愛もどきを見抜く

人を好きになるという体験はとても嬉しいし素晴らしいものですが、自我ゆえに辛く苦しい思いをすることも多々あるはずですね。

なぜなら自我の愛はあくまでも愛のようなものであって、ただ与える側である真の愛とは異なるからです。

そのために、愛する人を独占しておきたいという独占欲が発生するし、もしもそれが叶えられないとなると、今度は激しい嫉妬心が目を覚ますのです。

どちらも純粋な愛からはかけ離れたものですが、それゆえに相手の自由を尊重することもできなくなってしまうのです。

こうしたことがあるからこそ、ドラマチックなラブストーリーが起きるわけですね。側で見ている分には面白いですが、当事者は大変です。

愛のようなものと純粋な愛の見分け方はいたって簡単です。「◯◯してちょうだい」は全てがなんちゃって愛です。

一緒にいてちょうだい、私だけを見ていてちょうだい、愛してちょうだい、優しくしてちょうだい等々。こうして相手に求めている限りは愛ではないです。

大切なのはそれが悪いということではなく、それは愛ではないと気づいていること。そして、相手の自由を尊重できない惨めさから逃げないこと。

そこから一歩も逃げずにいられるなら、自然と自分も相手もともに自由でいられるようになっていくでしょうね。

極端をやめる

自我の成長と共に私たちは社会性を身につけていくのですが、それは社会の一員として問題なく生きていくために絶対必要なことですね。

ところで、その社会性があまりにも極端になって、自分らしさを失ってしまうようになると、必ずやそのしっぺ返しがやってきます。

つまりは極端な社会性は、その真逆である極端な反社会性へと持っていかれてしまうのです。そうなると、社会的な言動を嫌ったりできなくなったりするのです。

朝起きられない、何もやる気になれない、約束や時間を守れない、活力がなくなって寝てばかりになってしまう等々。

自覚としては1日も早く社会性のある自分に戻りたいのですが、どうにもこうにも自分が言うことを聞かなくなってしまうのです。

この状態を鬱と呼ぶわけです。しばらく休養してもう大丈夫となって、社会に復帰したとしても以前と同じ極端な社会性で生きるなら、当然のように再び反社会性へと引き戻されてしまいます。

そうやって反省ができない人は、何度も鬱を繰り返すことになるのです。そうしたループから抜け出すためには、極端な生き方や考え方を改めることです。

両極端のちょうど真ん中が理想ですが、それは非社会性あるいは無社会性と呼んでもいいかも知れません。

幼児のような無邪気さを取り戻すことができれば、真ん中付近で生きることができるようになるでしょうね。そうなったらもう二度と鬱になることはないはずです。

必ず残っている正気の部分

老人ホームに入居している母親のところに、娘が一緒に面会に行ってくれたのですが、普段は娘の名前を聞いてもなかなか思い出せなかったのに、娘の顔を見て母親の表情がパーっと明るくなったのです。

