願い事

誰にでも自分の望みというものがあって、それが叶えられたらさぞ嬉しいはずですね。その願望が強ければそれだけ、人は頑張りもするだろうし、最後は神頼み的なことになるのかもしれません。

そうした、願い事が叶う、つまり願望を実現する方法について様々な本でいろいろなことが書かれているようです。実は、私も今まで生きてきた人生を振り返ってみたときに、その時そのときの自分の願望が叶っている場合が多いように感じます。

もちろん、こうなったら困るよと思っていたらその通りの結果になってしまったということも沢山あるので、一概に願望がすべて実現する人生だとは言い切れませんが。

それでも何となく心の中のどこかで思っているような願望が実現してしまうという感覚ははっきりと持っています。それは自分が困るような病気や怪我、あるいは好ましくないと思われるような人生の出来事なども含めてそう感じています。

それなら、なんで宝くじを買わないのかと自問自答したこともあったのですが、どうも宝くじで特等賞を当てたいと本気では思ってないという感じがするため、買ったことがないのです。

それは、もしかしたら願いが叶うという表現よりも、何となくどうなるかを知っているという言い方の方が近いかもしれません。

約10年前に大病したときだって、その時はびっくりもしたしショックもあったのですが、あとで冷静に考えてみると、そうなっても当然だったというように感じている自分がいます。

いわゆる超能力的な予知ができるというようなことではないのですが、自分に都合のいいことも悪いことも何だかこうなるんじゃないのかなという事が、その通りなる場合が多いということです。

だからこそ、願望があったとしてもそれが実現する気がまったくしないようなものを神頼みと言えども期待することがないと言ったほうが当たっているのかもしれません。

それはやはり、どんなことでも自分の内面の投影として起こるのだということと合い通じるものがありますね。だからこそ、「奇跡のコース」を読んだときに、違和感を全く感じなかったのだろうと思います。

願い事が叶うことは嬉しいことには違いありませんが、真の幸福というのはそういうところにあるのではないといつもこのブログでお伝えしています。願望実現の方法を教えますという本やその他のものがあったとしても、食指が動かないのはそのためですね。

人の目

毎日の何気ない生活の中で、自分が一番気になるものと言えば、それは人の目ではないでしょうか?道を歩いているときの自分、電車に乗っているときの自分、職場で仕事をしている時、休み時間に食事をしている時、ありとあらゆる場面で自分は人の目に晒されています。

部屋で一人のんびりとした時間を過ごしている時を除いて、ほとんどすべての時間必ず誰かの目で自分を見られているという環境にいますね。

人にどう見られているかなんて、全く気にもならないよ、と豪語している人もいるかもしれませんが、それはきっと少数派だろうと思います。

今日どんな服装で出掛けようか、どのようなヘアスタイルがいいのか、そういったことは自分のためでもあるでしょうけれど、やはり一番は人からどのように見られるかということがベースにあってのオシャレなんだと思います。

そのようにとても気になる人の目ですが、それは自分が他人の目にはどのように映っているのか、どう評価されているのかということなので、それが気になるということですね。

そして大抵の場合、自分が自分を評価する基準があるのですが、それと同じ基準によって他人も自分を評価するはずだとの強い思い込みがあるのです。

本当は、他人は自分には想像できないくらいに自分と違う評価基準を持っているかもしれないのですが、そういったことは真面目には考えないのが普通です。

したがって、もしも自分に対する自分の評価が高い場合には、それと同じような評価をされると想定しますので、それほど人の目を気にすることはないのです。

しかし、逆に自己評価が非常に低い場合には、他人も自分のことをそのように低く評価するはずだとの思い込みがあるので、否定的な意味合いで人の目がとても気になってしまうのです。

そうなると、いつも人の目、人からの評価を気にするあまり、自由な自己表現ができなくなってしまったり、気づかぬうちにいやなことをやり続けたりして、自己犠牲を強いる結果となってしまいます。

人の目が気になりすぎて、とても生き辛いような状態になってしまった場合には、自分と人の評価基準は同じであることのほうがまれなんだとの認識をはっきりとすることです。

そして、人は自分が気にするほどに自分のことを見てはいないという事実をしっかり自覚することです。その上で、自己評価が低い理由を見つめてその部分を認めてあげることです。

