期待 ≠ 愛

osho の言葉で、「至福に満ちた人とは、期待せずに生きる人、ただ生きる人、…」というのがあります。

期待せずに生きるようになれば、自ずと至福に満ちた毎日がやってくるということですが、それは自我ゆえにとても難しいのです。

不可能と言っても過言ではありませんね。なぜなら自我は欲望を糧に生きているからです。期待=欲望だとしっかり理解することです。

なぜだか欲望というと否定的なニュアンスになりますが、期待というと肯定的な雰囲気が出てくるのです。

それで期待することはいいことだ、期待されることはもっと素晴らしいことだという間違った解釈が生まれてくるのです。

欲望が純粋な愛ではないことは分かるのですが、期待は愛だと勘違いしているのです。けれども、期待が愛ではないことは明白です。

あるアスリートを応援していて、優勝して欲しい!と願うわけですから、欲望な訳です。言い換えれば、優勝してちょうだい!となります。

応援して何が悪い?という声が聞こえてきそうですが、良い悪いということを言いたいのではなく、そこには愛はないよということ。

愛は◯◯して「ちょうだい」という言葉とは正反対です。溢れてくるのでそれを外側に向けて放つこと、それが愛なので期待とは真逆です。

これでもう分かったと思いますが、人に対する期待、自分に対する期待、誰かの期待に応えようとする、そのどれにも愛はないことを忘れないことですね。

「思考」ってなに?

以前あるクライアントさんから質問された内容が衝撃的でした。それは、「思考って何なんですか?」というもの。

衝撃的というのは、あまりにも身近なものだから当然分かっていると思い込んでいたのに、いざ問われたら全く答えられなかったからです。

セッションの中で私が幾度となく「思考」という言葉を使うので、そのクライアントさんは正直に質問してくださったのでしょう。

それ以来、私の中では「思考」とは一体何なのだろう?どんな現象なのだろうというのがずっと残るようになりました。

このブログでも、数少ないボキャブラリーの中で「自我」などの単語に続いて頻出している単語の一つが「思考」だと感じています。

それほどまでに繰り返して使っている言葉なのに、その実態が一体何なのかは本当は説明できないということですね。

思考が波動だということは何となく理解しているのですが、これほどまでに思考に飲み込まれて生きていることが不思議でたまりません。

このブログの文章を書くときも、思考が動いています。思考がなければ、言葉を表すことはできないのですから。

疑問は疑問のままにしておくという最近の態度があって助かっています。一つだけはっきりしているのは、思考から離れているときは間違いなく爽快で自由で自然だということですね。

簡単な瞑想メソッド

瞑想には興味を持っているのだけれど、どうも実際にやるとなると何だか億劫な気がしてイマイチ本気になれない、こんな人が多いのではないでしょうか?

あるいは目を閉じてただじっとしていても、それが本当に瞑想になっているのかどうかが不安で、長続きしないという人。

瞑想をやり続けないさまざまな言い訳があるものです。私が思うに、瞑想が好きという人もいるかも知れませんが、それは少数派でしょう。

なぜなら原理的に見れば、自我にとっては苦手であるはずだからです。自我は常に刺激を欲しているからです。

外部からの刺激あるいは情報を受け取って、それを処理することで生きているのです。もしも外部からの情報が断たれたら、内側で思考を働かせて処理を継続するのです。

だから目を閉じてしかも何も考えないという状態は、自我にとっては窒息するような感じがして長続きしないのです。

結果として、瞑想が苦手というのは当然のことだとまずは理解すること。その上で、大上段に構えずに次のような方法を試してみてもいいと思います。

まず軽く目を閉じます。すると、それまで見えていた自分の身体の画像が消えてしまいます。その状態で自分の身体があるかどうかを証明できないことを認めるのです。

その次に、身体から切り離された自分に残っているもの、例えば自分の名前や国籍など。この状態でそういったものは全く役に立たないことを感じるのです。

そうやって身体も記憶も無くした状態で、自分が誰だか不明な、ただそのままのあるがままの状態でしばらくいてみるのです。

それだけで非日常性を少しだけ味わうことができるかも知れません。目を閉じて、自分が誰だか分からない、たったこれだけでもいいのです。

こういった経験を繰り返すことで自然と瞑想状態になっていくはずです。無理に思考を止めようとする必要もないので、是非実践してみてください。

どんな人生だってOK

若くて健康な人には響かない言葉かも知れませんが、人はいつだって死ぬ可能性を抱えながら生きているのです。

であるなら、もうまもなく死を迎えるときがやって来たとして、あなたの人生はどんなものだったかと聞かれたらどうでしょう?