娘の名前を呼びながら、いっとき認知症が全快したかのような感じで正気に戻った感じがしたのでびっくりしました。

いつものように私が母親の脚のマッサージをしつつ、一方では同時に整体師の経験がある娘が肩のあたりをマッサージしたのです。

息子と孫に同時に身体をほぐしてもらって、贅沢だねえと声をかけると、本当に気持ちがいいといって喜んでくれたのです。

さすがに母親なりに娘には気を遣って、疲れるからもういいよと何度か言っていたのですが、私はその言葉をかけてもらったことがないなあと。

私が面会に行っても普段はそれほど喜ぶ表情を見せない母親なのに、やはり孫の存在は格別なんだろうなと。こればかりはかなわない。

それでも、母親の中にまだしっかりと残っている正気の部分を見ることができて、ありがたかったです。

誰の心の中にも、必ずその部分が残っているに違いないと思うのですが、それを引き出してあげることが難しいのでしょうね。

謝罪が苦手な人たち

人は生きていれば必ず、謝罪しなければならない事態に遭遇するものですね。謝るというのはとても自然な人間的な行為のはずです。

謝罪には申し訳ない、ごめんなさい、すみませんでした等々、色々な便利な言い回しがあるにも関わらず、どうもうまく謝ることができない人も沢山いるのです。

文言は同じでも、その言い回しや態度などに嫌々謝ってる感が露呈してしまう場合もあります。その中でも、どうせ私が悪いんでしょ!という厄介なものもあります。

これって本当に謝っているのかと、疑わしく感じてしまいます。実は、うまく謝罪ができない理由はたった一つ。

それは、自分は正しい、自分は間違っていないという、つまり正しさという鎧を着て生きている場合です。

正しいことに自分の価値を見出そうとする防衛が続けば、素直に謝罪することができなくなっても当然なのです。

謝るということは自分が悪かったと認めることなので、本人にとってはとてつもなく身を切られるような思いがするのでしょうね。

自分は悪くないという思いが強ければ、相手から何かを指摘されても素直には受け入れられなくなってしまうのは当たり前です。

そのため、人からのアドバイスや大切な言葉に耳を傾け難くなってしまい、学びの少ない人生になってしまうかも知れません。

正しさによる防衛は、このように百害あって一利なしだということを、深く理解しておく必要がありますね。

愛は「慣れる→飽きる」とはならない

自我の大事な能力の一つに「慣れる」というのがあります。私たちは慣れることで、手際が良くなったり、スムーズに物事を扱えるようになるのです。

クルマの運転しかり、楽器の演奏やあらゆるスポーツ、何であれ初めは不慣れなものですが、次第に熟達していけるのは、「慣れる」という能力のおかげです。

ただ、この慣れるということの功罪の罪の方にも目を向ける必要があるのです。慣れると緊張感が欠けるようになって、運転であれば事故を起こしやすくなるのです。

あるいは慣れることから派生して、飽きるという状態がやってくることも多々ありますね。もしもあなたが大切な誰かと一緒にいるとします。

それが毎日毎日繰り返されるとしたら、何だか毎日が単調過ぎて飽きてしまったなとなるかも知れません。

いわゆる出会った頃のあの新鮮な感覚がなくなってしまったと感じるのです。それは互いにハッピーなことではないですね。

なぜ慣れるから飽きるがやってくるのかを見てみたのですが、きっとそこには愛がないからではないかと思うのです。

慣れたとしてもそこに愛の要素があるなら飽きるということには繋がっていかないのだろうと思うのです。

自我は思考つまり過去に生きているのですが、愛は常に今この瞬間であるため、そこに飽きるということがないのです。

もしもあなたが慣れ親しんだものが人であれ仕事であれ、ずっと変わらずに飽きが来ないとしたら、その人その仕事との関係には愛があるということになるのでしょうね。

惨めさからの解放

多くの人の人生でやっていることの中心にあるものは、自分は惨めではないということを証明しようとして頑張ることです。

それはなぜかというと、自分は惨めだということを認めたくないからです。惨めさの反対側に行こうとしているのです。

ところがその原動力自体は、自分は惨めだという思い込みなので、惨めではないことを証明しようとすればするほど、惨めだということが真実のように感じるのです。

もちろん本人が明示的にそれを感じることはありませんが、マインドの奥深いところには惨めさを隠し持っているのです。

人が死にゆく時にも、惨めじゃないと思いたいが残っているので、その思考エネルギーは身体の死をすり抜けて次なる人生へと入っていくのです。

そして次こそは絶対に惨めじゃない自分になるという欲望が動き出すのです。欲望の根源はそういうものでできているのです。

結局そうした思考エネルギーだけが輪廻するのであって、あなたが輪廻するわけではないのです。あなたという個人がいるわけではないのですから。

もしもあなたがもう生まれ変わるのはゴメンだと思うなら、真っ先にやるべきことは自分の惨めさから決して逃げずにいること。

そして惨めさは事実ではなく単なる思考であることに気づくこと。それが理解できれば、思考から離れさえすれば惨めさは消えてしまうと分かるのです。

惨めじゃないことの証明などする必要がないと分かって、これまでの奮闘努力がバカバカしくなったらしめたもの。

あるがままの自分を受容するようになれば、欲望は薄れていくはず。その結果、輪廻からも解放されてあなたの意識は全体性へと吸収されていくはずですね。

黙るという防衛からは何も生まれない

私たちは幼い頃より家庭の中はもちろんのこと、集団生活のあらゆる場面で人とのコミュニケーションが大切であることを知っています。

社会の中で一人で生きていくことはできないし、共に協力しあってさまざまな環境を生き抜いていく必要もあるからですね。

ただコミュニケーションといっても、自己表現の得意な人もいれば、言いたいことをはっきり言えないタイプの人もいます。

口から生まれたように雄弁な人もいれば、口数が少なく物静かな人もいます。コミュニケーションが苦手という人であれ、最終的には相手に思いを伝えられればいいわけです。

けれども、大切な会話の時に黙り込んでしまったり、怒るともう口を閉ざして会話しなくなるという人もいます。

コミュニケーションの得意不得意と、会話をしなくなってしまうこととは全く異なるのです。そんな危機的な状況が親子の間にも沢山起きているのです。

子供の方からは、所詮親に何かを言ったとしても絶対に分かってくれないし、場合によっては否定されることにもなるので、口をつぐむことになるのです。

逆に親が子供に怒る場合の一つの手段として、子供に対して叱るどころか何時間も時には何日も口を開いてくれないというケースもあります。

黙ってしまうことからは何も生まれては来ないどころか、人間関係が破綻してしまうことだってあり得ます。

そうしたことが心の病みからやってくることを理解して、とにかく口を開くというところまではできるように癒していくことが大切ですね。

「ケアマネ」気質について

昨年末から母親が老人ホームに入居してくれたおかげで、自分の部屋で夜を過ごすことが戻ってきました。

ついでに、テレビの大画面でNetflixを観たりすることもできるようになりました。それまでは、階下で何か音がしたら階段を駆け降りていったので、映画を楽しむことも難しかったのです。

