– osho –
身体になにか痛みがある時、身体全体を忘れ、痛い部分にだけ集中する。すると奇妙なことに気づくだろう。痛い部分に集中すると、その部分が小さくなっていくのだ。最初は脚全体が痛いと感じる。だが集中すると、それが脚全体ではなくなってしまう。つまり誇張だったのだ。痛んでいるのは膝だけだ。
さらに集中する。するとそれが膝全体ではなくなり、針先ほどの点になっていく。さらにその針先の点に集中する。身体全体を忘れる。目を閉じて集中を続け、その痛みがどこにあるか捜してみる。すると痛みはどんどん縮小していく。その範囲はますます小さくなる。そのうち痛みはただ針先ほどの点になる。その針先の点を見つめ続ける。すると突然その針先の点は消え失せ、あなたは至福に満たされる。痛みの代わりに、至福にみたされる。
なぜこんなことが起こるのか。それは、あなたと身体とが別々であって、同一のものではないからだ。集中している者があなただ。集中は身体に対して行われている。身体は対象だ。集中すれば、その隙間は拡げられる、つまり同化が壊される。集中することによって、あなたは内側へと向かい、身体を離れる。痛んでいる箇所を眺めるためには、離れる必要がある。そのように離れることによって隙間が生まれる。痛みに集中すれば、あなたはその同化を忘れ、また「私は痛みを感じている」ということも忘れる。
今あなたは観察者であり、その痛みはほかのところにある。あなたはその痛みを観察している--痛みを感じているのではない。『感じることから観察することへ』のこの変化が隙間を生む。そしてその隙間が大きくなったら、突然あなたは身体をすっかり忘れ去る。あなたは意識だけを自覚している。
いったん自分が身体ではないと知ったら、あなたの生は完全に変わる。あなたの生はすべて身体を中心にして存在している。いったん自分が身体ではないと知ったら、この生を続けることができなくなる。中心がなくなってしまう。
自分が身体ではないとしたら、違った生を創らなくてはいけない。その生は探求者の生だ。違った生だ。中心が違ってくる。そしてあなたは世界の中で、魂として存在するようになる。身体としてではない。もし身体として存在したら、そのときあなたの創造するものは別の世界だ--物質的損得の、貪欲の、悦楽の、情欲の、セックスの世界だ。あなたが自分のまわりに創造している世界、それは身体指向の世界だ。
いったん自分が身体でないと知ったら、あなたの世界全体は消え失せる・・・もうその世界は維持できなくなる。そして魂を取り巻く別の世界が現れる--それは慈悲の、愛の、美の、真実の、善の、無垢の世界だ。
中心は移動した。もう身体にはない。意識の中にある。