惨めさがカギ

私たち人間、つまり自我にとって一番認めたくないのは、自分は惨めな存在だという思いです。みなさんは、惨めさから何を連想されるでしょうか?

哀れだし、情けないし、無力だし、生きてる価値がない等々。こんな劣悪なイメージを大切な自分自身に対して持っていたら、とてもじゃないけれど安心して生きていくことなどできません。

だから人はできるだけ惨めさから遠い存在になろうとするのです。つまり自分は惨めじゃないということを何とかして証明しようとするのです。

その頑張りと努力の連続こそが人生というわけです。少しシンプルに表現し過ぎてしまいましたが、それほど間違ってはいません。

都度惨めさを観ないで済むように、マインドにはある仕掛けがあるのですが、それは怒りです。惨めだという思いがやってきそうになると、間髪を入れずに怒りで蓋をするのです。

本人としては、怒りだけを感じるので惨めさは見えなくなります。けれども、惨めだという思いがなくなるわけではありません。

そのため、怒りの下には惨めさからやってくる悲しみが蓄積することになるのです。このことは、怒りをしっかり感じると最後には悲しみがやってくるということでも分かります。

怒りをしっかり味わってからその下に隠された悲しみを味わうのか、それとも怒りは脇に置いておいて直接悲しみを味わうのか、私はどちらでもいいと思います。

ただし怒りそのものを長いこと抑圧してきてしまった人は、やはりその怒りをまず初めに味わってあげる必要があると思います。

いずれにしても、自分の惨めさから一歩も逃げずに、それは単なる思考であると気づいて、怒りや悲しみを味わうことで、癒しが進んでいくのです。

このことを忘れずに、実践していくことですね。

自我の仕組みを理解する

生きることのあらゆる苦しみというのは、期待することからやってきます。表現を変えれば、欲望とも言えます。

期待(欲望)すれば、そこからいくらでも地獄がやってくるし、それをなくせば今度は天国がやってくると言う寸法です。

ところがそれをなくすことが物凄く難しい。ほとんど不可能と言ってもいいのです。なぜなら、自我がそれを手放そうとはしないからです。

期待をしっかり握りしめたままで、周りを変えようとばかりするのです。たまに期待通りになることもあるので、次もやめられないのです。

全体は自我の期待など全く関知していません。我々がこうなって欲しいとどれほど願ったところで、それが聞き入れられる保証など皆無なのです。

それが分かっているはずなのに、やっぱり期待してしまうのです。このことからも、自我が決して満たされたいとは思っていないことが窺い知れますね。

自我はユートピアなど求めていないことは明白です。そのことをしっかり見抜くことが絶対的に必要です。

自我のやり口を見守ることができれば、それに飲み込まれずにいる方法も分かってきます。そして自我は見守られれば、エネルギーを失っていくのです。

逆に自我に乗っ取られてしまうと、自我は活性化していつまでも自分を苦しめ続けることになるのです。自我にとってはそれが安泰だからですね。

こうした仕組みを深く理解することができれば、自然と期待も自我も小さくなっていくことになるのです。

全体へと溶けていく

自我というのは普通であることを嫌うものだということは、以前このブログで書いたことがあります。

普通というのは、多数派の中に潜り込んでしまい自分の存在が曖昧になってしまうのです。自我はそれを恐れて、極力その反対を目指すわけです。

つまり、自我の願いはいつも「特別でありたい」、これですね。特別であれば、自分の存在感がはっきりと際立つので安心できるのです。

特別であるためには、平均的なものではなくて、その反対である極端さを好むのです。できればポジテイブな方の極端を求める気持ちは分かります。

その特別さと関連して、他者と比較して自分の優越性を感じたり誇示することも、自我としては特に欲しているものですね。

ところがその優越性に目が眩んでいる自我は、必ずその反対の劣等生を受け取ることになるのです。その二つは二元性におけるペアだからです。

逆に言えば、劣等生を隠し持っているからこそ優越性を求めることになるのです。ここで仏陀の中道の格別の安定感を感じるなり想像するなりしてみて下さい。

両極端から最も遠い真ん中こそが本当の非二元の状態であり、究極の普通さはそこにこそあるのです。

ど真ん中の普通の状態、中立でいることで、自我はどうにももたなくなって全体へと溶けていく、そのイメージが大好きですね。

異質な世界を見る

昨日の朝起きて、出かけるまでののんびりしていた時間に、ふと思ったのですが、この部屋には空気が充満していてくれると。

地球上基本的にはどこへ行っても呼吸するのに困ることがないって、なんだかとても恵まれているなという感覚。

そこから芋づる式に、このベッドも誰かが作ってくれたもの、この部屋も大工さんなりが建ててくれたもの、このテレビは誰かすごい人が開発したもの。

どれほどの人々の知恵と努力が積み重なっているのか。クルマで出かけるなら、優秀な人たちがそれを開発してくれた。

