自我の輪郭が薄くなっていく

体験だけがある、経験だけがあるというのを別の言葉で表現すれば、現れだけがただあるということになります。

この「現れ」というのは、実体というものを伴わない単なる見かけだけということ。それが起きているように見えるだけ。

そこには一切の個別性がなく、あくまでもフラットなものなのです。全ての現れには境界もどんな特別なものもありません。

二元の言葉を使うと、たとえば空に浮かんでいる雲と、自分の内面にあると思える思考や感情、あるいは気分とがまったく同等な現れなのです。

外側も内側もないのですから、個人としての自分などが入り込む余地は全くなくても当然かもしれませんね。

こうした気づきは、自我の輪郭を薄くしてくれるものとしては画期的かもしれません。心の中にどんな反応が起きたとしても、雲やテーブルと同じなんだと。

非二元に気づくまでは、ただ自分の内面に意識を向けておくというワークをすることで、思考よりも意識的であることを心がけていたのです。

けれども、その内面と思っていたものが、ただの現れの一つであり、その他のすべての現れとひと繋がりであることになったわけです。

これをなるべく忘れないようにしていられると、観照者としての視点で居続けられるようになるかもしれませんね。

「実体」とは思考が作った便利アイデア

この世界にはどんな実体もないということに気づいてから、早一年が過ぎました。今ではそのことが当たり前になったようです。

あの頃は、とんでもないことに気づいてしまったなあと思って、それでもその気づきに対して自分の中では懐疑的な気持ちもあったのです。

そんなバカなことを思っている人はまずいないだろうし、これをどう表現したら人に分かってもらえるだろうかと。

そう考えていたところ、ちゃんとハマる概念があったのですね。それが非二元だったわけですが、その頃は実体がないことと非二元の結びつきも曖昧でした。

しばらくの間は、実体があるかどうかは証明できないという立場をとっていたのですが、それも今は意味がなくなりました。

なぜなら、実体というのは、思考が上手くこの世界を把握するために作り出した便利アイデアだと分かったからです。

そして的確に説明できないのですが、どうやっても実体というものはあり得ないという理解がやってくるようにもなったのです。

言ってみれば、原理的に不可能ということです。ここが上手く説明できるようになったら、また書こうと思います。

どんな構造もなく一様

まず「構造がある」とはどういうことでしょうか?一般的に、自分と他人、こことあそこ、原因と結果、思考と感情のように、世界を分けて理解しています。

この「分けて理解する仕組み」そのものが「構造」なのです。思考が世界を整理するために作り出すマップのようなものです。

一方で非二元では、こうした分け方が実在しているわけではなく、ただの見かけ、現れに過ぎないということを見抜いているのです。

例えば、映画の中では、登場人物同士が争ったり、旅をしたり過去や未来があったりします。でもスクリーン自体は、分かれていない、動いていない、どこにも向かっていない。

映画に構造があるように見えても、スクリーンそのものは「一様」なのですね。あるいは、波は、形、大きさ、生まれて消える時間があります。

でも海そのものには、そうした区別はありません。波はただの動きの表れであり、バラバラの存在ではない。

非二元では、この海そのものが現実の本質であることに気づいているのです。ただし、「一様」というのは、全てが一つに溶けた退屈な「灰色の無」ではありません。

むしろ、区別が実在しているわけではないし、あるように見えているだけという意味でも一様なのです。

もっとストレートに表現すれば、構造は見かけであり、本当の土台には境界も分割もない。その土台が「一様」と呼ばれるわけですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

