自由意志はあるか?の話しを再び

これまでも自分の中で、当たり前のように人間には自由意志はある、と思われていることが本当なのかどうかを見つめてきた経緯がありました。

リベット博士の実験によって、自由意志はないという答えが出たり、いやいやその実験には決定的な問題があるんだと。

人間は外界を認識する場合に、脳の中に仮想的な世界を構築するということを考慮すると、上記の実験結果は役に立たないんだと。

そんなようなことで、自由意志があるかどうかはいつまでも議論の対象であるんだろうなと思っていたのです。

ただし、個人的な感覚はこうしたこととはまた別。私自身の感覚においては、自由意志があるとは到底思えないというのが本音としてあったのですね。

なぜなら、自分がどちらかを選択するというときに、どうやって選択したのかを自分に問い合わせても、答えがないからですね。

だから誰が何と言おうと、自分では自由意志がないというのが一貫した感覚ではあったのです。そしてとうとう決定的な事実が。

つまり、非二元の気づきがやってきたら、もうおしまいなのです。誰もいないのですから、自由意志があるかどうかの議論に完全なる終止符が打たれてしまいましたね。

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二元の世界は理不尽なもの

今年建て直した我が家は、いわゆる「オール電化」というもので、必要なエネルギーを全部電気、電力でまかなうわけです。

この電気というのは、電圧がかかった経路を電流が流れることによってエネルギーを発生させるもので、電流というのは電子の流れです。

この電子はマイナスの電荷を帯びていて、プラスの電荷に引き寄せられるのです。小学生の時に、電池の実験をしたと思います。

そして不思議なことに、マイナスの電荷とプラスの電荷が結合すると、電荷はゼロになってしまうのです。

逆に言えば、何もないところからプラスとマイナスへと分離させることができると。これって不思議じゃないですかね?