道路を計画して整備してくれた人たちのおかげで、スムーズに目的地まで走れる。信号の絶妙なタイミングがすごい。

このようにして、とんでもない数の人々の叡智によって自分の生活が支えられていることに、今更ながら驚くしかありません。

その後何が来たかと言うと、全てが素粒子でできていて、そのレベルで見るとほとんどが空間であり、原子同士もスカスカなのです。

そうしたら、自我がこれが自分だと信じているある一まとまりの存在など、初めからないなという感覚になりましたね。

境界がないという感覚。しばらくそれに浸っていたら、家人から慌てた様子で急ぎ?の質問をされて、普段の自分に戻されてしまいました。

人間て、環境が全く変化しなくても自分のマインド内の考えが変化するだけで、全く異質な世界を見ることができるのですね。

隠された本音

小学一年の時に、盲腸の手術をしたことがあります。正式には虫垂炎と言うのでしょうが、昔は単に盲腸と呼んでいました。

術後、医者か看護師の誰かに摘出した盲腸を見せてもらったのですが、それがピンク色をしたいかにも健康そうなマカロニのようだったのを覚えています。

病室のベッドで近くに母親が付き添っていてくれるのですが、彼女が心配そうにこちらを見ているのが耐えられずに、こっちを見るな!と怒鳴っていたのを覚えています。

どう言うわけかあの眼差しで見られると、切った右下腹部のあたりが疼くのです。そんな馬鹿なことがあるかと思われるでしょうが、本当なのです。

それで母親はどうしたらいいか途方に暮れて、私に背を向けて窓の外を見ていたように記憶しています。

申し訳ないことをしたなとその後何度となく思い出しては考えていましたね。あのこっちを見るな!のもっと奥には、優しい眼差しで見て欲しいがあったのではと思うのです。

子供心に心配されたくないと言う気持ちが強く働いて、本当は見て欲しいという思いを隠していたように思います。

マインドというのは面倒臭いものですね。本当に欲しいものが願っても願っても手に入らないとなると、そんなものもういらないという嘘の思いをでっちあげるのです。

要するにそうやって防衛するわけです。どれほど望んでも抱きしめてもらえないとなったら、抱きしめて欲しくないという嘘をでっちあげるのです。

そうやってどうすることもできない苦しみから解放されようとするわけです。見て欲しいのに、見るなというのも同じだったのかも知れません。

そう言ったずっとひた隠しにしてきた本当の気持ちに気づくなら、人は生きている感覚が根本から変わってしまうかも知れません。

そんな隠された本音があるなら、きっと癒しの過程で自ずと気づくことになるのだと思いますね。

「アラヤシキ」に馴染みがある!?

この世界には不思議なことってあるものですね。私自身も何度かそういった体験をしているし、クライアントさんからも沢山伺う機会があります。

ちょっと面白いなと思ったので覚えているのですが、数年前くらいのことだったと記憶しているのですが、ある動画を観ていた時のことです。

その中で「アラヤシキ」という言葉が出てきたのです。それは、自分にしては珍しく仏教に関連する内容だったのだと思うのです。

その単語を聞いた途端、ああ、知っているとなったのです。ただし、その意味は全く分からないのです。それがとても不思議でした。

今もって正直その深い意味は知らないのですが、とにかくすごく深い部分が反応した感じがしたのです。

ネットで調べてみると、「阿頼耶識」という漢字が当てがわれていて、なんとも妙な感じがするのですが、私の中では「アラヤシキ」という発音だけが懐かしいのです。

もしかしたら前世は仏教のお坊さんだったのかとも思ったのですが、修行僧のようなのは全く自分に似つかわしくないので、きっと何か別の理由があるのかも知れません。

今でもこの言葉を発音すると、深い部分で誰かがその言葉に馴染んでいるという感覚があるのがとても面白いです。

きっと理由は分からないままに死んでいくのだろうと思いますが、最近は分からないことを解明したいという欲望も小さくなってきたなあと感じています。

思考を見守る側になる

自然であるとは、あるがままでいるということ。あなたがAであるなら、決してBにはなれないし、なる必要もないと理解することです。

自然であるためには、どんな目標も持たないでいる必要があるのです。この社会で生きるためには、少々勇気がいるかも知れません。

けれども、目標を設定してしまえばその目標からそれないようにするために、不自然さが入り込んでくるのです。

理想は無目的ということですね。自然界にはどんな目的もないのです。社会の中では、最低限のルールを守ることは当然のことです。

ただし、内側では野生でいること。そして自由であるとは、自分を飼い慣らさないということ。自分に強いるのはいつもマインドです。

だから自由とはマインドから離れていることでもあるのです。マインドによって調教されてきてしまった人は、その不自由さがマインドからやってくることをしっかり認識することです。