総じて良かったんじゃない?と気楽に答える人もいれば、辛く惨めな人生だったと答える人もいるかも知れません。

あるいは、この人生に悔いなし!と断言する人もいれば、もっと◯◯すればよかったと後悔を口にする人もいるでしょう。

私は個人的にはどんな人生であれ、そこに間違いというのはないと思っています。善悪もないし、成功も失敗もないのです。

ただ生まれ、ひとときの人生を生きて、そして死ぬ。これだけです。無からやってきて、また無へ帰る。その間の夢のような出来事が人生です。

だったら何だっていいんです。生真面目に生きるのもよし、破天荒に生きるのもよし。明るく爽快に生きるのも、グダグダに生きるのも全てよし。

人の数だけ人生のバリエーションがあって、その全てを全体性は見守っているのです。どんな人生も誇れるものはないし、卑下するものもない。

価値判断も意味づけも一切が死と共に消失してしまうのですから。これが腑に落ちると、あらゆる人々の人生が愛おしく感じられて不思議な感じがします。

素粒子の不思議な振る舞い

私が子供の頃は、どんな物質も原子からできていて、その原子は更に中心にある原子核とその周りをグルグル回る電子とでできていると習ったのです。

子供心に何となく太陽系に似ているなあなんて思ったのを覚えています。物理学が進歩した今でも、その原子モデルは決して間違ったものとはなっていません。

けれども、原子よりもさらに小さな素粒子を扱う量子力学の世界では、原子核の周りを電子は回っていないのです。

電子は原子核の周りを覆う靄(もや)のような姿のモデルとして現されているのです。この違いは決定的です。

なぜその二つのモデルがあるのかというと、電子は観測された時にだけ粒子となって原子核の周囲のどこかに位置することになるのです。

観測されない電子は、波動として原子核の周囲に、ある確率として存在するということです。これが素粒子の特徴なのです。

これは電子に限らず、その他の全ての素粒子にも当てはまる不思議な振る舞いなのです。この世界の全てが素粒子からできているのですから、次のことが言えるのです。

つまり、誰かに観測されて初めてこの世界は確定するということ。観測されずにいる間は単に波動として存在するだけなのです。

また最近の実験によって、人が念じることで素粒子の振る舞いに変化が起きるということも実証されています。これは本当に驚くべきことです。

このブログで時々話題にしている引き寄せやエネルギーの法則のようなものも、その一部であれ量子力学の分野で今後証明される日が来るかも知れませんね。

自我のおかげで意識が目覚めた

私たち人間が他のどの動物とも異なる凄いところは、自分とは何か?という問いを持つことができるところです。

その問いはどのようにして生まれるのかというと、当然のことですが「自覚」によってであることは間違いありません。

自覚というのは、自分という存在に気づいているということです。それを自我と呼んでいるのは周知の事実ですね。

その自我の自覚とは、意識が少しだけ目覚めているという言い方もできるのです。ただし、全意識のうちのほんの数パーセントだけ。

残りのほとんどの意識は無意識状態、つまりはぐっすり眠りこけているということです。この部分は他の動物と同じなのです。

自我が生まれる仕組みは、元々備わっていた能力によるものではあるのですが、ただそれだけでは決定的に足りないものがあるのです。

実は、自我を持っている親などに密着して育てられることでしか、自我は生まれては来れないということです。

では思い切り歴史を遡って、自我の始まりはどうだったのかを考えてみると、私の想像力を超えてしまうようで、思考停止が起きてしまいます。

いつもこのブログでは、自我がコテンパンにされているようなので、実は自我のおかげで自覚を持つこともできたし、意識も少しだけ覚醒できたということをお伝えして、自我の名誉挽回を試みました。

マインドは決して救われない

マインドの仕組みを深く理解したなら、マインドが救われる方法はないという絶望的な結論に到達してしまいます。

なぜならマインドは常に動き回る空間を必要としているからです。動き回るためには、何らかの目標が必要となるのです。

そうやっていつも、今この状態は不満足だけれど、いずれは満足することになるはずだという未来への期待で生きているのです。

ところがその望みが手に入ることは決してないのです。それは、osho が言うように地平線を見てそれを目指してどれだけ進んでもそこに到達できないのと同じなのです。

100歩譲って望みが叶ってしまったとしたら、もう行くべきところがなくなり、見つけるべきものがなくなり、なるべきものもなくなってしまうのです。

そうしたら動き回ることが不可能となって、じっと停止した状態でいなければならなくなってしまうのです。

それをイメージすると、私の自我はひどい閉塞感に苦しめられるのです。身動きができずに息もできない無限地獄にいるみたい。

これは自我とマインドの死を意味します。これで分かると思いますが、自我(マインド)は常に動き回って不満足を継続させるか、あるいは死ぬしか方法がないのです。

ただし、あなたは救われる方法が一つだけあります。それは、自我(マインド)から解放されることです。本当の自分に気づけば、初めから救われていると分かってな〜んだと言うことになるのでしょうね。