これも一種の許しの作業ですね。どんな自分も裁く必要はないとして、許して認めることができたら、もう全く人の目など気にしなくなって、本当に気持ちのいい晴れ晴れとした毎日を送ることができるようになるはずです。

一芸に秀でる

何でもいい、どこかひとつでも取り柄のような部分、誰にも負けないような秀でた部分があったらいいのにと若いころからずっとそう思ってきました。

何か特別、これに関しては誰にも負けないとか、抜きん出ている才能や能力のようなものが何にもないので、何をやっても中途半端で大成しないので、よくそう思ってたのを覚えています。

今日、知り合いの人がピアノのリサイタルを開くということで、招待していただいて演奏を聴いてきました。クラシック音楽などまったくの素人の自分なのですが、それでもあまりに洗練されたテクニックや情感たっぷりの演奏に感動させてもらいました。

やっぱり、一芸に秀でている人はすごいなあというのが正直な感想です。人は、その身体を使ってどこまでの能力を身につけることができるのでしょうか?

どれだけ練習して、鍛錬すればあんな神業的なことが可能になるのかなと演奏を聴きながら思っていました。しかし、あんなに自由自在にピアノを操れたら楽しいだろうなと思いながらも、今までと違う感覚もありました。

それは、一芸に秀でることに対するあこがれのようなものがかなり薄れてきているということでした。いつもいつも自分の幸福はどこにあるかということを感じながら生活してきたせいなのか、羨望のようなものが少なくなっていました。

自分は本当に何もできないし、何も成し遂げていない。人に誇れる何物も持ち合わせてはいないし、自分の何かを認めてもらえそうなものも探しても見つかりそうもありません。

だからといって、そのことに何の自己嫌悪も惨めさも全く感じないのです。ああ、そんなふうに自分は知らぬ間に変わってきたんだなということを改めて思いました。

自分はこの生で何を目指しているのかということが明確になっているおかげかもしれませんね。見たり聞いたりといったあらゆる体験をしても、自分の軸がぶれなくなったとも言えると思います。

周りの人たちを許すということだけが生きる目的であると明確になったことで、何物にも揺さぶられない確固とした心の場所ができたのだと思います。このことだけでも、心はかなり平安でいられます。奇跡のコースの教えのおかげですね。

生命

子供のころ、父親が言っていた言葉を思い出すのですが、それは、人は生まれた瞬間から死に向かって一歩いっぽ近づいて行くことになる、というものです。

我々の常識では、誰にとっても避けることのできない共通の運命は、そのうち死がやってくるということですね。このことだけは、世界中のどんな人に対しても例外なく該当します。

病気で平均寿命よりも早く亡くなる人もいるし、怪我で一瞬によって命を落とす人もいます。どんな形であれ、誰でもいずれは死を迎えるわけですね。

そしてこのことを疑っている人はなかなかいないでしょう。しかし、最近では生まれ変わりというものを信じる人も増えています。肉体の死はあっても、魂までは死なないということですね。

「奇跡のコース」では、死はないと明言しています。命とは、生物としての生命のことだと誰でも思っていますが、コースでは本当の生命は愛だと言っています。

もしそうだとすると、愛は限りないものですし、不変のものですから生命もそれが途絶えるということはないということになります。

人間として生きているというのは、心臓が鼓動し続けることによってその生命が保たれると思われていますが、コースでは愛である限り永遠の命があるということになります。

だとすると、愛の欠落した毎日を送っている限り、真には生きていると言えないことになってしまいます。それこそ、文字通り死んだように生きているということになりますね。

死がないとすると、生物としての恐れというものが根底からなくなってしまいます。そうすると、私たちは自分を防衛する必要がなくなります。

自分を守らないでいいということは、エゴを使わずに生きて行くことができることを意味します。エゴを使わなければ、おのずと愛が100%の毎日になってしまうということです。

