自分のこと90%、外側の世界10%

あなたが自我と同化しているのであれば、つまり自分のことを一人の個人として見ているのであれば、とことん自分を救うことに労力を費やすことです。

良い人ぶって、他人の人生に干渉して、何とかして助けようとすることが、どれほどバカバカしいことかを見ることです。

なぜなら、自分の人生すらロクに救うことができずにいるのに、一体何様のつもりで他人の人生に足を踏み入れようとするのか?

他人の仕事を取ろうとしないこと。他人の人生の問題を解決することなど土台無理なことなのです。

それよりは全力で自分本位な生き方をすることです。誰のことよりも自分の思いや気持ちを優先すること。その際やってくる罪悪感に負けないこと。

自分をしっかり守り、自分を救うことができたときに初めて、余力を外に向けることに意味が出てくるのです。

それまでは、徹底的に自分を見るのです。自分が90%で、残りの10%で外側の世界を見るくらいがちょうどいいのです。

自分に対して正直になること。極端なことを言えば、人を騙しても絶対に自分を騙さないこと。さもなければ、人生は悲惨なことになってしまいます。

いつも自分の気持ちや想いを見つつ、それを尊重してあげることです。最上級のおもてなしの気持ちで見守ることですね。

あなたは何ものにも縛られなくていい

父親の実家に、代々伝わる家系図があって、始まりは武田信玄の家臣だった人だと聞いたことがあります。

武田信玄は生誕1521年12月1日の人らしいので、今から500年前に生まれたのですね。(ちなみに私と誕生日が同じです、関係ないか…)

