与えること

私たちの人生というのは、概ね次の二つのことを死ぬまで続けているだけではないかと思います。

○ 足りないと感じるものを手に入れる

○ 手に入れてるものを奪われないようにする

前者は心の中にしっかりと根付いている欠乏感を何とかして満たそうとする行為ですね。後者は自分が所有しているものを奪われてしまうのではないかという恐れから、それを防衛しようとする行為です。

つまり、不足しているものを手に入れ、手に入れたものを失わないでいるということです。

そしてこの両者を失敗することなく、なるべく無難に成功させていくことが人生の幸せだと何となく漠然と思っています。

シンプルな例をあげると、大好きな人と結婚して、その後その人を他の誰にも奪われないで生きていくということです。

確かにそれが幸せと思える人もいるでしょうけれど、これだけで幸せになれるという保証もないことは自明ですね。

足りないものを手に入れて嬉しいのはその時だけです。つまり一時の喜びや安心感を手に入れるということなのです。

そして、その足りないという欠乏感は実は自分が個別性を持った個体であるという分離から来ているものなので、何を手に入れても本質的に満たされるということはないのです。

ですから足りないものを手に入れる行為は死ぬまで続いてしまうのです。また、所有しているものを奪われないようにするというのは、明らかに防衛であって、この根底には恐れがどっしりと鎮座しています。

いつもお話しているように、防衛はエゴの仕事であってそこには愛がありません。ですから、奪われたらどうしようと不安を持ちながら生きることに幸せはありません。

結局、この二つの行為を続けていく人生には、本当の幸せはやってこないということになってしまいます。ではどうしたらいいのでしょうか?

つづく

向上心 その2

昨日のつづきです。

私が知っている限り、愛がベースの向上心というのはとても少ないように感じています。ほとんどがなんらかの恐れを伴って自分を向上させようとしているのではないかと思います。

今の自分のままではダメだ、実は自分はもっと頑張れば絶対もっと出来るはずなのだ、という思い込みがそこには必ずあるのです。

そして、こういった思いというのは自分ばかりではなく、家族や親しい相手に対しても抱いてしまう場合がとても多く、それが愛だと誰もが勘違いしてしまうのです。

例えば親が子供に対して、もっといい点がとれるはず、もっといい学校へ行けるはず、のように、こういった期待をしてしまいがちなのです。

この場合には、期待する方も期待される方も幸せからは遠くなってしまうのです。なぜなら、期待通りなら一時の安心、期待を裏切ったら必ず不服になるからです。

思い出していただきたいのは、大切なのは幸せかどうかという一点だということです。向上するという意味もそのことを抜きにして考えるのでしたら全く意味がありません。

愛を伴う向上心の場合には、上手にピアノが弾けるようになったら本人が嬉しいというシンプルな結果を期待しているだけです。

恐れを伴う向上心の場合には、もっと上手にならなければみっともないし、ライバルに負けたくないという思いです。もし、上手になったとしても瞬間的な安堵があるだけで、心の平安は期待できません。

「もっとできるはず」、これを手放すことがとても大切です。クロールでなんとか25m泳げる人が、もしかしたら自分は水泳ができますと言うかもしれません。

しかし、瞬間的な頑張りで何とか泳いだだけでそこには楽しさを感じられません。このような場合にも、根底には「私はもっとできるはず」があるのです。

心に余裕を持って、平常心を保ちつつ気持ちよく泳ぐことができなければ、自分は水泳ができますとは思わないことです。

今の自分を心底認めることができたら、「もっとできるはず」と頑張る必要は全くなくなってしまいます。

この認めるというのは、言葉を変えて表現すると赦すということかもしれないですね。なぜなら、この否定的な向上心はダメな自分を罰しているという状態であるからです。

そういった今の自分を罰することをやめて、そのままを受け入れる、つまり赦すことができたら、恐れを手放すことになるのです。

自分自身についても、また愛する家族や親しい人達に対しても、この「もっとできるはず」を手放して赦すことを実践していきましょう。それが、自分や相手への心の負荷を減らして、のびのびと暮らすことにつながるのです。

向上心

私たちは、向上心があるおかげで昨日よりも今日、今日よりも明日という具合に常に前へ進んで行こうとします。そして、年齢を重ねるごとに心身ともに成熟して立派な大人へと成長していきます。

