何もなさを観る

私たちは、何となくであろうがはっきりとであろうが、自分はこの身体だと思っている部分を持っているのです。身体は目に見えるし、いつも一つのまとまりとして存在してくれているので、分かりやすいのです。

おかげで、自分があっちにいたりこっちにいたりということがなくて済むのですから、身体は都合がいいものですね。けれども、身体をどう細かく切り刻んで行ったとしても、身体のどこかに自分がいるとは思えません。

ということは、身体=自分という具合にシンプルに感じているわけではないということです。身体の中のどこを捜しても、自分を見つけることができないとしたら、一体自分はどこにいるのか?

身体ではないとすると、心だという声が聞こえてきそうです。心とか、マインドという目には見えないけれど、まさしくここに自分がいるという感覚があるので、見つけられなくても私たちはそれほど困らずにいるのです。

マインドがどの辺りにあるのかも明確には分かりません。そして、内面深く、さらに深く進んでいくと、マインドというものも曖昧になってくるのです。そのときに、自分は身体でもマインドでもないと気づくことになります。

すべての自己同一化がはずれたときに、これまで想定していた自分というものがもろくも崩れ去り、後には何も残らないことに気付かされるのです。つまり、何もなさこそが、自分の本当の姿だったということ。

何もなさということは、一つのまとまりなどというものとは程遠く、どんな境界もありはしないのです。所在というものもないし、大きさも何もかもが無いということです。

これを感じようとしたときに、恐怖がやってくるならそこにはまだマインドと同化したエゴがあるということです。日常の生活をこなしながらも、こうした何もなさをどこかで感じつつ生きることができるなら、5年後10年後には何かが変わってくるでしょうね。