「個人の問題」などない

子供の頃に、よく空に浮かんでいる雲を眺めていて、ふと気づくと距離感が曖昧になって、どのくらい遠くにあるのかの感覚がなくなることがありました。

でも瞬きしてしまうといつもの距離感に戻されてしまうのですが、あの不思議な感覚が面白くて、何度も繰り返して楽しんでいました。

非二元の探求をするようになって、距離感がバグってしまうあの感覚こそが、本来の感覚なのだなと今なら分かるのです。

なぜなら、空間とか距離というものが単なる概念だと気づいたからです。つまり、雲は遠くにあるわけではないのです。

一般的な私たちの感覚としては、自分の思考や感情、あるいは身体からやってくる感覚などの方がすぐ近くにあると思っています。

けれども、それらは身体の中で発生しているのではなくて、あの空に浮かぶ雲となんら違いがないのです。

そのことに気づくと、本当に個人性というものが薄れていくのが分かりますね。具体的な事例で説明してみます。

例えば、いつも首から肩にかけての凝りがひどくて辛いと感じているなら、普段ならその辛さは悪いことだし、何とかして治したいと思うわけです。

けれども、その凝りの感覚は「個人の問題」から「空に浮かんでいるように見える雲と同じ単なる現れに過ぎない」と気づくことで、何かが柔らかくなる感じがしますね。

探究の本当の目的

これは osho から聞いた言葉なのですが、努力というのはどんな努力も無駄だったと気づくためにするものだとか。

つまり、これ以上の努力はもうできないという究極のところまで努力をして、それでも目的を達成できないときに、努力から手離れできるのだと。

ブッダはあらゆる難行苦行をクリアしたにも拘らず、覚醒することができなかったので諦め切って菩提樹の下で瞑想して、眠りから覚めた時に覚醒したらしいですね。

完全に諦めることができると、自我は消えていくことになるのでしょうけれど、逆に言えば努力できる間は自我は健在ということです。

探究についても同じようなことが言えるような気がするのです。それは、どれほど探究を続けても目標に到達できないと気づいたときに、初めて探究が止むからです。

探究の本当の目的とは、その探究を終わりにするということだったということですね。なんとも皮肉なことですが。

まだしばらくは、私の探究は終わりそうにありません。ということは、探究を続ける必要があるということです。

探究者はどこにもいないということには気づいているのですが、探究という現象が起きていることをただ受け入れるしかないのかもしれません。

非二元のシンプルさにくつろぐ

ただ在るということのシンプルさに気付けば、それがそのまま非二元のフェルトセンス的な感覚になるのです。

それは海に例えてみれば分かりやすいかもしれませんね。海は、海底深く入り込んでいけば、そこには静寂が広がっています。

一方で、海面は大小様々な波が起きていて常に揺れて不安定であり、あたかも複雑な様相を見せています。

けれどもそれは、単なる見かけであって波という現れが起きているように見えるだけで、それも海の一部でしかありません。

それと同様にして、ただ在ることのシンプルさ(静寂さ)という場に、あらゆる不安や痛み、エンドレスの思考と言ったものが渦巻いています。

ところがそれはそのように見えているだけで、そういったものもその複雑さは海面の波のように現れているに過ぎません。

複雑に見えるこの世界の背後にある、シンプルさ、静寂さに気づいてそこにくつろいでいられればいいのですね。 

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

呼吸ができるって素晴らしい

昨夜寝入る前に、ちょっと面白いイメージが浮かんできたので、それを利用してしばし遊んでみたのです。

それは、どうも海の中にいるような感じで、重力から解放されてラク〜にしているのですが、海水という感じはせずに非常に綺麗な水なのです。

水の温度がちょうど人肌くらいでそれがとても気持ちいいのです。完全な透明ではなく、少し不透明な感じもしてとにかく暖かい。

その時、海の中にいるのに呼吸ができることに気づいて、ああなんて楽なんだろうと思っているのです。

ひと呼吸ひと呼吸が非常に気持ちが良くて、それが言葉にできないようなエクスタシーなのです。呼吸ができるって最高みたいな。

あれ、コレって日常の生活の中でも使えるんじゃないかなって。呼吸ができることのありがたさというのか。