ですから、この向上心というのは自分を進化させる原動力とも言えるわけです。ところが、よくよくこの向上心が何から出来ているのかを調べてみると、ベースとなるものは愛か、もしくは恐れであることが分かります。

愛の場合には、例えばもっと自由にピアノを弾いてみたいというシンプルな理由でピアノを練習するといったような向上心となります。

一方、恐れの場合には、もっと上達しなければライバルに負けてしまうし、親をがっかりさせてしまうし、先生に怒られたくない、などのような理由で練習することになります。

恐れをベースとした向上心の場合に特徴的なのは、今の自分を否定しているということです。自己嫌悪や自己否定によって、このダメな状態から脱却したいという向上心であるわけです。

これがひどくなると、とても向上心とは呼べないくらい深刻な気持ちになっていたり、今の自分ではダメだと悩んでしまうことになります。

理想的な自分像というものをいつもどこかに掲げておいて、その理想像と自分の現実を比較してその落差に落ち込んでしまうのです。

それでも本人はあきらめることなく、あくまでもその理想像を追い求めることを続けてしまうのです。ですから、いつまでたっても、満足するということがありません。

負けず嫌いの人にも、このような傾向があるかもしれません。その場合には、ターゲットが理想の自分像ではなくて、ライバルである場合が多いのです。

こういった場合には、確かに頑張ってなんとか今よりも向上しようとしますので、この社会でそれなりに認められるようになる可能性は高くなります。

しかし、人に認められるということは瞬間的なことであって、すぐにまた今のままでは自分はダメだというところに戻ってしまい、またあくなき理想の追求が始まってしまいます。

今の自分のままではダメだ、自分は頑張ればもっと出来るはずだ、というこの二つの思いを手放すことができないと人生の平安は決してやってこないのです。

つづく

罪悪感 その2

昨日のつづきです。

相手のことを罪深いとして裁くのは、実は自分の心の中にある罪悪感の投影なのです。だからこそ、自分の罪と相手の罪は全く同じものだと言えるのです。

自分の中に罪の意識が全くなければ、自分の周囲に罪深い人を見つけることはできません。逆に強い自己嫌悪や自己否定などと一緒に激しい罪悪感を持っていると、周りに執拗に罪を犯す人がいたり、加害者的な人が沢山出現することになってしまいます。

ということは、自分の罪深さを赦すことができたら、相手の罪も赦すことになるわけです。そして、その逆のことも言えます。相手の罪を赦すことができたら、自分の罪悪感も解消されるというわけです。

特に、自分の罪悪感をあまり自覚できない人にとっては、相手の罪を赦すことに専念することで、無自覚のまま自分の罪悪感を減らしていくことができるのです。

「奇跡のコース」では、このことを繰り返し言い続けています。しかも、罪を赦すというよりは、罪は無いとして赦すということです。

その本質的な赦しの方法によってのみ、完全に赦すことができるのです。完全に赦すことができると、罪が消滅してしまいます。というより、元々罪というものはなかったと気づくと言ったほうがいいですね。

