静かに満たされる

今日仕事を終えて、すっかり暗くなった街を歩いているときに、不意に自分が何歳なのかが全く分からないというのがやってきました。

よ〜く感じてみると、子供のようでもあり、大人のようでもあり、また老人のようでもあるのですが、本当はどれも当てはまらない感じもするのです。

鏡を見れば自分の姿をまるで他人のように見ることはできるのですが、街を歩いている時には顔がないのです。

自分の肉眼を通さずとも、周囲のものが全て見えるだけでなく、その全てが対象物ではなくなってしまうのです。

自分の顔、頭がない時には他もなくなって、自他が消えてしまいます。無理やり自己イメージを手繰り寄せれば、そこには何らかの人物像が浮かぶのです。

けれども、もうそれはそぐわない感じがするのです。これを書いている今この瞬間も、その感覚がありありとあるのです。

それはずっと在ってなくなったことはないのですが、それに気づかなくなっていただけだということもはっきりしています。

自分は誰でもないし、何でもないという、とても静かなこの感覚の中にいるだけで、どんな理由もなしに深く満たされた状態になるのも不思議です。

降参→自我消滅→愛

osho が云います。流れと闘う必要はないと。ただそれに従い、それと共に浮き漂えばいいと。川に身を任せてごらん。降参しなさい。愛とは降参することだと。

ぼんやりとこの言葉を聞いているだけでは、良さげな事に聞こえるだけで、なぜそうなのかを理解することはできません。

云っている内容は簡単ですが、それを実践するとなるととてつもなく難しいのです。それは自我が抵抗をするからですね。

流れと闘う必要がないと言われても、自我にとっては闘うことは生きるためには絶対的に必要なことだからです。

川に身を任せてしまったりしたら、自我は不安になって自分を保つことができなくなると思っているのです。

降参などとんでもない。負けを認めてしまったら、相手に搾取されるだけだと。なぜ愛は降参することだとまでいうのか?

自我という個人は本当の愛を知りようがないのです。本当の愛は、自分はいないということと同じことです。

自他が消えた時に初めて、愛の状態になるのです。降参して闘うことを放棄した時に初めて、自我が消えてその結果として愛がやってくるのですから。

あなたの生きる指標は?

