普段やっている瞑想とは違って、目を開けたままだったり、身体を横たえたりして、つまりもっと自由に自分を見るということをしていると、いろいろな気づきがやってきてくれます。
自分の身体を見て、身体からやってくる無数の感覚を見、マインドの中の思考を見、ハートにある感情や気分を見て、そういうきわだったものをまず見ていくのです。
そうしていくうちに、言葉では表現するのが難しい何らかのものが見えてきます。もちろん、見えるといっても知覚ではない何かで見ているのですが。
そうすると、まず間違いなく自分は身体では決してないということが、分かってきます。それはいつもよりも、より明確に分かるのです。自分は誰の目からも見ることのできない存在なのだということがはっきりするのです。
それなら、自分の身体を他人に見られても不快に感じる必要はないはずなのですが、それでもやはり他人が自分のことをこの身体と同一視して見ているということが分かるので、結局同じことになるのだということもわかりました。
また、じっと自分を見ていると、自分の本質が、自分が普段イメージしているような人物でもないということも感じることができます。無理に人物としての自分を見ようとすると、過去を紐解かなければならないことに気づくのです。
つまり、人物というものは、これまでの過去の体験から作り上げられたものであり、そのデータはパソコンで言えば外部記憶装置の中に蓄積されたものなのです。また、人物を作る上で身近な情報はより短時間にアクセスできるように、メインメモリ上に常駐してあるのです。
そのあたりは、本当にコンピューターと違わないのですね。だからこそ、ただただ自分を見ていれば、今この瞬間の自分だけが見えるわけで、そこには人物としての自分や人格のようなものまでないということがわかります。
思考を見ている自分は一体何だろうと見ていると、二つの場合があるのかもしれません。一つは、まだ思考によって見ているということ。残念ながら、ものすごく奥の方にも思考とは捉えられないような思考があるような気がするのです。
もしも、この思考さえも突き抜けて、自分を見ることができるなら、そのときこそは、自分を見ていることが自分に戻ってきて、それから先がなくなるのです。それは表現することのできない、純粋な何かです。それこそが、本当の自分の姿なのですね。
いつもそこまで見通すことができるようになれたらいいのですが…。