自分は空間として在るという感覚

クライアントさんを目の前にしてセッションをしているうちに、この部屋の空間全体が自分であってそこにクライアントさんがいるという感覚になるのです。

セッション以外の時でも、自分の存在がいつも大きくて、他人の存在は周辺に小さくあるという感覚を持っています。

誤解を恐れずに言えば、自我の極端な自己中に聞こえるかもしれませんが、この世界には自分しかいないという感覚です。

一般的にそれと似た感覚になるとしたらどんな状況かなと記憶を巡らしたのですが、かなり似ているものを一つ思い出したのです。

それは、物凄く開けた大自然の景色を目の前にして、距離感がバカになったような感じでこの全てが自分でしかないというあの感覚に近いのです。

そういうときには、個人としての自分などいないというか、どうでもいいという感覚になるのです。

自然の中に溶けてしまうような感覚とも表現できますね。自我の本性である不安や孤独が吹き飛んでしまう瞬間です。

ということはそれを逆手にとって、自分がこの空間であるという感覚をイメージすることで、個人という自我の感覚から解放されやすくなりそうです。

興味があったら、是非試してみてください。

マインドに飲み込まれずにいる

毎日クルマを運転しているのですが、そのほとんどは経路も決まっていて1日に走る距離は20km超のことが多いですね。

交差点に差しかかって、対向車線に右折車がいるときには、なるべく譲るようにしているのです。

そのほうが全体的な効率が良くなるし、自分も譲られたときには嬉しいので。ただ、譲るドライバーが少ないのが現状です。

自分が交差点で右折しようとしていて、対向車が誰も譲ってくれずに通り過ぎていくと、ちょっと悲しくなりますね。

後続車への迷惑というのも気になるし、なぜ数秒譲るということができないのだろうと思ってみたり。

ところが自分が何かの理由で少し急いでいたりすると、譲っている場合じゃないという感じになってしまうのです。

あるいは何らかのことをグルグル考えていたりすると、譲ること自体を忘れてしまうということも何度か経験しています。

要するに周囲に気を配れる時というのは、自分のマインドに取り込まれていないとき、余裕を持って生きていられるときなのですね。

これは運転に限ったことではないはずです。いつも自分のマインドを見つめて、マインドに飲み込まれずにいられるようにしたいものです。

存在を意識する

自我というのは、とにかく特徴があるものを好むのです。際立ったもの、目立つもの、他に類を見ないものが好きなのです。

自分自身のことを投影しているからですね。自分自身が群衆の中に埋没して、その存在が消えてしまうのを恐れているのです。

だから、特別でありたいのです。群を抜いて優れているとか、群を抜いてダメダメなんていうのもアリなのです。

一番興味がないのが普通ということです。何の特徴もなく、群衆の中に溶けて存在が分からなくなってしまうからです。

こうしたことから、自我にとってはただ存在するということにも興味を持てないということが理解できますね。

存在というのはただ在るということなので、評価の対象にはならないからです。存在を他と比較することはできません。

何かの存在それ自体を特別視することもできません。だから自我にとっては、存在ほどどうでもいいものはないのです。

けれども、存在ほど絶対的なものはありません。どんな評価も超えて、ただ在ることの素晴らしさは他に例えようもないからです。

あなたは、どの程度存在を意識して生きてきたでしょうか?自分や他人の存在を見ることができれば、そこには信頼も愛もあると分かるのです。

もしも存在を意識してこなかったのでしたら、今日から存在に注目することです。自分の存在がはっきりすれば、ソワソワした不安などは小さくなってしまうでしょうね。

この世界は謎だらけ

誰でも子供の頃は特にそうですが、見るもの聞くもの何でも疑問に思うものですね。小さい子供が親を質問責めにしている光景が目に浮かびます。

自分自身の記憶を遡っても、そんな時代がありました。けれども、割とすぐにあまり質問をしないようになったように思います。

子供の自分が問いかけるものが、大人を困らせることになると思ってしまったのかもしれません。あるいは、どうせ回答は貰えないとたかを括ったのか。

ただし、大人になってこの質問はリーズナブルだろうと思えるものについては、積極的に質問するようになったのです。

特に何かを学んでいるような時には、分からないことをそのままにしておくのが嫌で、かなり質問をする方でした。

ところが今の仕事をするようになってから、本質的な疑問はいくらでもあるのですが、それについて答えを知りたいという欲望が小さくなったのです。

きっと誰に聞いても答えはないだろうというのもあるのですが、より深く見つめてみると分かるのですが、そもそも答えはないということにも気づくようになったのです。

この世は謎なのです。疑問に対する答えが必ずある、あるいはあって欲しいというのは自我のものだということにも気づいたのです。

