私たちは、誰もが自分は独りだということを知っています。それは必ずしも孤独であるということではありません。ただ単に独りであるということです。
外側の世界に目を向ければ、そこには大勢の人々がいるし、様々なモノが溢れていて、そこに目をやっている限りは自分はみんなと共に生きていると感じることができるのです。
けれども、ひとたび内側へと目を向ければ、そこには自分以外の誰もいないことは明白です。私たちは、何と不思議な内側を持っているのでしょうか?
もっと不思議なことがあるのですが、それは誰もが自分の内側について本当の意味では知らずにいるということです。自分のことを内側から見るということに、慣れていないのです。
たとえばセッションの中で、他人に対してはっきり「ノー!」と言えないのであれば、その理由は何だと思いますか?というこんなシンプルな質問についても、よく分からないと答える人もいます。
あまりにも自分のことを知らずに生きているとしか言いようがありません。もっともっと自分に興味を持ってもいいはずなのに、自分そのものへの興味の代わりに、自分が外側からどう見えるのかということに強い関心を持っているのです。
そのことも不思議なことと言えばそう言えるかもしれませんね。ずっと以前から私の中で非常に不思議なこととして、解決できずにいたことがあったのです。
それは、自分自身に興味を抱いている人と、そうでない人の二種類の人々がいるということです。自分の内側、自分の本質を深く探っていきたいという欲求がないことが、不思議なのです。
私があまり他人に興味を示さない人生を生きてきたのは、他人の内側を探求することができないからです。それは自分にしか当てはまらないことなのですね。
どれほど愛している人のことであっても、自分の内側を見るようには相手の内面を見ることはできません。それは、類推できるというレベルが限度なのです。
だからやはり、探求のターゲットは自分に限られてしまうのです。そして、内側を見ようとすると、そこは果てしなく広大な宇宙のような気がしてきます。
宇宙と違って、内側には無限の深みを感じることができます。そこには一体何が在るのか?自分は本当にそこにいるのか?いるとしたら、どんなものなのか?
今までのところ、私の探求結果としては、私の内側には誰もいないということです。内側でのこうした遊びが好きだったことは、とてもラッキーでした。
この遊びはお金も労力もいらないし、遊びながら深く寛げる自分だけのスペースを見つけることもできて、本当にお勧めなのです。