罪は自分と相手の間を埋めているものと、以前のブログでお話ししましたので、その罪が消滅するということは、相手との隔たりがなくなってしまうということです。

そして、私たちはそれぞれに違うことを考えて生きている個体であると思っていたものが、元々の一つの存在に戻るということです。

罪悪感

私たちは罪悪感について、普段深く語り合うということはあまりないかもしれないですね。罪悪感を強く感じてる人もいれば、自覚があまりないという人もいるはずです。

罪悪感というものをすごく簡単に説明するとしたら、過去の自分の言動において悔やんでいる思い、ということが言えると思います。

そして、通常罪悪感と共に、もっと分かりやすい表現でいえば、自己否定、自己嫌悪などの感覚も伴うのかもしれません。

一般的に、加害者と被害者がいる場合には、罪悪感とは加害者側の心の状態であるといえます。また、加害者ではない場合にも、罪悪感を感じることはできます。

例えば、決められたルールを守らなかった場合など、そこに被害者はいなくても自分はダメなやつだとして罪悪感を感じることがあるはずです。

罪というのは訂正することの出来ない過ちのことです。キーボードで文字を打ち間違えたら、デリートキーで文字を消して打ち直せばいいですね。これは訂正可能な過ちです。

しかし、人を殺してしまったら、これは訂正できるとはとても思えません。この感覚が罪の意識ですね。訂正できないので、罰が必要となるのです。

罪に対して罰を与えることによって、幾分罪悪感を減らす効果があるのかもしれません。ただ、罰によっても罪がなくなるというわけではないのです。

したがって、罪を犯したという罪悪感は、過去の言動への悔やんでる思いとして永遠に残ることになってしまうのです。

実際、大きな罪悪感を抱えてしまって、思い出すたびに心が深く沈んでしまうという状態で生活している方もいらっしゃるはずです。そういう場合に、思い出さないようにしてしまうこともあるでしょうね。

しかし仮に記憶を開かないようにしたとしても、心の中に罪悪感が沈殿していると人生が灰色に感じてしまうかもしれません。

人はどうしてそんな都合の悪い罪や罪悪感というものを持ってしまうのでしょうか?
何か深い理由があるとは思いませんか?

たとえどんなことがあったとしても、自分の罪をきれいさっぱり水に流してしまうことができれば問題はないはずですね。でもそうは簡単にいかないようです。

それが簡単にできないのは、自分が被害者の立場になったときに、その加害者の罪を水に流して赦すことが簡単にはできないのと同じと言っていいと思います。

自分の犯した罪も相手の犯した罪も基本的には同じです。片方は赦せて片方は赦せないということはないはずです。それはなぜかというと、両者は全く同じものだからです。

つづく

死について その2

昨日のつづきです。

「奇跡のコース」を学ぶことで、死によって何も解決することはないということがはっきり分かったのです。死は生きること以上に幻想でしかあり得ないと感じるようになりました。

しかし、ここで言っている死は幻想だというのは、死んでも魂は残りまた転生してこの世に生まれてくるということを示唆したいのではありません。

実際、催眠療法のセッションにおいて、ごく自然にクライアントさんご自身の過去世と思えるような記憶のところへ戻ってしまうことが時々あります。

ご本人も知らないような昔の家の造りを鮮明に見てしまったり、その時の自分の気持ちや感情が溢れてきてどうしようもなくなったりすることはよくあります。

つまり、この現実を生きている時に負けないくらいにはっきりとした感覚が出てきたりします。勿論、催眠療法のセッションでなくても、普段の生活のふとした時にそういった記憶と思えるようなものが蘇ってくることもあります。

私自身も何度かそのような経験があります。そういった経験によって本人の心が少しでも楽になるのであれば、それはそれでいいのです。

つまり、輪廻転生、過去世や前世などの真偽を議論したりする必要はないということです。それは私に言わせれば、自分の夢の中でどんなことが起きていたかということを議論するようなことだからです。

夢の中で何が起きようと構わないのです。起きているか起きていないかには夢ですから意味はないということです。

大切なことは、夢とはいえ自分がどれだけ聖霊の愛に従って生きる経験をしたかどうかというその一点だけなのです。それは、この現世でも、過去世でも全く同じことなのです。

死について

私はずっと長い間、死んだら目が覚めるのではないかと思っていました。

幼い頃に高熱を出して、夜布団の中でうなされて、そして朝目が覚めたら母や父がそばで自分を見ててくれて、「よく寝てたね、熱も下がったからもう大丈夫だよ。」って言ってくれた、その時のイメージとすごくダブるのです。

寝てる間に何だかひどい目に遭っていたようにも感じるんだけど、でも目が覚めたら自分はしっかりと見守られていて、愛を感じ、いやな夢から抜けられて気分もよくなっていて、何て嬉しいんだろう。そんなイメージです。

だから心のどこかで早くこの面倒くさい人生が終わらないかなあと思っていました。だって終わったら夢から覚めてとても心地いい場所に戻れると思っていたからです。

ところが、「奇跡のコース」と出会ってから、全くそうは思わなくなってしまいました。コースでは、死んでもこの現実という夢から覚めるわけではないと説いています。

我々は生きていても、死んだ後も全く同じ一つの夢の中にいるということです。自分が夢から覚めるためには、聖霊と共に生きてできるだけ純粋な愛の心を取り戻すことがどうしても必要なのです。