年齢とともに、老化するということや、いつか死がやってくるということは、エゴが自分に与えた都合のいい法則であるとしたら、どうでしょうか。

この人生というものが根底から覆ることになるでしょう。何を信じるかということを徹底的に見直してみることで、もしかしたら人生についての認識が一変するかもしれませんね。

義務と責任

この世の中では、立派な人、ちゃんとした人というのは義務や責任をきちんと果たす人だと思われています。確かに、与えられた義務や責任を中途半端に投げ出してしまえば、いい加減な人だと受け取られてしまいます。

この義務や責任というものを、正確に表現するとそれ自体は客観的なものであって、本人にとっては義務感や責任感という感覚として知覚されます。

ですから、大切なのは義務と責任ではなく、心の中にある義務感と責任感であるわけです。尊敬される人は、その感覚を強く認識して、それを行動としてまっとうする人物であるわけです。

しかし、本人の幸福感という最も大切な観点から見た場合は、本当に義務感や責任感が強ければいいでしょうか?そんなことは決してありませんね。

例えば、私がやっているヒーリング講座は、私がそれを開講して進めているものですから、私がそれを遂行する義務も責任もあるというのは当然です。

自分が体調を悪くして講座ができなくなったりしたら、義務や責任を果たしてないということになります。だからといって、そのことに大きな義務感や責任感を持って遂行できたからといって、そのことで幸福感を得られるわけではありません。

大切なことは私自身が講座を楽しむということなのです。楽しいし、みなさんと一緒に進めていくことが嬉しいので、講座を続けているというその事が自分の幸福と深く関連する唯一のことです。

そう考えると、極端な表現をすれば義務感も責任感もいらないということになります。実際、私はほとんどそういった感覚を持たずに講座をやっています。

逆に義務感、責任感が強かったら、最後まできちんとやれるかどうかということが不安の種になってしまい、楽しめなくなってしまうかもしれません。

立派な人と思われる必要も尊敬される必要もありません。自分がその瞬間を楽しむこと、喜びを感じること、深い平安に包まれていること、これだけが幸せと密接に繋がっていることです。

自分の心の中にある、様々なことに対する義務感や責任感をできるだけ手放しましょう。それに縛られると、毎日が楽しくなくなってしまいます。それではせっかく楽しもうとして計画していたことが水の泡になってしまい、それこそ本末転倒です。

喜びが愛です。義務にも責任にも愛の要素はありません。

達成感 その2

昨日のつづきです。

頑張って何かを成し遂げたとしても、それが真の幸せと連動するものでない限りは、何の意味もないので、達成感を感じないのも無理はないというお話しをしました。

もしそこで、努力に努力を重ねて、頑張って達成したことに多大な達成感、喜びを感じたとしても、それが永続的なものでなければ、幸せはやってきません。

逆に、一つの達成をベースに、次々と目標設定をし続けて、常になにかに向かって走り続けなければならないような人生になってしまう恐れがあります。それはエゴが一番喜ぶ人生になってしまいます。

それは決して真の幸せへの道を歩いているとは言えません。幸せへの道はそれとは全く反対の生き方なのです。人生の中で自分が達成してきてしまったことを、何の意味もなかったとして手放すことです。

達成してきたと思っていることに執着して、そこを自分の軸とし、頼りにし、誇りにしてそれを繰り返しても結局それだけの人生になってしまいます。

真の達成は形として表現され得ないものです。そしてそれは達成するというよりも、ただ大切なことに気付いていくという作業の繰り返しなのです。

何かを得る必要はありません。自分はすべてを持っていると気付くことができれば、何かを手に入れることに何の意味もないと分かるのです。

そうした中で感じられる何ともいえない感慨深さは、通常の達成感のような永続性のないものとは違って、継続して感じられるもっと奥深い心からの安堵感や、自分は完全だという愛の感覚になっていくのだろうと思います。

自分は人に誇れるようなことは何一つとして成し遂げてないと自分を否定する必要は全くありません。そういう人の方がこの世界で沢山達成してしまった人より断然有利です。

なぜなら、手放さねばならないことがそれだけ少なくて済むからです。癒しの作業とは、身に着けてしまったもの、手に入れてしまったものを全部手放していく作業だと覚えておくことです。

