私たちは、今自分が行為していることの多くを、何等かの目標達成のための手段に変えてしまうのです。事の発端は、決して手段ではなかったとしてもです。
このことは先日このブログでも書きました。もしもあなたが、何かの行為をしているなら、なぜそれをしているのか?と人はその目的について質問するはずです。
それは、きっと何か目的があってやっているだろうと予想してしまうからです。もしもあなたが庭に穴を掘っているとしたら、それを見た知人はなぜ穴を掘っているのですか?と聞くはずです。
ただ穴を掘りたいからとあなたが答えたとしたら、誰もその答えには納得することができないでしょうね。このようにして、エゴは常に目的指向で物事を判断するのです。
けれども、子供が折り紙で何かを折っているとしたら、何を折っているの?という質問はするかもしれませんが、なぜ折り紙をしているの?とは聞かないはずですね。なぜなら、折り紙を折ること自体が目的だと知っているからです。
そこには、手段と目的の分離がないのです。でも上手に折って、親などに褒めてもらおうという思いがあるなら、そこにはすでに手段と目的の分離が出現してしまいます。
このようにして、エゴは物凄く巧妙に私たちを目的指向へと巻き込んでいくのです。あなたの行為が何かの手段であるときには、その手段の結果として達成するべき目的や目標があるのです。
けれども、その行為が手段ではなくてそれ自体が目的であったとしたら、未来に達成されたものがあったとしても、それは単なる成り行きであるということです。
この成り行きと結果の違いは月とすっぽんほどの違いがあります。成り行きとしての達成は美しいのですが、結果としてのそれはエゴの匂いがプンプンします。
エゴは成り行きには価値を見出すことができないのです。だから、結果を求めるのです。人生に価値を見出そうとすれば、即エゴに乗っ取られることになるのです。
無邪気な子供がただ楽しくて折り紙を折るように、あなたの遊び心を刺激してやまないことと共に生きることができたなら、エゴはその勢いを失うことになるはずです。
そしてその成り行きとして、あなたの心は満たされることになるのですね。