マインドの組成である思考は、言語を生み出したことでより複雑な思考を使えるようになったのです。そのおかげでコミュニケーションができるようになったのです。

そういう意味では思考は便利なツールではあるのですが、その一方で暴力的な力であなたの人生を破壊することもできるのです。思考は毒薬です。

もしもあなたが思考を見守る側でいられるようになるなら、自ずと自然で自由な生き方になってしまうでしょうね。

珍しく新年の決意

新年を迎えて新たな決意をしましょうなんて、これまで言ったこともなかったし、そんなことをブログで書いたこともありません。

でもガラでもないですが、今年はそれをやりたいと思います。とは言っても、毎度ここに書いていることの繰り返しに結局はなってしまいますね。

自分は何となく不自然な生き方をしてきた気がすると感じるなら、できる限り自然体で生きることを心がけたいものです。

そこそこ自然に生きてると感じている人は、もっともっと自然に生きることができるようにあらゆる工夫をすることです。

同じようにして、不自由な人生を送ってきてしまったと思っているなら、自分を解放して自由で心地いい人生にすることです。

もうすでにある程度は自由だと実感している人であれば、もっともっと自由を満喫できるようにすることです。

より自然に、より自由に生きるために全力で取り組む必要があるのです。自我はそれをあらゆる手段を使って邪魔してくるはずです。

そこに気づくためにも、3つ目が最も大切です。それはより意識的であろうとすることです。そのことで自我の邪魔を素早く察知することができるからです。

より自然に、より自由に、より意識的に、これを実践しましょう!それを邪魔してくる自我の作戦をしっかり見抜くこと。

一つのコツは、不安や恐怖を解決しようとせずにそのままにしておくこと。無視するでもいいですね。相手にしないでおくのです。

その練習を積み重ねて防衛が小さくなればなるほど、自分を縛ることがなくなっていくはずです。自分を調教しない、自分を騙さない、自己犠牲のバカバカしさに気づくこと。

二重生活の実践

昨日のブログの内容とセットで次の osho の言葉を味わってみてください。

『生というのは二重の旅だ。ひとつの旅は時間と空間のなかを進み、もうひとつの旅は自分自身と真理のなかをゆく。

最初の旅は死で終わり、ふたつ目の旅は不死で終わる。ふたつ目の旅こそ本物の旅だ。なぜなら、それはあなたをまぎれもなくどこかへ連れていってくれるから–』

自分を個人だと思い込んでいる自我にとっては、この3次元の世界、時間と空間の中を進んでいく旅をしているのです。

ただ漫然と生きているだけでは、人生の100%がそれだけになってしまいます。それが悪いということではないですが、その旅は死によって根こそぎにされてしまうのです。

一方でより高次元の世界、純粋な意識としての自己に気づくなら、その旅は肉体の死とは別に不死であることに気づくのです。

この二つの旅を同時に楽しむことができたら最高ですね。3次元の旅と高次元の旅、3次元の旅人は快不快、善悪、正不正のなかを進んでいくのです。

その旅を楽しみながらも、高次元の旅も同時に楽しむのです。そのためには、日々より意識的である工夫をすることです。

この二重生活、二重の旅を実践することを強く推奨します!

上位次元から見ると時空はない

高校生になって、数学で微分とか積分というのを習うと思うのですが、あれって一体何だったんだろうと思っている人が多数派だと思います。

それはそうですよね、だって使い道を教わってないからです。自分の実生活では使わないとしても、その使い道くらいはざっくりと教えて欲しかったですね。

実は微分も積分も、この現実世界を描写するのになくてはならないものなのです。例えば、畑の面積を知りたいとします。

現実の畑が、理想的な長方形であればいいのですが、そうとばかりは言えません。実際私の家の敷地は長方形ですが、少し歪な形をしています。

そんな時、積分を使わなければ面積を正確に計算することができないのです。微分の方は、また少し違います。

ある物体の速度を計算しようとするとき、それが等速直線運動であれば簡単に次の位置を計算することができます。

けれども、実際にはそんな綺麗な動きをするものなどこの世にないのです。カーブを曲がったり加速度がついたり。

そうした動きを予測するときには、微分が必要となるのです。なんでこんな話しをしているかというと、あることに積分の概念が使えると気づいたからです。

例えば、二次元の世界(面ですね)から三次元(空間)を導き出すときには、積分すればいいのだろうと考えられます。三次元は二次元の積み重ねだからです。

同様に、私たちの時空である三次元を積分すればより上位の次元になるわけです。ここからが今日お伝えしたい本題です。

三次元の世界から二次元である面をイメージはできますが、実際に面という存在はありません。あくまでも概念としてあるのです。

同様にして、意識の世界であるより上位の次元から、私たちの時空である三次元を見ると、イメージはできるのですが存在はないのです。

それが完全な意識の状態、例えば瞑想状態で感じることができる時空の非存在なのだと。私たちの本質からすると、時空はないのですね。