今ではテレビからの音をスピーカーから出さないようにして、代わりにヘッドホンに送ってまあまあの大音量で楽しむこともできるようになりました。

自分以外の何かを気にしなくていいというのは、とても安らぐことができますね。そんな自分勝手な私には、到底ペットを飼うなんてできない相談なのです。

ペットが可愛いのは間違い無いのですが、その世話を焼くというところにエネルギーを使うのが苦手なのです。

ペットショップのウインドウの向こう側で遊んでいるワンチャン、にゃんこちゃんたちの姿はまさに釘付けになるくらい可愛いのです。

けれども、世話を焼くことができない自分には彼らを飼う権利もないなと思って、飼うことを諦めています。

人や動物の世話をあれこれと上手に焼ける人がいますが、私からするとそれはもう立派な才能だなと思うのです。

世話焼きの人のことを私は「ケアマネ」気質と呼んでいるのですが、それを防衛のために使うと辛い人生になるけれど、好きなことに使うならそれはそれで楽しい人生にすることができるでしょうね。

マインドは両方を持っている

私は人の内面のことをマインドと表現していますが、皆さんは人の数だけマインドの種類があると思っていませんか?

確かに、さまざまなクライアントさんとのセッションにおいて、全く同じ内容のセッションをしたことは一度もありません。

それは、クライアントさんの持っているDNAと生育環境が全て異なっていたことによるものです。それだけマインドの「見え方」に違いがあるのです。

けれども、それはマインドの仕組みや働きが違うということではありません。あらゆる人間のマインドの仕組みは全く同じなのです。

違いは表面的な部分だけ。不安でたまらない人もいれば、それほど不安を感じないという人もいます。嫉妬深い人もいれば、嫉妬深くない人もいます。

そのような違いは仕組みからやってくるのではないのです。ここまで理解できたら、自分はこうだと決めつけるのは間違いだと気づくはず。

自分は嫉妬などしない、自分は他人と自分を比較しない、自分には怒りなどない等々。その言葉がその人のマインドの一部(一方)しか見てないことを物語っているのです。

マインドは常に両方を持っているのに、ただ自覚できる部分だけを見て隠された部分があることに気付かないだけなのですね。

もしも好きがあれば嫌いも必ず隠し持っているのです。それを知らない人は、好きな人のことを急に嫌いになって驚いてしまうわけです。

どれほど明るい人でも暗い部分を持っているし、怒ったことがないような人でも怒りはあるということです。

マインドをしっかり見つめることができれば、自分のことを安易に一方的に決めつけたりしなくなるはずですね。 

期待 ≠ 愛 その2

昨日のブログで、期待は愛とは真反対であること、期待せずに生きることができれば至福に満ちた毎日になるということを書きました。

もう少し補足してみます。期待には、能動的期待と受動的期待の2種類がありますね。能動的期待とは、期待する側になるということ。◯◯してちょうだいの方です。

そしてもう一方の受動的期待は外からやってくる期待に応えようとすることです。どちらも至福からは程遠い人生になることは間違いありません。

そして、その両方を同時にやってしまう場合、つまり自分に対して多大な期待をして、その期待に応えようと必死に頑張る人生。

こうした自作自演の人生を生きている人が沢山いるのです。これがどれほどバカバカしいことか、本人は一向に気づかないのです。

なぜなら、それこそが素晴らしい人生を手に入れる唯一の方法だと信じて疑わないからです。一度立ち止まって、ちょっと考えればすぐに分かることです。

自分に対する期待値が高ければ、それだけ背伸びをしなければならないし、その期待値と現実の自分との落差に自己否定ばかりがやってくるのです。

それはとても惨めな毎日になるだろうし、いつまでも満足することができずに悔しい思いをして人生を終わらせることになるのは間違いありません。

この無限地獄から抜けるためには、高い期待値を自らに設定する本当の理由を見つけることです。それはたった一つ、このままの自分ではダメダメだという間違った思い込みのせいなのです。

そのバカバカしい思い込みに気づいて、それをドブに捨ててしまえば、高望みの原動力が潰えるので自然な生き方が戻ってくるのです。

自分のままではダメだという存在否定の根っこに気づいて、それを癒していくことで人生の風合いは変化していくはずですね。