つまりその家系図には500年くらいの長きに渡って、代々の人物の名前が記されているのです。何だか貴重な情報のような気がしないでもありません。

けれども、実際には家系などというものには全く興味もなく、いわゆるご先祖様への供養みたいなことにも興味がないのです。

500年続いた家系であろうと、それが滅びたところで何とも感じないし、お墓を守る的な感覚も全くありません。

家とか家柄、家系といったものへの執着が皆無なのです。そういうものを大事にする人もたくさんいることは知っています。

それが悪いということではないのですが、もしもそこに特別感や執着といったものが付着するのであれば、それは醜悪なものになってしまいます。

家族といえども別に特別なものではないのです。家族と共に暮らせばいいと思いますが、それでも一人でいるように生きることです。

自分が何かに縛られるようなことがあったら、それこそ不自然で不自由な人生になってしまうからです。

あなたの周りに、あなたの自由や無邪気さを奪うようなことを働きかけてくる人がいても、一切気にせずに自分のままで生き切ることです。

少しの勇気が必要かもしれませんが、その恩恵は計り知れません。せっかくの人生をできる限り清々しいものにしたいものですね。

5000個目の投稿

さあ今日もブログを書こうと思って管理画面に入ったところ、ふとブログの投稿数が4999個になっていることに気づきました。

キリ番というのがありますが、特に気になることもなかったのですが、これが5000個目かぁと思うと、ちょっとした感慨深いものがありますね。

毎日書くってすごいですねぇと言う人もいますが、続けるためには毎日の方が都合がいいのは明白です。

当初は、書きたい時だけ書けばいいくらいに思っていたのですが、それをやっていたら絶対に続いていなかったはず。

毎日は面倒だから1日おきでいいやとやっていたら、それはもっと難しいはずなのです。習慣化するためには、毎日以外にありません。

そしてそれが最も無理のないやり方なのでしょうね。これは決して意図してこうなったわけではなく、気が付いたら毎日書いていたと言うだけです。

きっとサラリーマンの時のような生活スタイルであったら、不可能だったはずです。私の毎日は基本的にはフリータイムが続いているようなもの。

クルマの充電に30分ほどかかるのですが、それもまったく苦にならないのは、やるべきことがほぼない毎日だからです。

若い時のようにやるべきことが沢山あるなら、続けるのは相当に難しいはずです。私の場合、書くことが浮かんでこないときには、来るまでが瞑想タイムのようなもの。

それもいいように後押ししてくれていると思っています。自我の習慣が全て悪いもの、と言うわけではないのですね。

深刻さを撲滅する

当然のことながら、人生はさながらゲームのようなものだと気楽に思っている人は、決してセッションにはいらっしゃらないはずです。

ここで言うゲームというのは、深刻なゲームではなくて戯れのことです。幼い子供の遊びのようなものです。

そのような遊びは、それ自体を楽しむのが目的であって、それ以外のどんな目的もありません。だからこそ、深刻さとは無縁なのです。

けれども、最近のゲームはたとえ子供向けであるにせよ、そこに戦いの要素があったり、強い刺激があったりして、深刻さが入り込んできているのです。

なぜなら、その方が自我の戦闘意識を刺激して、より深刻にのめり込む要素が盛り込まれているからですね。

私がよくこのブログでもお伝えしているように、人生を物語として見るという姿勢こそ、深刻さからの解放でもあるのです。

長いこと癒しの世界に携わっていて思うことは、深刻さほど癒しを邪魔するものはないということです。

物事に対して真剣に向き合うことは素晴らしいことですが、深刻になってしまうとそこからあらゆる苦悩が生み出されるのです。

生きて、死ぬだけなのに一体なぜそれほどまでに深刻にならなければならないのか、それをじっくり見つめてみることです。

もしもあなたのマインドの中にある深刻さが、半分になってしまうなら、それだけで人生を楽しむことが容易にできるようになるはずです。

このことを忘れないことです。そして、深刻さがどこからやってくるのかを解明して、そこから離れている練習をすることですね。

ぜひ試してみて下さい。

今ここにただ在る

「今ここにただ在る」ということをさらっと聞き流してしまいがちですが、とても本質的なことを描写していると言えますね。

「今」というのは、時間のことを言っているのではなく、逆に時間の概念から解放された感覚のことです。

また、「ここ」というのも場所のことを言っているわけではなく、ここでもあそこでもどこでもないという感覚のことです。

一般的には、瞑想している時の感覚と言えるのですが、実は瞑想しなくても思考が入ってこなくなれば、この状態になるのです。

なぜなら、時間も場所もどちらも思考によってあたかも実在しているかのように感じるからです。思考が停止してしまえば、どちらも意味が消えてしまいます。

そして「ただ在る」というのは、どのようにとか、何としてということもなく在るということです。

結局、いつ(when)、どこで(where)、何が(what or who)、どのように(how)といった普段は大切にしている情報が全て消えるのです。

だから自我にとっては、この「今ここにただ在る」というのは魅力がないだけではなく、気に入らないことなのですね。

ただこの感覚に慣れ親しんでいくことで、このブログでしばしばお伝えしている全体性の感覚にも馴染んでいけるのだろうと思います。

逆境の恩恵

私たちは、あわよくば都合のいいことばかり起きてくれたらと願うものですが、必ずしもそううまくはいきません。

というよりは、必ずや都合の悪いことが起きてきます。大切なことは、そのときにどのようにしているのかということなのです。

嫌な出来事には様々あります。22年前に私が経験した大腸癌の宣告もその一つでした。あるいは、頑張っても頑張っても仕事がうまくいかない。

それこそ交通事故に遭遇してしまうとか、大切な人に先立たれる等々。さあ、そのときにどのようにしているのか?

嘆き悲しむだけで問題と対面するのを先送りするのか、なぜこんなことになったのかと過去を悔やむのか、それとも未来を憂いて絶望するのか。

大切なことは、過去へも未来へも行かないこと。ただその渦中に居続けることです。無理やりの逆転劇を狙わないこと。

じっくりとその苦悩の中に入っていることで、自然と何かが起きるのです。それは周囲に起きるのかもしれないし、自分自身に起きるかもしれません。

解決、対処、そういったことを一旦忘れてしっかりとその中に入ることです。そうすると、不思議にどこからともなく光が見えてくるのです。

そこにじっとしていることは、どことなく信頼と類似している感覚があります。そして必ずやそうした逆境は、あなたに多くの気づきをもたらしてくれるのですね。

自他はペアで成立する

子供の頃からずっと、この世界には本当は自分しかいないのではないか?という感覚がありました。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、そういう俺様感ではないのです。ただ、自分が認識している中にあるのは、自分だけだという感覚です。

