尽くす人って?

力の限りを尽くして闘うというように、「尽くす」という意味は、持ってるものを出し切るということですね。使い果たすとか、それが本来の意味だと思います。

けれども、「尽くす人」というとちょっとニュアンスが違って来ますね。私の感覚では、ターゲットとなる人がいて、その人に対してあれこれ世話を焼く人をイメージすることができます。

妻として夫に尽くす…、のような献身的な女性を思い浮かべることができるのですが、本人にそういった自覚があるかどうかでマインドの内容は大きく異なるのです。

例えば、「私は好きになると尽くしてしまう」といった自覚を持っている人の場合、それは献身というよりも防衛の色が濃い感じがします。

つまり、こうしてあげたい、ああもしてあげたいという気持ちは本人のエゴを満足させるものであって、本当には相手のことをおもんばかってはいないのです。

一つ間違えば、よくある身勝手な善意の押し売り、よかれと思って…の典型的なケースに陥ってしまうかもしれません。それは愛の代わりに防衛が原動力になっているのです。

真の献身とは、自分の満足についてはまったく無頓着になって、相手の思いを受け止めることです。これは愛が原動力であることは明らかですね。なぜなら、愛とは自分が不在になることだからです。

その場合には、献身的な行為だけがあって、献身的な「私」がいるわけではないということを知っていた方がいいかもしれませんね。

マインドはいつも探求者

マインドの働き、マインドの機能を見るがいい。

マインドはいつも探求者だ。つねに何かしらを欲しがっている。

それは欲望と探求を通して生きている。

金を探し求めるときもあれば、瞑想を探し求めるときもある。

だが基本的に違いはない。

それは同じゲームだ–違う言葉で演じられるが少しも変わらない。

by osho

確かに私たちのマインドというのは、年がら年中何かしらを探し求めていますね。熱望と言ってもいいし、渇望、あるいは欲望と呼んでもいいのですが、とにかくターゲットが必要なのです。

そして探求を大雑把に分類すれば、その対象となる一つ目は物質的なものであり、二つ目は精神的なもの。大抵は前者が先に来て、そこに絶望したマインドだけが後者へと進むのです。

そのときに、世俗的な欲望から脱出した自分は大きく成長したと感じるかもしれませんが、結局は探求者であることには変わりないのです。

そしてマインドが最後に探求するターゲットとなるのは、探求者そのものなのです。結局は外側に対してどれほど探求しても、絶望するばかりだと気づいた時に、探求の的となるのは探求者そのものなのです。

ここからは今までとは少し様相が違って来ます。なぜならスピリチュアルなものであれ外側に向いていた探求が内向きになるからです。

それまでの探求は探求者ありきの前提が暗黙のうちにあったのですが、今度はそこを探求するわけですから、ここは馴染み深い努力も役に立たなくなって来ます。

そしていつかは探求が終わりを迎えるときがくるのですが、それは探求者は実在しないと気づいたとき。つまり探求を止めるのではなく、それが自然消滅するということです。

後には、「無」という真理だけが残るのですね。

他の誰にもなれない

みなさんは、理想の自分像、目指している自分像というものをお持ちでしょうか?確かに、目指す目標があった方が道を間違えずに生きていけそうな気がしますね。

けれども、あなたは別の誰かになることは不可能なことです。今の自分がどんな人間であれ、それを避けてどこへも行きようがないということに気づくことです。

さもなければ、人生は地獄のように辛く苦しいものになってしまうはずです。不可能を追い求めることほど馬鹿げたことはありません。

もしも理想の自分像をお持ちであるなら、まずはそれについて書き出してみることです。文字に書くことで、それがより明確になるからです。

さらに、現状の自分、あるいはこれまで生きてきた自分に対する自己イメージについても、明確にすることです。こちらも書き出してみることです。

その両者がはっきりとしたときに、とんでもない両者の格差に気づくことになるでしょうし、目指すことのバカバカしさにも気づくことになるはずです。

そうやって事実を目の当たりにすることで、自動的に生き方が変わってくるのです。目の前にぶら下げられた人参を追い続ける馬のような人生に早く見切りをつけられるといいですね。

感動しても救われない

人生には様々な苦難があって、それでもくじけずにひたすら前を向いて頑張って、それを乗り越えていくことこそが素晴らしいことだと教えられますね。

でもなぜそれが素晴らしいことなのか、じっくり見つめたことはあるでしょうか?私は変わった子供だったので、そういうことをいつも考えるようなところがありました。

そういった他人のリアルストーリー、サクセスストーリーを聞かされると、誰でも感動するものです。ああ、自分はこういうのを求めていたのだと感じるのですが、興奮が収まってみると、なんでもないことに思えて来るのです。

感動も所詮は一過性のものであって、それに救われることはありません。どれほど素晴らしい感動物語があっても、それも必ず消えていくのですから。

くじけてもくじけなくても、どっちでも同じことだという感覚がどうしてもやってくるのです。ここを他の人と共有できるかは分からないのですが…。

結局、人生は一瞬の儚い夢のようなものだという感覚に戻ってしまうのです。それが、私を内側へと向かわせたことは間違いありません。

外側への期待が薄れていくときに、人は自分自身の内側深くへと入っていくようになるのでしょうね、真の救いを求めて。

そしてその救いを求める自分こそが幻想だったと気づくときに、永遠という真実と出会うことになるのですね。

何であれ大丈夫!