疑問というのは思考の範疇であり、その癖思考の外側にその答えがあるならそれは決して理解できないのですから。

そういうわけで、私のマインドが持っているたくさんの疑問は、そのほとんどが宙ぶらりんのままになっていますが、それでいいのです。

それが瞑想の時の感覚と一緒なのです。瞑想すると疑問も消えてしまうので、答えを求める欲望も無くなるのですね。

マインドは大所帯

人生って複雑なものだなあと感じている人がいると思います。もっとシンプルなものにしたいけれど、難しいなと。

けれども、人生が複雑(に見える)なのはその人のマインドが複雑に機能しているからなのです。それが外側に投影されるのです。

何か大切な分岐点に来ていることは分かるのだけれど、いろいろなことが頭に浮かんできてしまって容易には決断できないことがあります。

あるいは、何かを始めようとしているのにどういうわけか尻込みしてしまうとか、好きな人と一緒にいたいのに、一緒にいると疲れてしまう等々。

こうしたことは、その人のマインドが一枚岩ではないことが原因なのです。一枚岩どころか、たくさんの人格の断片(副人格)が同時に働いているのです。

それらの力が互いに拮抗した状態であれば、先に進めることはできません。人生が立ち往生してしまうことにもなるのです。

生まれたばかりの頃は、マインドと呼べるものもなくとてもシンプルです。これが無邪気さですね。私がオリジナルと呼んでいるものです。

ところが次第にマインドが作られていき、その過程で自我も発生するのです。その頃になると、親にそっくりな親2世も作られます。

そうなると、オリジナルと自我と親2世の三つ巴状態になります。それだけでも大変なことですが、更に自我の防衛による多くの副人格が作られてしまうのです。

それが私たちのマインドの本当の姿です。あなたの人生がシンプルではないと感じるのなら、それが原因なのです。

そのことを深く理解することができれば、日々マインドを見つめることがどれほど大切なことなのかも理解できるはずですね。

自分のマインドに寄り添い、たくさんの副人格を全て受け止めてあげることです。その結果、マインドは必ず静かな状態へと変わってくれるはずです。

意識と思考を見極める

私たちは日々、何かを意図し、意志をもって決意、決定するといったことを繰り返しています。これらを「意識」の範疇だと思っている人が多いかもしれません。

けれども実際には、それらは思考によるものです。思考なしに意図することはできないし、思考なしに決意などできるものではありません。

逆に言えば、意識というのは自我の心理的な働きには直接関わってはいないのです。意識とはただ気づいていることを言うのですから。

意識と思考では天と地ほどの決定的な違いがあると言うことです。自我は意識も自分のものだと思い込んでいるのです。

自我は色々なことを勘違いしています。自我の成長を助けているものの一つに経験というのがあるのです。

自我は毎日の経験を自分の糧として自分を成長させているのですが、実は経験あるいは体験というのはただ起きるものなのです。

それを、自我が勝手に自分がそれを体験したというふうに横取りするのです。あらゆる体験を自分自身のものとして所有するのです。

そうやって自分を肥大化させていくわけです。ただし本当のことを言えば、自我は思考の塊であって、思考がアクセスする記憶(体験)ではないのです。

この程度のことは、あなたが記憶を使わない時間をたとえ1分でも持てば、すぐにでも分かることです。

その時に自分は何でもないものだということを、すぐに気づくことができます。思考が止まれば、そこには何も残らないのですから。

そこにはただ気づきとしての意識だけがあるのですね。

常識に飲み込まれるな

より自然に、より自由に生きようとしたときに、それを邪魔するものとして挙げられるものの一つとして、常識というのがあります。

常識的に考えたらそれはダメでしょう、と言っている声が聞こえるようになったら、その時はそれを越えるチャンスだと思ってください。

聞こえるということは、それとの一体化が薄れている状態だからです。例えば、これから寒い冬に向かうという時に、水のシャワーを浴びるのは非常識ですね。

実はこの夏頃から、朝起きてすぐに入る朝風呂で、真っ先に水のシャワーを浴びるというのを習慣にしているのです。

夏の間は良かったのですが、そろそろ朝夕の冷え込みがやってきた昨今、それでも朝の起き抜けの水シャワーはどうなんだ?という常識人の声が聞こえるのです。

こんな馬鹿なことをしていたら、いずれは風邪を引くことになるぞとか、こんな非常識なことをしていいことなんか何もないぞ、という声が聞こえるのです。

けれども、実際の体感としては別に寒いと感じることも身体に悪いと感じるようなこともなく、ちょっと気持ちいい程度のことなのです。

水シャワーの後はすぐに暖かい湯船に浸かるので、何も問題はないのです。こんなことを毎日の習慣にしていてはっきり気づくことがあるのです。

