最上級の思考とは?

一口に思考と言っても、高度に洗練されたものから取るに足らないくだらないものまで、本当にピンキリですね。

難問を解くのも思考だし、仕事の段取りをつけたり、未来を予想するのだって思考の役割なのです。

本を読んだり、誰かと議論を交わしたり、他愛のないおしゃべりをするのだって、思考があってできること。

このように、私たちの毎日は思考がなくては全くもって成り立たないのです。このブログを書いたり読んだりするのも思考が行なっているのです。

それなのに、このブログではどうも思考を目の敵のように言っているように感じてしまうかもしれません。

けれども、気づかなくてはならないのは思考が悪者なのではなく、思考だらけになってしまって、思考を使っているということの認識もできなくなってしまうことが問題なのです。

思考ほど便利なツールは他には見当たりませんが、ただ思考と思考の間、つまり思考がないところに気づけなくなることが大問題なのです。

そして最上級の思考とは、思考が退いた時にそこに真実が広がっているということをイメージできることなのです。

思考自体が思考の限界を知ることができれば、いつかは自然と思考が真実に道を譲るときがやってくるのだろうと思うのです。あ、これも思考ですけどね…。

<行為>かそれとも<行動>か?

<行動>は決して内側から湧き出て来るものじゃない
それは<過去>からやって来る
あなたはそれを何年もかかって溜め込んで来たのかもしれない
で、それが現在の中へと炸裂する
それはつじつまがあわない
しかし心は巧妙だ
心はつねにその行動に正当な理屈を見つける

by osho

眠くなったら寝る、あるいはお腹が空いたら食べる、こんな当たり前のことをしなくなっているのが現在の私たちの生活かもしれませんね。

社会とか家庭といった共同生活の中では、ある程度のルールに沿って生きることは理にかなったことですが、それも行き過ぎるとお腹が空いてなくても食べるということが頻繁に起きてきます。

お腹の好き具合よりも、時間が来たので食事するということが多いのではないでしょうか?osho はそれを<行動>と言っているのです。

出されたものを完食する方がいいというのも、分からないではありませんが、その日の体調に応じて場合によっては残す方が身体にとっては自然なはずです。

私たちの硬直した考え方、正しさが自然な<行為>よりも<行動>を促すことになるということです。

病的なレベルになれば、過食や拒食といった症状を起こすこともあり、その原動力は過去に溜め込んだ不満のエネルギーなのです。<行動>はいつも不自然であり、<行為>は自然なもの。

自分の1日を振り返ってみて、<行為>が中心となっているのか、あるいは<行動>で埋め尽くされているのか、よく見てあげることですね。

ちなみに思考が緩めばそれだけ<行為>が多くなり、マインドが活性化すればするほど、<行動>するようになるはずです。

あなたは体験者ではなく、観照者だ!

体験されることはすべてみな幻なのだと覚えていればいい
体験する者のみが真実なのだ
観照者に注意を払いなさい
体験にではなく
その観照者に焦点を合わせなさい
たとえどんなに素晴らしくても
いっさいの体験はみな夢もどきにすぎない
ひとはそれらをすべて乗り越えて行かなくてはならないのだ

by osho

↑このことに気づきたくないばっかりに、私たちはいつも何かをし続けているのです。そうして、あらゆる体験の中にいようとするということです。

本当に何もしないでいると、ふいに観照者に意識が向いてしまいそうになるので、危ないとばかりに何かを考え出したり、急に立ち上がって洗濯物を取り込みに行ったりするのです。

するべきことなど何もないのだと気づくと、今度は身体を不調にさせて意識を具合の悪さへと向かわそうとするのです。

こうしたことは、誰でもやっていることで、ただそれに気づいているかどうかの違いがあるだけなのです。

私たちは体験だけで生きていると言っても過言ではありません。「こんなことが目の前で起きた」というような場合でも、その起きたことを見ていたという体験をしたのですから。