毒出しのサイン

少し古くなったようなものや、生モノに軽く当たった時には、お腹を壊したり吐いたりして身体は自動的に毒を外に出そうとしてくれますね。

そんな時には、私の場合両手が少し痺れたような感じになるのです。大量に解毒しなければならない時には、激しくジンジン痺れてしまいます。

ひどくなると両手だけではなく、両脚や頬などにもその痺れがやってきたりします。それがなぜなのかは、医学的には素人なので分からないのですが。

けれども、セッションにおいてクライアントさんがかなり強めに感情を解放した後などには、同じような痺れがご本人の身体にやってくるのです。

そういう時には、セッションが終わってもすぐには歩けそうもないので、まずはゆっくりとトレイに行ってもらいます。

ご本人は大丈夫帰れます!とは言ってくれるのですが、トイレまで歩いて行けなければ帰れないですよ、と伝えます。

そのうちには、痺れはゆっくりと引いて行って何とか帰ることができるようになります。そんな感じで、私にとって手足の痺れは毒出しのサインなのです。

みなさんも同じような経験をされたことはないですか?人間の身体の不思議ですが、毒出しした後は爽快な感じになるか、ぐったり疲労するかのどちらかになるようです。

自分をコントロールしようとしない

私たちは、自分をもっともっと改善していきたいと思っているのです。なるべく怒らないようにしようとか、一度決めたことは守れるようになりたい等々。

つまりは自分をどうにかしてコントロールできるようになりたいと願っているのです。だからできなかったことができるようになっただけで、すごく嬉しかったりするのです。

けれども、自分で自分をコントロールできる部分なんて、ほんの表面的なところだけなのです。根本的な部分については、ほとんどがアンコントローラブルなのです。

例えば、自分の否定的な自己イメージを変えようと頑張ってもそう簡単に変わるものではありません。

あるいは、毎日1時間くらいの瞑想をしてできる限り静寂の中にいられるようにする、そう決意したところで現実は思うようにはいかないのです。

大切なことであればあるほど、自分を思い通りにコントロールすることはできません。このことに気づく必要があるのです。

ではどうしたらいいのか、それは発想を転換してマインドを見守る側になるということです。仏教用語で言えば、観照するということです。

マインドを観ることでマインドとの距離が作られ、傍観者の立場になるのです。逆に当事者意識がゆっくりと小さくなっていくのです。

マインドをコントロールしようとすれば、それ自体がマインドの一部になってマインド全体が強くなってしまうことに気づくこと。

直接マインドをコントロールしようとすることなく、ただ観照することこそがマインドのパターンから解放される唯一の方法と知ることですね。

幸せな人生 or 気づきの人生

私たちは誰もが自分の願いを叶えて幸せな人生を生きたい、そんなことをざっくりとした目的として毎日を暮らしています。

中にはそれに対して真っ向から反対意見を述べる人もいるかも知れません。世界平和のためとか、他者の幸せの為に生きるという人もいるでしょう。

いずれにしても人の幸福というものを、それがどう言うものかをあまり追求することなくただ漫然と幸せを求めているのです。

それはそれでいいのですが、そう言うものとは少し違うものを求める人がいるのも事実です。それは幸せを求めないと言うもの。

なぜならそのような人たちは、幸せとは一過性のものでしかないと言うことを理解しているからです。

人生には何が起きるか全く分からないので、自分に都合のいいことばかりが起き続けるなんてことはないと知っているのです。

だとしたら、そう言う人々はどのように生きようとするのか?それは何が起ころうともそれを糧にするような生き方です。

つまり、自分にとって都合のいいことが起きればそれを単純に喜び、逆に都合の悪いことが起きれば、そこから大切な気づきを得るようにするのです。

幸せを求める代わりにそういった気づきの人生を生きようとするわけです。一挙両得で、なかなか抜けめない賢い生き方だと思いますね。

私はそちらの生き方を選択したいと思っています。