それは、常識という一見理性的な思考がもっともらしい説を唱えてくるのですが、本当はそれは誰かが言い出した意味のないことでしかないのです。

水シャワーに限らず、常識にそぐわないと思われるようなことを見つけて、実際に試してみることをお勧めします。

いかに普段から常識の枠に囚われて生きているか、ということに気づくはずだからですね。

優しさという形の自己防衛

本当の優しさとは、相手の立場に立てること。相手の気持ちをおもんばかることができること。

相手に憑依して、相手を思いやることができることです。このことに異論を唱える人はいないと思います。

けれども、だからと言って相手の気持ちを実際に優先するかどうかは全く別の話しだということを知らない人が多いのです。

相手の気持ちというのは、決して分かるものではありません。だからこそ寄り添って、分かろうと努めることには意味があるのです。

ただし、正確には分かりようがないということを前提として理解しておくことです。他人の気持ちが手に取るように分かるなどと言わないことです。

それはとても傲慢なことですから。分からないなりに少しでも近づこうとすることが大切なわけです。

それと同時に、相手を優先して自分を抑えるのは優しさではなく、防衛だということも理解しておかなければならないのです。

もしもあなたが自分の優しさの中に、自己犠牲が少しでも含まれると感じるのでしたら、それは防衛だということです。

防衛は長く続ければ、自己犠牲が蓄積していき、いずれは相手への怒りとなって表出することになるのです。

そこまできてようやく、あれは優しさではなかったと気づいたところでもう手遅れです。そうならないためにも、常に自己犠牲がないかどうかをチェックすることですね。 

エントロピーの話再び

ちょうど一ヶ月前に、このブログでエントロピー増大の法則について書きました。その法則には、自我が深く関わっているという内容です。

何とも分かりづらい内容だなと思いながらも、あの時にはこれ以上の説明は更に内容を複雑にしてしまうと思って、あのままアップしてしまったのです。

少し後悔が残っているので、今日もう少し分かりやすく書いてみようと思います。あの時のエントロピーの記事 http://healing-office-lucid.com/2022/09/26/自我とエントロピー/ とあわせて読んでみて下さい。

縦10マス、横10マスの計100個のマスがあって、一つのマス毎に白になったり黒になったりすると仮定します。

あらゆる白黒の組み合わせは、2の100乗通りあるわけです。つまりは、一つの組み合わせになる確率は、均等に2の100乗分の1です。

私たちは、100個のマス全てが白か黒になるパターンを特別視しますね。あらゆる組み合わせの中でも特別だと感じるからです。

あるいは、右半分が全部白で、左半分が全部黒など。このような特殊な組み合わせは秩序があると感じるわけです。

そして私たちが秩序を感じる組み合わせは、あらゆる組み合わせの中では非常に極端に数が少ないのです。

その一方で秩序を感じない組み合わせは膨大な数だけあるのですが、なぜか全部同じもののように見てしまうのです。

そうした自我の我儘な見方のせいで、この世は無秩序になりやすいということが法則のようになってしまったのです。

全く秩序を感じないとある一つの組み合わせも、全部が例えば白になる組み合わせも確率的には全く同じなのですが、そこを見ないのですね。

どちらも2の100乗回に一回はその組み合わせになるはずなのです。と、今回もこの説明は何だか惨敗の匂いがします。

お伝えしたかったのはもっとシンプルで、要するに自然界の法則と言ったってそれは自我がいるからこそのものだということですね。

天国も地獄も場所ではない

一般的な天国というもののイメージは、何の苦労も何の心配もなく、全ての欲望が満たされて困ったことが一つもない世界。

だからこそ、誰もがみな親切で、愛に溢れていて、争いごとが全くない場所だと考えられるのです。素晴らしいところだと。

けれどもよくよく考えてみると、それは場所ではなくて私たちの内面の状態のことを指していると思える言葉ばかりですね。

つまり天国というのはどこかにあるのではなくて、私たちの心の状態のことを言うということ。地獄もまた然り。

地獄もそういう辛く苦しい、暗黒の場所がある訳ではなく、私たちの心が絶望や憎しみなどで満たされている状態のことです。

そして、自我は地獄では問題なく生き続けることができるのです。なぜなら、地獄は闘う場所だからです。

一方天国では、自我は決して生き続けることができないのです。闘いがなく、欲望も消えて完全に満たされた状態では、自我は溶け去るしかないからです。

つまり私たちが死んで天国に行くというのは、あながち間違った表現ではないということですね。

自我が死んだら、即座に私たちの本質が顕れるのです。そこに分離などはなく全ては全体という一つに戻るのですから。