私にとって、終わりがあるということがこの上ない救いなのです。もしもどんなことでもずっと無限に続くとしたら、それ以上の地獄はないでしょうね。

人生が自分の期待通りではなく、なんでこんなに辛いことばかりが起きるのだろうと思ったとしても、それもいずれは終わりを迎えるのですから、究極的には大丈夫ということです。

つまり死は恐れるものではなく、それこそが永遠の平安を与えてくれるものだとも言えるのです。どんな困ったことがあろうとも、死がすべてを終わりにしてくれるのです。

確かにもっともっと続いて欲しいと思うようなこともあるかもしれませんが、年齢を重ねるごとに、そうしたことでもいずれは終わるし、終わって欲しいというように変わってきました。

どんなことでもいつまでも続くのは不自然だという感覚です。この世界のもっとも素晴らしいことは、すべてが一過性のものでできているということです。それが物語の特徴なのです。

けれども真実は、永遠なのです。なぜなら、変化する何物もないし、変化を生む時間すらないのですから。真実には救いはないし、救いを必要とするナニモノもないのです。

何か嫌だなと感じることがあったら、このことを思い出せばいいのです。たとえこの世界が地獄のように思えたとしても、いずれは終わりを迎えるのです。

そしてそのあとは、永遠の平安が続くのです。どっちにしても大丈夫!!

決めつけを見抜く

私たちは、知らず知らずのうちにあらゆる物事を決めつけてしまう習慣を持っています。私はこういう人間だとか、あなたの人生はこうだとか…。

そうした決めつけがどこから来るかというと、これもやはり自己防衛から起きて来ることなのです。なぜなら、未知のものは不安や恐怖の元になるからです。

知っているものは知らないものよりも安心なのです。だからこそ、本当は何も知らないくせに、知っていることにしようとするのです。それが決めつけなのです。

勝手にこうだと決めつけて仕舞えば、それは既知のものだと思えるからです。こうした防衛は、実は幼い頃からすでに始まっているのです。

向こうからやって来るおじさんがいい人なのか悪い人なのか、分かっていた方がより安全なので、どちらかに決めてしまうのです。いい人なら心を開き、悪い人なら閉じてしまう。

そうやって身の安全を守ろうとするのです。そしてその習慣が大人になった今でも残ってしまうというわけです。本当は、一人のおじさんの中にいい人の部分と悪い人の部分の両方があるのです。

この決めつけは、過去のどこかの時点で行ったものですが、それを後生大事に使い続けてしまうと、今この瞬間の現実から乖離してしまう恐れが出てきます。

それは当然のことで、この世界の全ては刻々と変化し続けているからです。昨日までの自分と今日の自分はもうすでに違っているのに、自分はこういう奴と決めつけてしまえば、過去に閉じ込められた硬直した自分だけが残ることになります。

それではどんな成長も望むことはできなくなってしまうのは当然ですね。まずは、自分の決めつけに瞬間瞬間気づいてあげることです。

そうして過去からやって来る決めつけを見守ってあげることで、次第に素直な目でナマの物事を見ることができるようになるのです。

成長は自然に任せる

「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」という禅の言葉があるように、私たち人間にもそれは当てはまります。

つまりあれこれ画策せずとも、私たちは年齢と共に成長していくのです。それが自然の摂理ですね。

けれども、様々な理由からその正常な成長を極端に早めようとしたり、逆に成長を止めようとするマインドの働きもあるのです。その根っこにあるのは、自己防衛なのですが…。

簡単に言えば、前者の場合は、早く大人になろうとするということ。何もできない未熟で惨めな自分から早く脱出したいという思いから、その年齢に不相応な努力や無理をして、立派な大人になろうとするのです。

表面的には成功することもあるのですが、その無理を強いたしわ寄せが必ず後からやってきて、本人を苦しめることになるのです。

それはまだ幼い頃のその年齢に相応しい無邪気な生き方が充分にできなかったために、そのエネルギーが残ってしまい、大人として生きている一方で、子供じみた部分がいつまでも残ったりするのです。

結果として、本人の理性的な部分は苦しむことになるはずですね。一方で後者の場合、つまりいつまでも子供でいようとする場合は、勝手に成長していってしまう自分を恨めしく感じてしまうのです。

