子供の頃、母親が私の従兄弟にあたる年上の人(男性)のことをよく褒めていました。「○○ちゃんは、努力家だし、勉強も良く出来て、親孝行で本当にえらいねえ」と。
それを言われた自分は、何だか自分のことを比較されて、否定されているように感じてとてもいやな感じだったのを覚えています。
その時、自分がやっていた反撃は、「それは、その人がたまたま努力できるように生まれただけのことだよ!」というものでした。
努力家かどうかというのは、DNAと環境によって自動的に決まるものだということを訴えていたわけですが、それは悪態をついていたというよりも本心からそう思っていたのです。
そして、その考え方というのは大人になった今でもしっかり残っています。例えば、誰かが犯罪を犯したとします。
しかし、同じような境遇で育った人でも、犯罪を犯すかどうかはその人ごとに違いが出てくるわけです。それはもしかしたら、ほんの些細な環境の違いがあっただけかもしれません。
それでも結果として、実際に犯罪を犯す人とそうでない人とに分かれることになるのは、初めから決定的な違いがあったと感じるのです。
その違いとは、どちらにしてもそうなるべくしてなったということ。つまり、起きるべきことが起きて、そうでないものが起きなかったというだけのことなのです。
今まで努力するのが嫌いで、ダラダラとした生活をしていた人が、何かのきっかけで努力家に変身することもあるかもしれませんが、それもそうなるべくしてなったということ。
ありとあらゆることは、初めからそのようにして起きることだけが起きるようにできていたということです。こう考えられたら、余分な罪悪感や責任などをまとう必要がないと分かります。
私はこの世界で起きることをすべて例外なく、そのように見ています。そのおかげでいいも悪いもない、比較的楽な気持ちで生活することができています。
起きることだけが起きる、みなさんもこの考え方をうまく活用して、自分で背負ってしまった重い荷物を降ろすことにしてみませんか?