昨日のつづきです。
私たちは本質的には何も知ることはできないし、何も所有することはできないということをしっかり見極める必要があると書きました。
このことをずっと感じていると、深い絶望感の中に入ってしまうようにも思いますが、そうしているうちにも、はっきりとしていることが一つだけあると気づきます。
自分のことも含めてあらゆる対象を知ることが出来ないけれど、ただ自分が在るということだけが残り、それは不変のものだと分かります。
自分は何も所有することができないけれど、やっぱりただ自分が在るという感覚だけが最後に残るということです。
そして、その自分という意識というのは、知ることができるような自己イメージ、あるいは自分という人物像のようなものとは全く異なるものです。
自分が知覚するものは何でも知っている、正しい解釈ができると思い込んでいた自分こそが、自己イメージと自分の意識を同一視していた結果だったということ。
それは本当の自分ではありません。なにしろ、それとかあれとか、あの経験を積んだとか、この知識を持っている自分、こうした自分は全部作られたイメージを自分と勘違いしていただけだったからです。
本当の自分とは、知ることのできない、単なる自分は在るという気づきだったということ。なんとシンプルなものだったのでしょうか。
あれやこれではない、ただの気づきとしての意識。それは何ものでもないという気づきなので、当然のことながら所有するという概念すらありません。
ただし、無であるという気づきは非常に微妙な表現になってしまいますが、この世界のあらゆるものでもあるという感覚でもあります。
まったく属性を持たない、なんでもない無である自分、ただ在るという意識こそが、すべてを包含し、すべてでもあるという感覚なのです。