そして、自己嫌悪感や罪悪感を持ってしまうこともあるかもしれません。この場合も、ある面ではそれが成功して、いつまでも子供っぽさが残り、社会人として不適格な人物になってしまうかもしれません。

いずれにせよ、自分の成長について恣意的になってはならないということ。自然に任せておけばいいのです。親が子供の成長をどうこうしようとしてしまう場合もあるかもしれません。

それも同様の結果が待っていることになるはずです。私たち自身が自然の一部であることを思い出して、常に自然であることを心がけることが大切なのでしょうね。

「無」とゼロは違う

仏教や禅で言うところの「無」というのは、決してゼロのことではありません。数字のゼロは、0+5=5 のようにして何かを足したり、引いたりすることができますね。

けれども「無」はそのようなものではないのです。足し引きができるのは、この現象界の中においてなのですが、「無」というのはその現象が起きて来る源なのです。

「無」という源は、どこまでも変わることがありません。「無」がキャンパスだとすれば、その上に描かれた絵がこの世界のような現象界だとすればいいのです。

キャンパスの上にどんな絵を描こうと、キャンパスがキャンパスでなくなることはないのです。仮に、キャンパスの絵を描いたとしてもそのキャンパスは本物ではありません。

数字のゼロは、そうした絵で描かれたキャンパスだと思えばいいのです。これで、「無」とゼロの違いがつかめたのではないでしょうか。

ゼロは思考の中のイメージに過ぎず、「無」は思考をはるかに超えた真実として在るもの、そこからすべてがやってくる源なのですね。

 

小さな自分と全体性

私の感覚の中には、この小さな自分と全体性というまったく異なる二つの部分が同時に存在しています。小さな自分とは、もうかれこれ何十年も共に人生を生きて来ました。

ところが、この5〜6年の間に、全体性という思考では捉えがたい感覚もしっかりと在ることに気づくようになったのです。気づいたのが最近というだけで、ずっと在り続けてたのも今なら分かるのです。

小さな自分は一生懸命与えられた環境の中で、何とかしてよりいい人生にしたいと頑張って来たのですが、結果はそう大したことにはなっていないのが現実ですね。

けれども、全体性の方から見ると、自分の人生であれ、他の誰の人生であれいいも悪いもないし、そもそも小さな自分というのが思考によって創り出された幻想なのです。

思考そのものは、その他のあらゆるものと同様に全体性の一部なので自然なものと言えるのですが、思考の中身だけが不自然の極みなのです。

なぜなら、思考の中では全体性は分離できると思い込んでいるからです。分離できるということから、小さな自分が生まれたわけです。でも全体性は全体性なのです。

思考だけが、全体を分割して複数の部分にすることができると思い込むのです。部分の総和が全体であることが真実だと思っているのです。

小さな自分とは、全体性という舞台の上で繰り広げられる一過性の人生劇の登場人物のようなものです。一つの劇が終われば、次の劇が始まるのですが、舞台は永遠ですね。

私たちの本質は、舞台なのです。劇の中で使われる空間的広がりも時間の経過もすべてが舞台の上で進行するのです。人生劇がどれほど過酷で悲痛なものであれ、舞台はただそれを下支えしているのです。

いなくていいんだ〜

あれは2〜3年前のことでした。自分がいる世界と自分がいない世界とで、どちらが自然だろうかを見ていたときのこと。突然、自分がいない状態、非常に明確な自己不在の気づきの中に放り込まれたのです。

といっても、放り込まれる誰もいないのですから、これは言葉のあやなのですが。先ほどから、あのときのことをぼんやりと思い出していたのですが、そうしたらなぜか、「いなくていいんだ」というのが来たのです。

そう、自分はいなくてもいいんだという、とてもとても優しさに満ち溢れた受容の言葉、そしてそれを聞いたときの深い安堵の気持ち。

ということは、自分はいなければいけないんだ!と思って、ずっと頑張って来たのかもしれないと感じたのです。だからこそ、いなくてもいいよと許可をもらって安心したのかもしれません。

常識的には、いなくていいと言われたら、「お前なんかいなくてもいいんだ」と言った非常に否定的なニュアンスを感じるのでしょうけれど、それとは根本的に異なる深い愛のような言葉なのです。

今まで長いこと、まったく気付かずに自分はいなくてはならないのだと、それが自分の義務なのだと思っていたということに気づいたのです。

幼い頃に、周りの期待に応えようとして、自分がいるという思い込みの中に深く入り込んだのかもしれません。

なぜいなくてもいいのかと言えば、真実は自分などいないからですね。いない自分にどんな責任も義務もあるはずがありません。この限りない気楽さを忘れないでいるようにしたいですね。

これを読んでピンと来なくてもまったく大丈夫です。というよりピンとくる方が変ですよね。でも万が一、ピンと来るものがあったら深刻になりそうなときにこそ、これを思い出すことです。