病気になったり怪我をしたりして、外科的手術を受けなければならないときがありますね。私自身も、14年前にお腹を沢山切られました。
全身麻酔をされて、完全に意識のない状態になるので、恐怖も痛みもなくて助かるのですが、それでもやはり自分はどうなってしまうのだろうかと、不安になるわけです。
最終的には、どう考えてみたところで自分には何もできるわけでもないので、執刀医やその他の方々を全面的に信頼して、丸ごとお任せする以外ないのです。
ある種潔い状態にならざるを得ないというのが、逆に救いなのかもしれません。ところで、精神的な何等かの苦痛があって、それを何とかしたい一心で催眠療法を受けに来られるクライアントさんがいらっしゃるのです。
催眠状態になって、なにやら朦朧として訳の分からない状態になっている間に、それこそ外科的手術でも受けるかのように、知らない間に処置して欲しいと願っているのです。
勿論その気持ちも分からないではないのですが、当然のことながら、催眠療法でそのようなことができるはずもありません。自分自身で見るべきところを見なければならないからです。
それを、ご本人に代わって誰かがやってあげることは不可能なのです。だから、心の癒しというのは手術を受けるような楽さ加減はありません。
反対に、辛く苦しいところを丸々感じなければならないのですから。けれども、よくよく考えてみると、実は心の癒しについても、外科手術と似たようなところがあるのです。
それは、自分の知っているやり方や努力によって、心を直接的に癒して行くことはできないからです。本当は手術と同じで全くお手上げなのだと理解することが、とても大切なことなのです。
そして、癒しという手術をまさしく生にお任せするという気持ちになれたなら、その潔さがやってきたなら、本当はあっという間に癒しは進んでいくはずなのです。
なぜなら、癒しにストップをかけているのは、他でもないあなたの毎日の生き方が原因だからです。もしもあなたが、なにもしないで、委ねることができたなら、苦しみはすぐにでも消えていくでしょうね。
あの外科手術のときのように、それについては自分は無力で何もできないという白旗状態、それこそが最大の癒しの味方になるということを、覚えておいてほしいと思うのです。
けれども、これまでも一生懸命頑張って生きてきたという、ご本人なりの自負があるのですね。もっともなことではあるのですが、これが一番癒しの邪魔をするのです。
まな板の鯉のような状態になってセッションを受けることができたら、そのような委ねる姿勢で毎日の生活を送れるようになれたなら、生はあなたの敵ではないと知るはずです。