私自身の人生の指標となるものは、より自然に、より自由に、より無邪気に、というものです。それ以外は潔く切り捨ててしまいました。

というのも、それ以外のものをどれほど体現できたところで、自我の一瞬の満足以外に価値のあるものがないと理解できたからです。

自我の一時的な満足ほど虚しいものはありません。頑張ることに価値を見出すだけならまだいいのですが、それがどれだけ我慢するかに変化してしまうのです。

そうなると、自分が我慢した分だけ他人にも同等の我慢を強いるようになるのです。それがマインドの仕組みです。

それは本当に優しくありません。人が芯から優しくあるためには、自然に生きること、自由に生きること、無邪気さを失わないことなのです。

義務感や罪悪感などから自分に我慢を強いることを自己防衛と呼んでいるのですが、それは人を優しさから遠ざけてしまうのです。

あなたが自然さを保って生きているなら、人が自然に生きるのを喜んで見ていられるのです。あなたが自由なら、人の自由を決して奪いたくなくなるのです。

そして無邪気に、無防備に生きることができる人は、その逆の生き方をしている人とは疎遠にならざるを得ないのです。

それがエネルギーの法則ですね。

知恵を使って生きる

もっともっとお金があれば、あれもこれも欲しいものを何でも手に入れることができ、きっと幸せになるに違いない。

このようなことは多くの人が一度は考えたことがあるはずですね。けれども、あなたがかなりの富豪であるなら、そんなことはないと小声で言うかもしれません。

幼い頃からオリンピック選手を目指して頑張ってきたとしたら、晴れの舞台で金メダルを獲れたらきっと幸せに違いない。

けれども、あなたが実際に金メダルを獲得したことがあるなら、やっぱりそんなことはないと囁くかもしれません。

私たちは他人からどう言われようが、自分が経験しないことは分からないものなのです。欲しいものが手に入った人だけが、それでは幸せになれなかったと気づくのです。

だから生きている限り、次々と欲しいものを変えて行き、これでもダメ?あれでもダメ?といつまでも繰り返すことになるのです。

ここで必要となるのが、イマジネーションの力と知恵ですね。それによって、ある程度の経験をもとに、それ以降は実際に経験せずとも見通すことができるはず。

一生をかけて欲しいものを次から次へと手に入れてきたはずなのに、何だろうこの虚しい感じは?とならないためにも、知恵を使うのです。

なるべく早くに、人生というのは所詮満足することができないものだと気づくこと。これこそが本当の知恵ですね。

体験することが目的

クライアントさんの中には、自分の人生の目的を知りたいという人が時々いらっしゃいます。確かにそれが明確になったなら、ワンランク人生がシンプルになる気がします。

究極的には、人生にはどんな目的もないということを承知の上で、自我のレベルに戻って人生に目的があるとしたら…、で考えるのは悪いことではないですね。

私の自我は、色々体験するために生まれてきたのだろうと考えているようなのです。つまり、体験を積むことが人生の目的だと。

そう考えてみると、うまいこと行くなあと思えるところも確かにあるのです。というのも、体験には自分にとって都合のいい体験も都合の悪い体験もあります。

けれども、体験することこそが目的だとなったら、いいも悪いも無くなってしまうのです。どれほど都合の悪い体験だったとしても、それを体験できたことを感謝する気持ちになれるのですから。

体験をしたい、せっかく生まれてきた大チャンスなのだから、貪欲にあらゆる体験をしてから死にたいというわけです。

そうなると、どんな体験がやってきたとしても、とにかく感謝がやってきてくれて、とてもいい気分になれるのです。

借金まみれになる体験、裏切られて生きていられないと感じる体験、誰よりも惨めだという体験、復讐心で潰れそうになる体験。

何であれ体験ができれば生まれてきた甲斐があったと思えると、少し気持ちが楽になれますね。これ、気に入ったら是非使ってみてください。

極端な考えは子供のもの

幼い頃というのは、誰でも白か黒か、百かゼロか、敵か味方か、善か悪かといった極端な見方をしているものです。

これにはちゃんとした理由があるのです。弱者であればあるほど、自分の身を守らねばと思う気持ちが強くなりますね。

だからこそ、あの人はいい人であの人は悪い人とはっきりと区別することで、安全を確保しようとするのです。

いい人か悪い人かどちらか分からなければ、それだけ危険だからです。私のマインドの中には、敵か味方かで他人を見る幼い奴がいます。

何かの拍子に彼が暴れ出すと、周りにいる人はみんな敵だと訴えてきます。地球上の全員亡き者にしてしまえ!と勇ましいのです。

きっと自分が惨めで情けなくて可哀想な奴だと思っているからこそ、敵だらけに見えてしまうのですね。

大人になって余裕ができてくると、善悪は混ざっているものだという理解をすることができるし、敵でも味方でもない人が沢山いると分かるのです。

ただ大人になっても、余裕がなくていっぱいいっぱいで生きている場合には、子供のような極端な考え方をしてしまう場合もあるのです。

もしも極端な考え方が出てきてしまったら、それはインナーチャイルドが暴れていると理解するといいと思いますね。

あなたの敵は何ですか?

