて下さい」と。これは聖なる言葉です。

すると、あれほど苦しかった毎日が、びっくりするほど楽で平安なものに変わっていくはずです。仮に騙されたとしても失うものは何もありません。実践あるのみです。