達成感

人は何かの目標を苦労して成し遂げた時には、それなりの達成感を感じるものですね。ある種の満足感とも言えるし、そういったことを繰り返して自分への自信というものを養っていく、大切な感情だと言われています。

ところが、残念ながら自分の場合はほとんど何をしても達成感を味わったという記憶がありません。子供の頃から大人になっても一貫してそのことは今もって続いています。

達成感を味わうことができないのですから、なかなか過酷な人生です。その理由はいくつか考えられるのですが、最も大きな理由は足りてないという感覚、つまり欠乏感が強すぎて、何を達成しても満足できないのではないかと思っています。

そしてもう一つの理由は、元々達成することに何らかの価値あるいは意味を感じていないのではないかということです。意味のないことをいくら積み重ねて達成しても、意味を生じるということはありませんね。

このことと、昔からやりたいことが一つも見当たらないということとは、何か連動しているように思えます。自分の周りに自分にとって価値あるものを見い出せない状態で、なにを成し遂げたとしても何も感じないのは尤もなことかもしれません。

そんな何となく不満足で興味の対象のない人生に、一条の光が差して来ました。それは、この世界で何を成し遂げようと、そこには何の意味も感じなくていいんだということに気が付いたのです。

特に何か物質的なことや物理的なこと、あるいは自分以外の人にもはっきりと分かるようなことについては、何を達成してもそこに意味はないとはっきりと分かるようになりました。

価値のあること、意味のあることとは、人生が本当の幸せに向かうという一点だけです。従ってそれ以外のことには、何をどう成し遂げたところで意味はないのです。

つづく

真実

人は必ず心の軸となる信念や信条というものを持っています。その人の基本的な生き方や考え方のベースとなるものですから、そう簡単に変わるようなものではないのが普通です。

それは頑固だとか優柔不断だとかという、本人の個性にはあまり影響されないように思います。それだけ、しっかりしたその人の人格の土台であるとも言えるわけです。

そうした信念について、それと相反する事柄を主張することは一般にとても無理がありますね。例えば、ガリレオが地動説を唱えた時に、教会から迫害を受けることになってしまいました。

しかし、彼はめげずに「それでも地球は回っている」と言ったという逸話は有名ですね。このように、自分が信じていること、正しいと思うこと、そうした信念、信条に関しては、人は何があってもそれを主張し続けようとするものです。

自分の命が危ぶまれるような状態でさえも、自説を曲げなかったという歴史上の人物は沢山います。自分の場合にも、似たようなことが言えます。

自分がこうだと固く信じていることと正反対のことを言うという経験をしたことはありません。命の危険を感じるようなことがなかったということもありますが、それにしても思い出してもいつも自説を曲げたことはなかったのです。

単にイメージの世界でも、信念とは正反対のことを口に出して表現するというのは、考えられない感じがしてしまいます。

ところが、最近それを体験するチャンスがあったのです。しかし、その経験は思いの他冷静でいることができました。記憶のある限り、生まれて初めての経験だったのですが、心のうちで葛藤を感じるということもありませんでした。

きっと、自分の中にあったものが、単なる正しさや自分を防衛するのに役立つものとか、そういう範疇ではなかったからではないかと思うのです。

つまり、それは信念というより、心の愛の部分がそれを自然と認めている事柄であるために声高に主張する必要がなかったのだろうと考えています。

愛の部分とは、取り立てて主張する必要も、それを証明する必要もないんだと改めて気付いたのです。それが実在であり、真実の力強さなのかもしれません。

愛の耳

先日、「愛の目」という題名でこのブログに書き込みをしました。愛の目で周りを見るようになったら、すべての人が美しいと思えるようになるというお話しでした。

今度は愛の耳で周りの音や人の言葉を聞くようになったら、どうなるかということを述べたいと思います。きっと、「愛の目」を読まれた方でしたら想像が付くのではないでしょうか。

私たちは普段、エゴの耳で人の言葉を聞くように習慣付けられています。エゴの耳は、まず聞いた内容が自分にとって不利益なものかどうかを第一に分析するようにできています。

