あれは2〜3年前のことでした。自分がいる世界と自分がいない世界とで、どちらが自然だろうかを見ていたときのこと。突然、自分がいない状態、非常に明確な自己不在の気づきの中に放り込まれたのです。
といっても、放り込まれる誰もいないのですから、これは言葉のあやなのですが。先ほどから、あのときのことをぼんやりと思い出していたのですが、そうしたらなぜか、「いなくていいんだ」というのが来たのです。
そう、自分はいなくてもいいんだという、とてもとても優しさに満ち溢れた受容の言葉、そしてそれを聞いたときの深い安堵の気持ち。
ということは、自分はいなければいけないんだ!と思って、ずっと頑張って来たのかもしれないと感じたのです。だからこそ、いなくてもいいよと許可をもらって安心したのかもしれません。
常識的には、いなくていいと言われたら、「お前なんかいなくてもいいんだ」と言った非常に否定的なニュアンスを感じるのでしょうけれど、それとは根本的に異なる深い愛のような言葉なのです。
今まで長いこと、まったく気付かずに自分はいなくてはならないのだと、それが自分の義務なのだと思っていたということに気づいたのです。
幼い頃に、周りの期待に応えようとして、自分がいるという思い込みの中に深く入り込んだのかもしれません。
なぜいなくてもいいのかと言えば、真実は自分などいないからですね。いない自分にどんな責任も義務もあるはずがありません。この限りない気楽さを忘れないでいるようにしたいですね。
これを読んでピンと来なくてもまったく大丈夫です。というよりピンとくる方が変ですよね。でも万が一、ピンと来るものがあったら深刻になりそうなときにこそ、これを思い出すことです。