なので、早くこの人生が終わらないかなあという気持ちはなくなり、その代わりに今生きている間に出来る限り、愛を取り戻したいと思うようになったのです。

それまでは明確な生きる目的というものもなかったですし、この世界での自分の役割などというものはないと思っていました。だから死がすべてを解決するものと思っていたのです。

今では死によって何も解決することはないということがはっきり分かったのです。死は生きること以上に幻想でしかあり得ないと感じるようになりました。

自分の本当の姿はスピリットなんだということを思い出せば、人間として生きたり、死んだりすることはあまりにも物質的な錯覚でしかないということです。

みなさんはどう思われますか?

英語嫌い

22年間の会社員生活のうち、約16年くらいを外資系の会社にいました。そのおかげで、技術的な資料やマニュアルも英語、本社の人とのミーティングも英語、ということで随分と苦労をしました。

それなりに、英語学校へ通ったりもしたのですが才能がないのか結局ものにならずに、そのまま会社員を辞めて今の仕事に転職してしまいました。

この仕事になってから、もうこれで英語とはおさらばだ、ああよかったと思って8年くらいたった去年、「A Course In Miracles(奇跡のコース)」と出会ってしまいました。

残念なことに、日本語への翻訳がされていないこの本をどうしても読みたいと思ってネットで調べてる時に、個人で翻訳された方がいらっしゃることを知りました。

これぞ神の助け!と思ってさっそく情報をゲットして読み始めたのですが、元々の内容がそんなに簡単ではない上に、言い回しも少し特殊な面があったりして、結局日本語で分からないところは英語の原文をつき合わせて見る必要が出てきてしまいました。

翻訳された方がかなり有能な方なのでしょう、場所によってはかなり意訳されているようで、原文を読んでみると日本語で読んだ時に自分が受け取っていたニュアンスとは違うと思うことが結構あることに気がつきました。

これは英文を読まないわけにはいかないと思うようになって、何だ結局また英語に苦しむ人生に戻ってしまったのかと、最近つくづく思うようになりました。

思い返せば中学1年生の時から英語を勉強してきたはずなのに、全く進歩をしないでいるというのも、考えてみれば驚異的なことです。

その理由を自分なりに分析してみたのですが、どうも人との対立が上達を妨害しているのではないかと感じるのです。

エゴは自分を守るために、人との間に分離を発生させて、それを維持するために対立状態を形成しています。右手で相手と握手しながら、後ろに回した左手でナイフを握り締めているのが私たちです。

その対立が強すぎると、相手の言語を覚えようと言う意欲が少なくなるのではないかと思うのです。母国語の場合は、まだエゴが成長する以前に言葉を習得してしまうので、問題がないのでしょうね。

だとすると、癒しを進めていくことで、人との対立をもっともっと手放していくことによって英語への拒絶感が少なくなってくれば、今後英語の上達が望めるのかもしれないとも感じています。

ただ、コースでは言葉には意味がないということも言われているため、微妙なところですね。

感情は選択できる その2

私たちは感情そのものをコントロールすることはできませんが、感情の発生をコントロール、あるいは選択することはできるのです。

例えば、人に何かいやな事を言われて、ムカッとすることはよくあることですが、それも実はムカッとこないような選択をすることが可能なのです。

勿論どんな場合でも可能かと言われると、とても難しい場面も多々あるかもしれませんね。でも完全なものを求めずに、できる範囲でも実現したら相当に心を平穏に保つことができるようになります。

それには、まず怒りの発生する心理的メカニズムを簡単に理解しておく必要があります。怒りは恐怖と同じように、自分が危険に晒されていると知覚したときに発生する感情です。

危険を知覚したあと、自分の身を守ろうとする自己防衛が働き、その際に逃げることで身を守ろうとする時に使う感情が恐怖であり、自分の力で相手を攻撃することで防衛しようとする時に使う感情が怒りですね。

つまり怒りの感情が発生するためには、まず危険を知覚する、次に防衛するために必要となる感情の中から怒りを選択する、という二つの工程があるわけです。

このどちらか、あるいは両方をカットしてしまうことによって、怒りを発生させないという選択をすることができるのです。

まず、第一工程である、危険を知覚する部分ですが、ここではどんな種類の危険なのかを調べてみます。そうすると、肉体的な危険と心理的な危険とがあることが分かります。ライオンに襲われそうになったら明らかに肉体的な危機ですね。