そして少しでも自分に都合の悪い、自分にとって危険なものと判断すると、その言葉を発した人や団体などに対して、防衛の姿勢をとるように心を動かされてしまいます。

その後で、その内容をいろいろな角度から分析するのです。それは常識的なことかどうか、正しいことかどうか、実現可能かどうかなどなど。

つまり、最も大切な内容そのものの吟味よりも先んじて、自分を守ることを前提としてその内容を聞くのがエゴの耳の聞き方であるということなのです。

ですから、もしもその内容がほとんどすべての人にとって利益をもたらすようなことであるとしても、それが自分を傷つけるような恐れがあると最初に判断する可能性もあるわけです。

そうした場合には、どんなすぐれた内容であっても、その内容を否定したり、聞かなかったことにしてしまうかもしれません。

そして、エゴの耳で聞くときの人の言葉というのは、攻撃されている、理不尽きわまりない、などの思いを自分にもたらす可能性がとても大きくなってしまいます。

愛の耳はそういった判断をせずに、内容をそのまま受け取ることができます。自分にとって不利益かどうかの解釈をしないので、言葉を丸ごと受け入れることができるのです。

すべての人のどんな言葉にもきっと愛を感じることができるようになるはずです。だから、人との会話がとても楽しいものに変化します。

ビクビクせずに相手の言葉を受け入れられるので、誰とでも積極的に会話を楽しむことができるようになるはずですね。

もしも、急にエゴの耳が愛の耳に変化したら、自分は今まで何を聞いてきたのかと愕然とするでしょう。今まで騒音としか聞こえなかったような音でさえ、なんの抵抗感もなくただ耳に入ってくる音を聞けるようになるのです。

どんな音や言葉からも傷つけられないという毎日になるのです。きっと快適な毎日になることでしょうね。一日も早くそうなりたいものです。

裁きと愛

「奇跡のコース」の中の言葉に、こういうものがあります。「裁きと愛とは正反対である。一方からはこの世界のすべての悲しみが生じる。しかしもう一方からは神ご自身の平安が来る。」

裁きとか神という言葉がどうも宗教じみていていやだという方もいらっしゃるかもしれませんね。私もそうでした。ただ、単なる言葉に翻弄されるよりも、自分にとって本当に大切なことかどうかが大事だと思います。

言い換えると、相手を悪者だとすることと、愛によって受け入れるということは真逆だと言っているのです。相手に罪があるという気持ちからは、悲しみしか生まれないですが、愛をもって受け入れたら心の平安を得ることができるということです。

残念ながら、私たちは相手を悪者にしたくてうずうずしている心の部分を持っているのです。その部分を使うと、相手を罰することによって自分を守れるという考えに縛られてしまいます。

それが自分を防衛する安全策だと思っているのです。有名人の誰かが何かの事件を起こすと、初めのうちはこぞってその人を悪者扱いしようとするのはそのためです。

しばらくバッシングが続くと、今度は別の気持ちがやってきて、もう責めるのはやめて欲しいという状態になりますね。人の心にはこうした二つの相反する部分があるということの証明です。

人を罰してしまうということには、実際のところ麻薬のような魅力があります。それは真の幸せとは全く違うのですが、私たちはどうしてもそこに抵抗できないような魅力を感じてしまうのです。

ある種ダイエットしてスリムな身体になりたいが、目の前にあるケーキは食べたくて仕方ないという気持ちと全く同じだと思います。

相手に罪があると思おうとする誘惑は、実は我々が気が付いているようなものとは桁違いに大きなエネルギーなのです。一般的には、人を悪者にしたいなどとは思っていないというような自覚がほとんどですね。

しかし、そこにはとても大がかりな仕掛けがあります。なぜなら、エゴの存亡がかかっているからです。すべての人が愛を選択してしまうと、この世には罪はないということがばれてしまい、その結果もうエゴは生き続けていくことができなくなります。

それはエゴの消滅を意味します。それはエゴが発生した時点まで戻り、すべては一つという愛の想念の中に我々の個人としての意識は消えていくことを意味します。