みなさんは、110番通報したことがありますか?私は何度か経験があるのですが、電話が繋がるといきなり、「事件ですか、事故ですか」と聞かれるのです。

え、二択なの?と思って、事故ではないですが…、と曖昧な言い方をついしてしまうのです。事件というほどのことではないと思っていたので。

私はどうも国家権力を盾にしている警察が苦手で、自分一人で勝手に敵対視しているのです。そのせいか、交通違反で捕まる度にムカついてしまうのです。

もっと他にやることがあるだろうと警察官に訴えたこともあります。自分でも子供じみていることを承知でやっているので、後を引くことはありません。

ただ、自分の中では警察は安心できる敵という位置付けなのです。今のところ、警察に怖い思いをさせられたことはないので。

自我というのは、とにかく戦う相手が必要なのです。戦う対象ですから、つまりは敵ということになりますね。

それは人物でもいいし、環境でも何でもいいのです。そのことを理解して、あまり深刻にならないで済むような敵を一つ見繕っておくといいです。

その敵がいることで自我は満足できるし、だからと言って人生に悪影響を与えるようなレベルではないので。

あなたは何を敵として生活しているでしょう?笑ってすませるような戦いのレベルにして置けるといいですね。

期待しないを体得する

2001年の初頭からセラピストとして仕事をするようになって、すでに21年以上が経ちました。思えばあっという間でした。

その間に1万回以上のセッションを通して、さまざまなクライアントさんから莫大な量の気づきを与えてもらったのです。

どんな書物を読み漁っても、どれほどの賢者に教えを請うても、これほどの気づきを体得することはできなかったはずです。

なぜなら沢山のクライアントさんのマインドをリアルに見せてもらえたことで、間接的ではあるけれど貴重な擬似体験をさせてもらえたからです。

数ある気づきの中で一つ例を挙げるなら、自分や他人に対してできるだけ期待せずにいることの大切さを学んだのです。

セラピストとして当然のことですが、クライアントさんに対して様々な期待をしてしまうのですが、それが大きく変化したのです。

期待が愛ではないということにも気づいたし、期待は言葉を変えれば欲望でしかないことも理解できたのです。

そのおかげで自分への期待も激減してしまいました。その分だけ私の自我は縮小したのかもしれません。

そして最近では、さらに期待を小さくする生き方を学んでいます。それは認知症が重度になってきた母親との会話においてです。

夜間に特に支離滅裂になってしまう母親に対して、どこまで期待せずに対応し続けることができるのか?

分かって欲しいという願いが独りよがりの欲望でしかないということを、繰り返し思い知らされるので、貴重な学びの場だなと思うのです。

悔し涙の正体

昨日のブログでは、怒りという感情を味わう方法について述べてみたのですが、この怒りを別の言葉でも表現できますね。

例えば、イライラする、ムカつく、悔しい、腹が立つ等々。怒っているはずなのに、悔し泣きなんて言葉もあります。

つまりは、悔しくて仕方がない時に、どういうわけか涙が出てきてしまうという場合があるということです。

なぜ怒りが涙を伴うことがあるのか?一般的には悲しいという感情があれば自然と涙が出てくるのは周知の事実です。

実は怒りの下側には必ずといっていいほど悲しみが隠されているのです。その悲しみは惨めであるという思考から作られるのです。

全体のカラクリを説明すると、まず初めに惨めだという思いがやってきて、そこから悲しみという感情が作られます。

けれども、惨めさも悲しみもどちらも見たくないので、怒りという感情で蓋をするのです。だから、怒り→惨め→悲しみの順番で層を成しているのです。

ということで、怒りをしっかり味わうことができると、その下に隠されていた惨めさが露わになって、同時に悲しみも感じることになるのです。

それが悔し涙の正体だったのですね。

怒りの味わい方

怒りという感情をネガティブなものだと思い込んでいる人が多いのですが、そもそも感情にいいも悪いもありません。

怒りを否定的に捉えてしまうのは、攻撃的になって相手を傷つけてしまう可能性があると思うからですね。

確かにそうですし、自分自身が幼い頃から親や周囲の人から怒りをぶつけられて、辛い思いをした経験があれば、怒りを否定しても当然でしょう。

ただし、感情そのものを否定するのは間違いです。怒りという感情をしっかり自分自身の中で消化すればいいだけです。

それができないので、相手にその怒りを投げつけてしまうのです。これは依存心ですね。未熟なマインドのすることです。

投げた怒りのエネルギーは自分自身に戻ってきてしまい、全く消化されずに蓄積されるということも知っておく必要があります。

怒りをしっかり味わうためには、いくつかの方法があります。もちろん依存をやめて、自分一人で怒りと向き合うのが前提です。

その上で、一番効率が悪いのは声を荒げて怒りの対象に向かって言葉を発することです。イメージの中でやれば誰にも迷惑はかからないのですが、少し効率が悪いです。

それよりも効率が良いのは、言葉を一切使わずに大声を張り上げることです。言葉を使わないことで、思考から離れることができるので、中程度の効率です。

最も効率が良いのは、言葉を発せず、大声を出すこともせず、ただ唸ること。大声を出さないことで、外側へ向けて怒りを投げなくなるのです。

それによって、しっかりと怒りを自分の肉体を使って感じ切ることができるのです。どうせやるならできるだけ効率的にやりたいものです。

是非試してみてください。