ただ、こういった場合には怒りよりも怖れが発生する可能性の方が大きいでしょう。一方の心理的な危険ですが、これは以前もお話ししたように、身体と心を混同していることから起きるものです。

いわゆる、心を傷つけられると感じる危険ですね。もしも、ここで自分の心が傷つけられるということはないのだということがはっきり分かれば、第二工程へ進むことがなくなります。

そして、仮に第一工程ではどうしても知覚したことを危険だという解釈をしてしまった場合には、その結果が第二工程に持っていかれます。ここでも選択が可能です。

この工程で放っておくと、必ず防衛のための何らかの感情が選択されてしまいます。
怒りだけの場合もあるし、恐怖だけの場合もあるでしょうし、両方が選択されてしまうこともあります。そうなると、怒りは恐怖によって抑えられて、心の奥に蓄積されます。

しかし、危険は危険だと決定したのだけれど、本当に防衛することが必要なレベルなのかどうか、もし防衛せずともやっていけるという選択をすれば、怒りを発生させないで済むのです。

こういった心の選択ができるということをいつでも忘れずにいることが大切ですし、もしもリアルタイムでうまく危険ではないという解釈、そして防衛するまでもないという選択をすることができれば、怒りの発生は未然に防げるのです。

それと、もう一つ怒りを発生させない方法があります。これは、先日のブログでも書きました、我々は自分が望む知覚を作り出しているということを思い出して下さい。

端的に言ってしまうと、自覚はないものの、自分が怒りたいので危険を感じるような知覚を自分で作り出しているということです。

ですから本当の危険というものは実はないということですね。ある理由のために、自分が相手を怒りによって攻撃する目的で、それに見合った危険を感知するような知覚を発生させているわけですから。

このことを充分に味わって心の底から納得できれば、ばかばかしくて怒りを発生させるようなことはなくなってしまうということです。

怒りを選択しないという生き方は人生を大きく変化させます。どんな怒りも正当なものは一つもないということを覚えておいて下さい。

そして、怒りを選ばずに平安な心で生きていくための心の訓練を今日からでも実践していきましょう。

感情は選択できる

普段私たちは、毎日様々な感情の渦の中で暮らしています。一人でいて寂しい思いをしてみたり、悲しくなってみたり、人の言動に腹を立てたり、嫉妬をしてみたり、不安や恐怖に押し潰されそうに感じてみたり。

そういうことがなくなって、波が少しもないきれいな鏡のような湖面を思わせる心でいつもいられたら随分といいですね。人によっては、ちょっとのことですぐに怒り出す人がいるかと思えば、いつも穏やかで怒ったところを見た事がないというような人もいますね。

このような辛い感情を感じたいと思っている人は誰もいないわけで、できれば愛に満ちた平安な心で毎日過ごしたいわけです。

それにもかかわらず、何かにつけて我々は不安を抱いたり、ちょっとしたことからイライラして攻撃的になったりと忙しいわけです。

もしも、辛く苦しい感情を発生する代わりに、いい感情、気持ちいい感情が出てくるようにできたら人生はとても生き易くなりますね。というより、それが本当に可能になったらこの世界はユートピアになるはずです。

でも感情というのは放っておいても胸の上につきあげて来てしまう、ある種の情動であるわけですから、意識的にそれを変えることはできないのではないかと一般的には思われています。

しかし、工夫次第でかなりのレベルまで、自分の感情を選択することが可能なのです。感情を選択するというよりも、感情に飲み込まれないようにすることができると言ったほうが適切かもしれません。

気をつけなければいけないのは、発生してしまった感情を抑えるという意味に解釈しないようにして下さい。それはただの我慢になってしまいます。これは最悪ですから。

そうではなくて、感情が発生する前に、何らかの手を打つ方法を考えるということです。感情そのものを発生させなければ、無理したり我慢するようなことをせずに心の底から穏やかな平安な気持ちでいられるのですから。

例えば、怒りに焦点を当てて考えて行きたいと思います。

つづく