よく「プライドを持て」、ということを言われることがありますね。プライドを高く持つこととは、自分を肯定的に見るということのように思えるかもしれません。
プライドというと、中学生のころに be proud of などという慣用句を習った覚えがあります。けれども、日本語でプライドというと、オリジナルとはまた違ったニュアンスの意味を持っているようにも感じます。
端的にいって、プライドとは自己防衛の一つの戦略であるということです。もしもあなたが、心から満たされているなら、プライドはまったく持つ必要もないはずなのです。
プライドが高ければ高いほど、自己防衛がそれだけ強いことを意味し、それは影に隠れてはいるものの、自己否定感が強いということを物語っているのです。
だからこそ、あなたがもし自分のプライドを傷つけられたと感じたら、それはもうひどく怒りが出るだろうし、その事実を決して認めたくないと感じるはずなのです。
もしもあなたが、自分のプライドが傷つけられたと感じたことがあるなら、それは気づきの大チャンスだったと理解することです。なぜなら、そのときにあなたは、自分の防衛システムを点検することができたからです。
あなたがどんなプライドを持っていようと、それはすべて不要なものです。そのプライドを守ろうとしている限り、エゴがあなたをコントロールしていると思って間違いありません。
あなたが自分のプライドが傷つくことを恐れずにいれば、エゴは衰退するしかなくなるのです。もちろん、そのときにあなたのマインドは傷の痛みを味わうことになるのですが…。
プライドが踏みにじられるのは恐怖であり、惨めな体験であることは間違いありません。なぜなら、守っていた砦を壊されてしまったからです。
散々に壊されて、もうどうにも自分を守ることなどできなくなったときに、あなたは本当に自分のあるがままでいいということに気づかされるのです。
それは何物にも代えがたい清々しさであるはずです。