私たちは人生の中で多くの人たちと出会って、何らかの関わりを持つようになるのですが、そのときにお気に入りの人もいれば、気に入らない人もいるはずです。
そしてそのどちらでもない人たちもいます。つまり仲が悪いというわけでもないけれど、されとてそれほど仲がいいということでもないという関係。
友人や知人、あるいは職場の同僚などとの関係性で1番無難なのが、上記の関係かもしれませんね。
そうしたもっとも無難な関係と言うのは、赤の他人の場合にはそれで構わないのですが、それが家族だったとしたらどうでしょう?
家族のそれぞれが互いに、仲が悪いでもなく仲が良いでもないという状態だったとしたら、それは大変悲惨なことになってしまいます。
それはもう仮面家族と呼ばれても仕方ないのです。家族同士の本来なら親密な関係であるはずのものが、互いが本音を言わず、喜怒哀楽を素直に出さない状態。
そこに生まれてしまったら、子供はそれが普通になってしまうのです。勿論孤独感、わけのわからない寂しさに打ちのめされるはずですが、その理由が分からない。
家族に対する不満を持つこともできずに、ただただ生きづらさだけを感じながら毎日を送ることを想像すれば、それがどれほど過酷なものか分かるはずです。
自我というのは自分を外の世界と分離した個人だと思い込んでいるため、本当は非常に孤独なのですが、家族や友人と密接に過ごすことでそれをごまかせるのです。
ところが上記のような家族のもとで育ってしまうと、自我の孤独感をごまかすことができないために、子供の頃から寂しさや不安ばかりを感じることになるのです。
さらに言いたいエネルギーを蓄積してしまうために、それが原動力となって問題行動を起こすことになるのです。
それは人生を破壊する力を持っています。もしも心当たりがあるなら、こうしたカラクリに気づいて、地に足をつけた癒しを進めて行く必要がありますね。
昨日今日のブログは、あまりにたくさん感じいるところがあって、うまく文章になりません。
しょうがないだろうをしょっちゅう繰り返し、うわべを取り繕うことに必死、我慢が一番の美徳、それは、生まれた家では当たり前すぎて、疑いようもなく。
しょうがないに、そんなに重たい意味があったのが、ずっしりわかりました。
気持ちを圧し殺して家族と暮らすことの病みが、どんなに深いものかも。
いろんな不都合は、立場の弱すぎる子供のころに染み込まれたものから発生しているから、ほんとに分かりにくいだろうとも。
でも、逆に、そこにふみこめば、糸口は見つかるはず。
表面的に、ただ「受け入れる」は、危険でさえあるとも思います。
思考や感情が浮かび上がった時、これは、オリジナルか、それとも、後付けか、できるだけ見るようにこれからもしていきたいです。
特に、劣等感、優越感、嫉妬、焦り、はまだわかりやすいです。
得体の知れない不安感は、その集合体でしょうか。
得体の知れない不安感は、きっと分離からくる孤独と深い関係があると思いますね。自我というのはそれを抱える運命にあるのですが、額面通り感じないで済むように家族がいたりするのですね。でも闇が深い家族の中で育つとそうはいかないのです。子供はなすすべもなくただ不安と孤独と一緒にいることになるのでしょうね。
それは必ずしも悪いことばかりではなく、大切な気づきを得るためのヒントをもたらすとも言えるのです。