これぞまさしく二元性の代表みたいなものです。どちらか片方だけでは存在できないのです。二元なので必ず対極のペアで成立するわけです。

もしも、「低い」がなければ「高い」という概念は存在できませんし、「暗い」がなければ「明るい」も存在できないのです。

「見る側」と「見られる側」のペアによって初めて「見る」ことが起きうるのです。もしも見る側がなければ、見られる側も存在しませんし、その逆も然り。

あなたに見られるモノがなければ、見る主体としてのあなたの存在もあり得ないということになってしまうのです。

これって、真剣に考えてみると分かるのですが、相当に理不尽極まりない世界ではないかと思うのです。

だからこそ、本当のところはその両者はともに存在していないということ。そして残るのは、「見る」という感覚だけなのですね。

分からないことは分からないままにしておく

二元性という偽物を排除して非二元の世界が現実としての本当の姿だとすると、この世界って一体何なのだろうなあと。

まるで夢の世界のような感じもしてきますね。なぜなら、実体がなくて誰もいないし何もない、ただ体験だけがある世界。

寝ている時にみる夢もそういう意味では全く同じではないかと。全てが空想の世界なんだけど、その体験している感じだけはあるのですから。

けれども、私はこの現実が夢であるとは思えないのです。なぜなら、夢から覚めたところでじゃあ実体のある世界ってどうなってるの?という疑問が出てくるからです。

きっと夢から覚めたところで、また同じことの繰り返しになってしまうのではないかと。これ以上は想像すらできません。

分からないことは分からないままにしておく、この方法でこれからも生きていく(感じ)のがいいのではないかなと。

今年もあと2週間くらいになりましたけれど、今年の後半は自分にとってなんだかすごく揺さぶられた毎日だったなあと思うのです。

来年の話はまだ早いですが、こうしたブログや動画をまだ続けていくのか皆目分からないままでいようと思うのですね。

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非二元が不人気な理由

会社員だった頃、時々アメリカに出張に行っていたのですが、向こうでの移動手段は基本クルマだったのです。

ご存知だと思いますが、アメリカではクルマは右側通行なんですね。だから、もしも間違って日本と同じように左側通行したら、非常に危険なことになるわけです。

一般道を普通に走っている時はいいのですが、左折するときに間違って左側車線へ入っていきそうになることが何度かありました。

あと、宿泊しているホテルの駐車場では、車線というものがないので誰もが適宜右側になるように運転しているのですが、ただどこを走ればいいかは曖昧なんです。

中央線があるわけでもないし。で、気がつくと左側よりに走っていて危うくぶつかってしまいそうになったことがあります。

このように習慣というのはすぐには変えられないものですね。だから、できるだけ意識的でいなければならないのです。

なぜなら、習慣を使うのは無意識領域だからです。非二元も同じです。長いこと勝手な思い込みをベースに生きてきたので、無意識はそれを使おうとするのです。

だから、ぼーっと生きていると、非二元なんてどこかへ行ってしまいます。そしてこれまで通りに、個人の自分がこの人生を生きているつもり満々になります。

それでもいいのですが、気づいたことを時々思い出すたびに、あらゆることが全く理解不能になってしまうのです。

お手上げ状態になります。これじゃあ非二元なんて、誰にも見向きもされないはずです。けれども、一度知ってしまったからには、これを忘れることなんてできませんね。

無邪気に笑う赤ちゃんの世界

赤ちゃんて「いないいないば〜」をやってあげると、途方もなく面白がって大笑いしてくれますよね。

しかも、何度も何度も同じことを繰り返しても笑うし、毎回次も期待しているのが分かります。

あの笑い方を見て、一緒に笑ってしまわない人はいないと思います。さて、なぜ赤ちゃんはあれほど笑ってくれるのでしょう?

多分ですが、隠れて見えなかった顔が急に現れることに驚きながら可笑しくて笑ってしまうのだと思っていませんか?

近いですが実は少し違うと思っています。正確には、なかった顔が突然現れるから大笑いしてしまうのです。

要するに、大人の我々との違いは、顔が見えていない時にも隠れている顔があると想定しているのが大人で、赤ちゃんはその想定がないのです。

だから、リアルになかった顔が出現する様を見ているわけです。そのために、その衝撃が大きいのでそれだけ大きな反応をするわけです。

そして何度でも笑ってしまうのは、毎回が新鮮だからです。もしも、何もない空間から顔が出現したら、大人の私たちだってびっくり仰天してしまうはず。

ただし、笑うというより恐怖で引き攣るでしょうね。大人はそんなことはあり得ないという想定をしているからです。

赤ちゃんにはそんな想定がないので、ただただ純粋に笑ってくれるのですね。どんな想定もせずに見ることができる赤ちゃんには、一瞬一瞬が刺激的なんでしょうね。

非二元ってそういう世界ではないかなと。

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「存在」って意味あるの?