今日1日何をしていたの?と聞かれたら、あなたはきっとどんな体験をしたかということを思い出すはずです。時系列を追って連続した体験を話すでしょうね。

そのときに、ふいにどんな体験とも無関係な自己があることに気づくかもしれません。体験を目撃している観照者に。それがほんとうのあなたなのですね。

一度気づいてしまったら、忘れることはあっても、観照者が消えてなくなってしまうことはありません。ただ思い出せば、必ずまた浮き出てきてくれるはずです。

何をしてもいいし、何もしなくてもいい

もしもあなたが、罪悪感という恐怖から逃げずにいると決意して、実際にそうし続けることができるなら、本当に何をしてもいいのです。

私たちが、あれはダメ、これはいけない、とルールで自分や他人を縛ろうとするのは、罪悪感を恐れてそれから逃げようとする行為に他なりません。

激しい罪悪感や自己嫌悪感が来たら、マインドはもたないと感じているかもしれませんが、本当のところマインドはそれなしでは生きられないという特性を持っているのです。

もしもまったく罪悪感も自己嫌悪感もなくなってしまったら、つまり清々しい人生になってしまうなら、マインドはその分だけ勢いを失っていくのです。

マインドにとって一番活力をもらえるのは、罪悪感がやってくるような言動を行いながらも、それから逃げ続けてくれるような毎日です。

あるいはするべきことをせずにいて、自己嫌悪を持ちながらも、それを見ずにグズグズ生き続ければ、やはりマインドは元気になるのです。

罪悪感は辛いし、自己嫌悪も苦しいと思いながらも、いつまでたってもそれらから逃れられないでいるのは、そうしたマインドの裏事情があったというわけです。

このことを深く理解するとともに、罪悪感や自己嫌悪がやってきたらチャンスとばかりにそれらを感じ尽くしてあげることです。

そうすれば罪悪感も自己嫌悪も怖くはなくなり、次第にそれらは薄れていくはずです。そうなったらあなたは自由な人生を手に入れることになるのです。

どんなルールにも縛られず、何をしてもいいし、何もしなくていい。マインドが小さくなればなるほど、あなたはシンプルな人生を送ることになるのですね。

不安を敵対視しない

どんな人のマインドの中にも、不安と孤独があるのです。たとえ本人にはその自覚がなかったとしてもです。なぜならそれは分離感からやってくる原理的なものだから。

不安を感じる強弱というのは確かに人によって違いがありますね。不安があっても、「何とかなるさ」という気軽な気持ちを持ち合わせているといいですね。

逆に、どうしたらいいのだろうと考え過ぎて深刻になってしまうようだと、不安はより一層強くなってしまうかもしれません。

まずもって大切なことは、不安は個人として生きている限りは必ずあるものだという深い理解をすることです。個人は、自分と分離している外側のことは分からないことばかりなので、安心できるはずがないのです。

したがって、自分の不安と他人の不安を比較する必要もないということです。つまり不安は必ずあるので、不安を敵対視しないこと。不安から逃げないようにするのです。

不安はお友達というくらいに思えるようになったら本当はいいのです。そうなれば、不安を対処しようとすることが小さくなっていくからです。

そうして不安の中にいる自分を優しく見守ってあげること。さらに言えば、不安は物語の中にしかないということへの気づきもやってくるはずです。

その先には、手放し、明け渡しと言われる状態へと進むのでしょうね。そのときには、マインドは静かになってしまうはずです。

思考をただ見守ること

ちょっと自分の心を見守れば、あなたは要点を見抜くだろう。

あなたは過去のことを考えているか・・

それはもはや存在していない、

あなたはエネルギーを無駄にしている・・

あるいは、まだ存在していない未来を心に描いて、

またもや自分のエネルギーを無駄にしているか、

そのどちらかだ。

by osho

確かにそうですね。私たちはいつも過去か未来のことを考えて暮らしているのです。例えば、今目の前にはいない人のことを考えているとしましょう。

その人は今ここにいないのですから、当然過去一緒にいたときのことか、あるいはこれから会う未来のことかのどちらかになります。

結局、過去も未来もどちらも現実にはないものなので、思考によって非現実の世界で時を過ごしているということです。つまり、エネルギーを無駄にしているということ。

ではどうやって、過去と未来のことを考えずにいることができるのか?それは、私の経験上不可能なことのようです。思考を止めようとしてしばらくは静かにすることができても、またすぐに気づくと思考に飲み込まれてしまうのです。

勿論思考をできるだけ止めて、過去にも未来にも行かないように心がけることは決して悪いことではありません。そのように生きれたらそれは素晴らしいことですね。

けれども、もっと現実的な方法があるのです。それは、今この瞬間に過去や未来のことを考えているマインドを見守ってあげるということ。

見守るマインドの部分は過去へも未来へも行きません。つまり、思考に気づいていればいいということです。この方法は非常に現実的です。

思考そのものをコントロールしようとする代わりに、それをただ静かに見守ることで、自然と思考はエネルギーを失っていくのですね。

くつろいだ注意深さ

温泉などに浸かって気持ち良い状態であれば、くつろいだ静かな気持ちになることができますね。そうなると、眠気がやってきたりして無意識になっていく傾向があるのです。

逆に、何か心配事などについてグルグルと考えたりしていると、いざ寝ようと思っても目が冴えてしまって寝ることができなくなったりするものです。つまり無意識にはなりにくくなるわけです。