海の中でゆったり過ごしているうちに、その海こそが自分自身なんだという感じがやってきて、小さな自分はその中へと溶けていく。

やっぱり自分の身体というのは幻想なんだなと実感を伴って理解ができたようです。忘れないようにしないとなと。

こんな感じのイメージが続いているうちに、気がついた時には気持ちのいい深い眠りの中にいたようです。

深刻さから笑いへ

他の動物にはなくて、我々人間にだけ備わっている能力の一つに「笑う」ということが挙げられると思います。

馬とか犬や猿などは、もしかしたら短い時間なら笑ってるかも?と思える場合もあるかもしれませんが、それでも人間とは違います。

この笑うということが、生きる上でとても大切なものだということを、かつて osho が言っていたのを思い出したのです。

笑いながら激怒したり、号泣するということはできないし、深刻になることもできません。つまり、そこには明確な違いがあるということです。

屈託なく笑うことは、自我にはできないことなのですね。だから、自我のパワーを強くするようなこととは一緒にはできないのです。

特に自我を強くする深刻さというのは、どうやっても笑いのエネルギーとは共存できないことは明白です。

何が起きてもそれを笑い飛ばしていられるなら、自我は力を失っていくでしょうね。実際、osho がいつも微笑んでいたような記憶があるのです。

聞いた話ですが、覚醒する前にずっと笑っていた人もいるとか。なんで笑ってるのか聞いたら、全てが滑稽に思えたということです。

自我が生きる原動力にしている、もっと頑張らねばとか、負けてはならぬ、より良い自分、正しい自分にならねば等々、全てが笑いからは遠い感じがします。

何があっても、何はなくても、笑いのエネルギーで満たされるようになるなら、もう覚醒も何もどうでも良くなりますね。

内側も外側もない

常識的な感覚として、私たちは自分の肉体の外側にはこの広大な世界が広がっていると信じています。

また一方では、肉体の内側こそが自分自身であり、そこにあらゆる感覚や思考、感情その他の心の状態などがあると思っています。

つまり、外側で起きた事象に対して内側で反応をするということを毎日繰り返していると感じているわけです。

けれども、それが違っていたと気づく時がやってくるかもしれません。というのも、非二元の気づきによって、内側も外側もなかったと分かったからです。

自分の思考、感情、感覚、気持ち、気分などが身体の内側にあるという妄想から抜け出る時がやってくるのです。

あるがままをそのように見ると、ここにはどんな境界も見つからないことに気づいてしまうのです。

肉体の表面が境界となって内と外を作っているという馬鹿げた考えに、囚われにくくなっていくのです。

全てが一つになってしまって、これはここに、あれはあそこに、ということが言えなくなってしまうのですね。

その一様さの中に、自分という個人がいるということの方が異常な感じがしてくるのです。私たちは、身体の内側にも外側にもいないのですから。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

気づきの視点でいることを忘れない

昨日のブログでは、情報だけがあるという内容のことをお伝えしました。でもその情報が一体どこからやってくるのかには触れませんでした。

私は個人的にそれを知りたいと思う気持ちがあるのですが、でもそれは決して知ることはできないのだということも分かっています。

というのも、それは次のような例えを考えてみればいいのです。映画や動画を観ているとき、その動画の中にはその動画のネタ元を見つけることはできません。

あるいは、毎晩見る夢も同じです。その夢の中をどれほど探し回ったところで、その夢がどこからやってくるのかを見つけることは不可能ですね。

そういったことと同じなのかなと。私たちはある意味、この現実世界という夢の住人として、生かされているのです。

だとしたら、これを生み出している情報、あるいは経験、体験がどこからどうやって起こされているのかを知ることはないのです。

とはいうものの、その大元に意識を向けつつ生活するように努めることは可能なのかもしれませんね。

そしてその方法が、非二元をできるだけ意識し続けて忘れずにいるようにすること。別の表現をするなら、気づきの視点でいるようにするということですね。