ただ見抜くということ

体験だけがリアルということに気づくと、どんな体験であれ何も違いはないということにも気づくことになります。

違いがないというのは、体験に優劣はないし、どんな意味もないし、善悪もないし、ということなんですね。

オーバーに聞こえるかもしれませんが、いわゆる覚醒体験をしようが、ただ暇を持て余して家でゴロゴロしている体験であれ、同じなんです。

アメリカの大統領になって世界中を動かそうが、毎日毎日小さな畑を耕そうが、何も変わりはないのです。

リアルさというのはそういうことです。価値判断とか、そこに違いを見出すということは妄想であり空想でしかないからです。

私たち自我というのは、何に対してもそこに何らかの意味を見出そうとしてしまうのですが、意味などどこを探そうがないのは明白です。

こうしたことを見抜くのに、ことさら非二元という概念を導入する必要もありません。これはただ見抜くということです。

瞑想によって思考を止める必要もありません。自我ど真ん中で生きていてもそこに問題はないのです。

ただ見抜けばいいだけなんです。付け加えるに、この見抜くという体験も見抜かない体験も何も違いがないということでもありますね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

“ただ見抜くということ” への2件の返信

  1. 体験に伴い生じる、様々な感情はなんですか?
    ただ見る、とか、ほっておく…ということをしても、なかなかしぶとく居座る強い感情が湧き出てくることがあります。

    1. 感情も思考も妄想も全部体験です。
      しぶとく居座る強い感情が湧き出てきて、というのも体験でしかありません。
      全ては体験だし、体験しかありません。

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