この二つの状態のいいところだけを取ってきて、合わせてあげることができるなら、それこそが瞑想状態だと思えばいいのです。

つまり充分にくつろいでいる状態でありながらも、同時に注意深さもなくさないでいるということ。これこそが、くつろいだ注意深さなのです。

ここで気をつけなくてはならないことは、ある特定のターゲットに対して注意深くあるということではありません。一点に集中するのではなく、全体に耳を傾けるという感覚。

難しいのは、私たちは注意深くいようとすると、どうしても緊張してしまうのです。その緊張はすぐに身体に表れるので、自分の身体の状態を見てあげて、くつろいでいるようにしてあげるのです。

身体がくつろいでいられれば、内側も次第にくつろげるようになるからです。その様を注意深く見守ってあげるようにすると、自然とくつろいだ注意深さがやってきやすくなるはずです。

この「くつろいだ注意深さ」を日頃から忘れないようにして、練習を続けることをお勧めします。と言っても、私自身もすぐにそこから逸脱してしまうんですけどね。練習あるのみです。

悲しみだけがくれる贈り物

悲しみがやって来たら、受け入れてごらん。

その歌を聞いてみなさい。

それには、あなたに与えるものがある。

それは、幸せには与えることのできない贈り物を携えている。

その贈り物は、悲しみだけが与えることができる。

by osho

今から17年前の西暦2000年に、私の人生にそれまで体験したことのない様々な出来事が怒涛の如くやってきたのでした。

癌を患って、向こう5年間生き伸びる確率を宣言されたり、サラリーマンを辞めることになったり、そして癒しの作業が開始されたのもその年でした。

その癒しの中で、それまで感じたことのなかった感情を味わうことになったのですが、その時に驚いたのは「悲しみ」は決して悪いものではないという感覚でした。

悲しいので沢山涙を流すのですが、それは悲しみだけがすることのできる何か浄化のような深い味わいがあることに気づいたのです。

それ以来、感情は友達と思えるようになったのです。大切なことは、悲しみに限らずどんな感情がやってきたとしても、なるべく受け入れること。

それには決してそれまで自分が求めていた幸福感や都合のいい感情には与えることのできない奥深い何かがあるのです。

うわついた薄っぺらな生き方をしてきたのだということ、そのことを悲しみが裁くことなく教えてくれたのかもしれません。

それからというもの、他人が感情を表現する姿を見ても、困ったり動揺したりすることがなくなりました。それよりも、解放された感情たちによかったね!と言ってあげたくなるのです。

あるがままでいれば、どちらでもいいがやってくる

人によって物事の考え方や感じ方はそれぞれ異なるものですね。だからこそ、千差万別の人生があるのでしょう。

あなたの人生にとって、最も重要と思えること、一番重きを置いていることはどんなことでしょうか?

正しい自分でいることが大事なのか?あるいは、何かの役に立つことが大切なことなのか?はたまた、何であれ価値ある自分でいることこそが重要なのでしょうか?

もしも正しい自分でいようとすれば、正しくない自分は否定されてしまいます。役に立つ自分でいたいなら、役に立たないと思える時に、苦しくなってしまうはずです。

あるいは、価値ある存在でいたいのなら、価値を感じられないときには、惨めな自分になってしまうでしょうね。

より正しく、より役に立つ、より価値ある自分になろうとすれば、必ずや自己否定にやっつけられてしまうことになるのです。

正しいか正しくないか、役に立つか立たないか、あるいは価値があるかないか、こうしたことに殊更のこだわりを持ってしまえば、あるがままの自分が否定されることになります。

逆にあるがままでいられるなら、どちらでも構わないという心の状態がやってきてくれるのです。どんなこだわりも人生を狭苦しいものにしてしまう可能性があると気づくこと。

こだわらずに、ただあるようにあること。肯定も否定もなければ、思考も自然と落ちてしまうでしょうね。

信念はいらない

10代の頃に、神はいるに違いないとか、いやそんな存在はいないだろう、などととりとめなく考えていたことがありました。私の内面の特徴は、その考えがコロコロと変わることでした。

つまり、しっかりした信念というものがなかったということです。何か他人から聞きかじった情報によって、すぐにそれを信じてしまったりしていたということです。

今となっては未熟な自分であっても可愛いなあと思えるのですが、信念がないというのは実は今でも変わらないのです。

というのも、神はいると信じることと、神はいないと信じることはまったく同じことだと分かるからです。一つのコインの表と裏の関係のようなもの。

信じたり信じなかったりというのは、どちらも物語の中でのこと。違う表現をすれば、神は信じたり信じなかったりするターゲットではないということ。物語の外側だからです。

これが全体性であり、真実と言うことです。どんな言葉を使おうと構わないのですが、こうした理解をしない人が神について話しているのを聞くと、ただ黙っているしかないのです。

なぜなら真実は、信念の対象でも議論の対象でもなく、ただ在るものだからですね。