外の世界とか他人というのは、本当のところその存在が曖昧なのです。更に言うと、その感覚を好んでいるなというのも分かるのです。

地球上に誰もいなくなって、自分一人になってしまったら凄まじい孤独感がやってくるだろうことは分かるのですが、一旦それは傍に置くのです。

自分一人だと気持ちがいいのは、きっと闘う相手がいなくなること、煩わされることがなくなるということがあるのでしょうね。

けれども、もっと先には他人がいないということで、実は個としての自分も一緒に消えていってしまうという感覚があるのです。

実はそれが本当は気持ちがいいのではないかと大人になって気づいたのです。自他というのは、表裏と同様にペアで成り立っているのです。

だから他が消えれば自も消え失せるのです。その時、自他の区別のない全体としての真の自己が顕われるのでしょうね。

目を閉じる習慣

以前にも一度くらい書いたことがあったかもしれませんが、新たな気持ちで再度書いてみようと思います。

何かというと、目を閉じるということについてです。朝起きてから夜寝るまでの間、つまりは日中活動している間に意識的に一定時間目を閉じることはあまりないはずです。

居眠りしたり、目の違和感などで目をつぶることはあるかもしれませんが、そういうことではなくとにかく目を閉じるのです。

10年以上も前のことですが、定期的に勉強会を開催していたことがあるのですが、参加者の一人が時々目を閉じるのを目撃したのです。

自分の身に置き換えてみたら、人前で目を閉じるのは何かの理由がない限りはちょっと周囲に対して失礼な感じがしたのです。

けれども、その人が目をつぶっている姿を見ても、全く失礼な感じがしなかったので、自分も真似てみようと思い立ったのです。

実際にやってみると、思いの外効果を感じられたのです。周囲からくる信号をある程度遮断することができるので、内側に意識を向けやすくなるのですね。

今ではもう無意識的に目を閉じるようになりました。きっとセッション中に私が目を閉じてクライアントさんのお話しを聞いている姿を記憶している人もいらっしゃるでしょう。

いつどんな時でも、危険がない限りは目を閉じることで、意識を内側に向けやすくなるのです。その効果は絶大です。

だから病みつきになってしまうくらいです。もしも、内側に意識を向けるのが難しいと感じているなら、所構わず目を閉じることをお勧めします。

違うなと思ったらすぐに目を開ければいいだけなので、どんなリスクもありませんので、是非試してみてください。

そして目を閉じているときに不安を感じるようでしたら、そこを癒す必要があるということにも気づけるはずです。

マインドの歪みが身近な家族に顕われる

どんなものでも余計な力が加わると、そのままのあるべき姿から不自然な歪みを生じるものです。これはモノでも人間でも同じです。

つまり自然であることが理想なのですが、さまざまな理由から何かの力が加わってパキッと割れてしまったりするのです。

もしもその人が表面的には頑張って問題ないかのように生きていたとしても、その歪みは身近な誰かのところに出現することにもなるのです。

大抵は家族の中のひ弱なところ、より繊細な感覚を持った人のところへと歪みは集中することになるのです。

それが子供の場合であると、親は困ってしまいます。何が悪いのかが皆目わからないからです。自分は正しい道を精一杯頑張ってきた。

努力もしてきた。それなのに、なぜか子供の人生に何らかの問題が起きるのです。こうしたことは本当によくあることです。

目には見えないマインドの裏事情を理解しようとする意欲さえあれば、問題の首根っこを掴んだことになります。

あとは理解と実践。マインドへの深い理解と、その洞察から自然と導き出される新たな生き方の実践が大切なのです。

問題を近視眼的に捉えるのではなく、このような家族の間のマインドの関連性も含めて、じっくり見つめることですね。

自分に注意を向ける

自分を癒していくためには、何はともあれ自分自身に注意を向けるということが求められます。癒す対象を見ずには何も始まらないからです。

日頃から自分を見つめることに慣れている人は、外側ばかりを見てきた人に比べてその点では大分有利ですね。

ただ所詮は自分を見ることを習慣にしていけばいいだけです。セッションでは必ず自分に注意を向けることになるからいいのです。

けれども、普段の生活の中でモミクシャにされている間に、自分のことをすっかり忘れて、周囲で起きていることに意識を持っていかれてしまうのです。

そういう状態では、癒しの進み具合は思うようにはいかないでしょうね。それがダメというわけではありませんが。

とにかく、癒しの基本は1にも2にも、自分自身を深く見るということです。それと同時に、自分の内面であるマインドを深く理解すること。

マインドの生い立ち、マインドの仕組み、そういったものを深くより深く理解していくうちに、それは本当の自分ではないと気づくことになるのです。

マインドが一生懸命になって生きているこの現実を、少し距離をとって見直すことができるようになるのです。

そうなると、マインドの不快感や不安、孤独、絶望感、そういうものがやってきてもそれに飲み込まれずに済むようになります。

そうやって少しずつ余裕ができるようになり、癒しが進むと同時に自分の正体を朧げながら感じるようにもなるのですね。