非二元を日々の生活の中で定着させようとしているうちに、不思議なことに気づくようになったのですね。

それは、「存在」という言葉の危うさです。あれ、「存在」って何だろう?と思うようになってきたということです。

「存在」は「存在」だろうと言われそうですが、自分の中ではもっと確固としたイメージがあったのです。

宇宙が存在する、太陽が、地球が存在する。自分が存在する。家が存在する。そうした揺るぎない感じがしていたのです。

ところが、「これ」しかないとなった時に、果たして「これ」は存在するのか否か?これが分からないのです。

「これ」は物質でもないし、かといって何もないということでもないので、存在を云々する対象ではないのかなと。

そうなってくると、「存在」ということの意味は全くないことになってしまいそうですね。ああ、この宇宙は「存在」ではなかったのですね。

じゃあ一体何なのだろうと考えたところで、答えは決して見つからないのでしょうね。これもそのまま受け入れるしかないのだろうなと。

oshoの言葉が懐かしい

急にブログのエディターの具合がおかしくなって、段落を打ち込めない状態になってしまったので、仕方なくちょっと変ですがこれで書いていこうと思います。


今日12月11日は、敬愛するoshoの誕生日であり、同時に私の父の誕生日でもあるのです。父親の方はとりあえず関係ないのですが…。

ずっと長い間、osho の本(講話)を読んできて精神的な支えというのか、とにかくこれでいいんだと合点がいくのはoshoの言葉だったのです。

彼の一つひとつの言葉が全て、自分の思考や感覚はこれで良かったんだという得難い安心感を与えてくれたというのか。

ところがです。ここへ来て、非二元の気付きみたいなものがやってきてしまったがために、これまでのような感覚でoshoの言葉が聞けなくなってしまいました。

というのも、なぜoshoは非二元的な内容のことを言わないのだろうという疑問が湧いてしまうからです。

oshoは全てを悟っているはずなのになあと。もしかすると、そう言った気づきが弟子たちのためにはあまり役に立たないと考えているのかもと思うのです。

oshoの言葉を聞いているときは、とても楽しいし嬉しいし、自分の全てを捧げたいくらいの気持ちにもなれるのです。

けれども、非二元は夢も希望もその一切合切を奪われてしまい、救われたいと願っている自分もいないと気づいてしまったらねえ。

そんなわけで、気づく前と後とでどちらが良かったのかなと考えてしまうわけです。そうはいっても、やってきてしまったものはもう仕方ないのですけどね。

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失っていたダイレクト感が戻る

ウパニシャッド(バラモン教の奥義書)に次のような一節があるということです。「神は感覚に外を向かせた。そこで人間は外を見るようになり、内なる自己を見なくなった。だが時おり勇気ある魂が永遠の生を願い後ろをふりかえって自己を見出してきた。」

外側にばかり注意を向ける代わりに、内側に意識を向けるようにしましょうというのは、これまで散々お伝えしてきたことでした。

それはそれとして、今日お伝えしたいことは意識を向けるということではなく、リアルに内側をこの目で見ようとするのです。

そうすると、外側に見ていた景色と同じものが内側(反対方向)にも見えることに気づくかもしれません。

そのことで、自分はこっち側にいるということが間違いだったと気づくのです。どこにいるわけでもなく、敢えて言えば見えているものの中心にいる。

言葉を変えて表現すれば、見えているものそのものになってしまう感じがするかもしれません。これが視点がなくなる感覚です。

子供の時にダイレクト感がなくなったと感じたことがあったのですが、きっとこっち側(頭の中)から外を見ていることにしてしまったからかなと。

この視点が消える感覚になると、なくしてしまっていたダイレクト感が少し戻ってきたように思われるのですね。

自分の思考を信じる習慣

とても不思議な感じがするのですが、私たちは自分が思っていることを信じて、見ていることを信じないのですね。

これってどう考えても逆じゃないのかなと。だって、思っていることなんてただ思っていることでしかないのに。

その一方で、見ていることって恣意的に操作することはなかなか難しいわけなので。つまり真反対をいつもやっているんだなと。

たとえば、目の前にあるリンゴのように見えるものを見ている時、これはリンゴに違いないと思うわけです。

つまり、視覚情報からリンゴであることを断定(思い込む)してしまうのです。リンゴのように見えるというところで終わりにはしないのです。

でももし、見えているものを何の判断もなしにただ眺めるというスタンスをとるなら、リンゴかどうかは不明のままにしておけるはず。

それができないのは、自我の特徴として分からないものをそのままにしておきたくないという傾向があるのですね。

分からない状態とは不安と結びつくし、分かったと思うことで少しばかりの安心を手に入れることができるのです。

こうした根深い習慣を見抜いて、見えているその感覚をそのままにしておく練習をすると、これしかないということに気付けるかもしれませんね。

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「想定」を見抜く

今日も今日とて、自分がどのくらい「想定」によって周囲を見ているのかを考えているのですが、まあびっくりします。

何から何まで想定しまくりだということに気づくのです。自分がここにいて、向こう側にある建物を見ているとします。

自分と建物の間には空間があると想定しているし、両者の間には距離があると想定しているのです。

あの建物には実体があると想定しているし、最大の想定は自分はこうしてここにいるという想定かもしれません。

自分には肉眼があると想定していて、その肉眼で建物を見ていると想定しているんです。え、全部事実じゃないか!と言いたいのは分かります。

けれども、事実であるならそれを証明できるのかを検証してみることです。単に知らないということに気づくかもしれません。

確実なのはただ一つだけ、自分がここにいて、向こう側にある建物を見ている「感じ」だけがあるということ。

建物のように見えているのは、単に建物のように見えているだけなのですね。ものすごくシンプルなんですよね。