自分は空間として在るという感覚

クライアントさんを目の前にしてセッションをしているうちに、この部屋の空間全体が自分であってそこにクライアントさんがいるという感覚になるのです。

セッション以外の時でも、自分の存在がいつも大きくて、他人の存在は周辺に小さくあるという感覚を持っています。

誤解を恐れずに言えば、自我の極端な自己中に聞こえるかもしれませんが、この世界には自分しかいないという感覚です。

一般的にそれと似た感覚になるとしたらどんな状況かなと記憶を巡らしたのですが、かなり似ているものを一つ思い出したのです。

それは、物凄く開けた大自然の景色を目の前にして、距離感がバカになったような感じでこの全てが自分でしかないというあの感覚に近いのです。

そういうときには、個人としての自分などいないというか、どうでもいいという感覚になるのです。

自然の中に溶けてしまうような感覚とも表現できますね。自我の本性である不安や孤独が吹き飛んでしまう瞬間です。

ということはそれを逆手にとって、自分がこの空間であるという感覚をイメージすることで、個人という自我の感覚から解放されやすくなりそうです。

興味があったら、是非試してみてください。

“自分は空間として在るという感覚” への4件の返信

  1. 以前、広い草原に行った時に…
    自然の音しかしなくて、それがなんの音かわからないけど、静かなのに耳がビンビンして、前にも後ろにも自分しかいない感じ、寝転んだりするとそのまま大地に溶け込むんじゃないかと思われ、ただひたすら気持ちが良かった…という、そんな感じですか?
    その感覚を持ちながら過ごせたら確かに、いっさいの不安はとんでなくなります。
    ただ、大自然の中ではなく、日常の中で、そう感じられるには具体的にどうすればよいのですか?

  2. やはり内側に意識を向けるということがカギになるのではないかと思っています。なぜなら、外側にばかり気を取られていると、自分と他との間にある自我が活性化してしまうからです。そうなれば、個人であることが際立ってしまいます。自分が全体の中に溶けていく感覚にブレーキをかけるのは自我なのです。

    内側に意識を向ける、意識的であるということを継続することで、自我から離れて自分の本質である意識の感覚に戻れるのです。その感覚こそが、あなたが大自然の中で体感したあの感覚に近いのだろうと思いますね。

  3. ありがとうございます。

    大自然の壮大な話しとはかけ離れてしまいますが、最近、意識的でいられる方法として…
    例えば手を洗う時には
    「手を洗います」とか、
    人参を切る時には
    「人参を切ります」とか…
    声に出しながらおこなっています。
    でもやはり、思い出した時にしかやっておらず、いかに無意識で毎日過ごしているかと思います。

    自分でしようとしなくても、大自然の中に行くと内側に導かれる、ということでしょうか。

  4. 大自然の中では、自動的に思考が緩むということでしょうね。

    手を洗う、人参を切る、というのを動作と同時に意識するのはとてもいいやり方です。是非実践し続けてください。

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