理不尽さを乗り越える その2

昨日のつづきです。

何があっても理不尽な思いをしなくなったら、どんなに生き易いか想像もできないくらいですね。ですから、理不尽さを克服することは、幸せになるための鍵でもあるわけです。

比較的小さな理不尽さは昨日のやり方である程度は処理することができると思います。ですが、とてもインパクトの大きい理不尽な思いはそう簡単ではありませんね。

元々、理不尽な思いをさせられる自分は悪くなくて、もっぱら相手の言動がひどすぎるだけなんだから、何で自分が何とかしなければならないのか、それが理不尽だと思われるかもしれません。

ですが、相手を責めている限りは、決して理不尽さを乗り越えることはできません。とにかく、理不尽さを乗り越えることだけに集中して考えるほうが得策です。

最近のブログで裁くことについて書いたときにその中で触れましたが、歪んだ知覚によって裁こうとするために、理不尽な思いを起こすのです。

この原理をいつもどこかに記憶しておく必要があります。そして、あいつの言動はどう考えてもおかしいよ、理不尽すぎるよと感じたときにこそ、自分の歪んだ知覚のことを思い出すのです。

そして更にいえば、外側で起きている理不尽な事象というのは、心の中にある自分の歪んだ知覚がそれを投影して起きているように見えるものに過ぎないということです。

したがって、毎日理不尽な目にばかり遭遇してしまうよと思っている人は、繰り返しこのからくりを思い出して、自分のものにしてしまうことです。

そうして理不尽さに遭遇した際には、この理不尽さには実体はないんだと理解することです。知覚を正していけば、本当にないということに気づくということです。

それには、元々正しい知覚を持っている聖霊の知覚の仕方をまねするということです。聖霊の正しい知覚では、裁くという概念がないので理不尽さを全く感じないのです。

理不尽さを感じたら、これをこれ以上感じていたくないので、もらって下さいと聖霊に差し出してしまいましょう。その上で、聖霊の知覚の仕方を練習することです。

漠然と聖霊だったらどんなふうに知覚するのだろうか、それを教えて下さいと頼むような気持ちになって心静かに待っていると、何となくニュアンスが伝わってくるかもしれません。

それが成功すると、きっとそれまで感じていたどうしようもない理不尽な思いは、スーッと影を潜めてくれるはずです。

それともう一つ、自分が相手に与える側の気持ちになっていると、理不尽さを感じないようです。何かを求めていると、あるいは期待していると理不尽な思いはそれだけ大きくなります。

予防線というわけではありませんが、日頃から与える側の立場に立つことを意識してみることは、とても大きな効果があるはずです。

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