無意識の方が楽しい

このブログでは、日頃からできるだけ意識的に生きることを推奨していますが、その理由はそれが究極的に自らを救う唯一の方法だからです。

ところで、意識的な状態のままで「できないこと」ってどんなことがあると思いますか?思いつくことを挙げてみます。

激怒すること、何かにのめり込むこと、夢中になって我を忘れること、過去の記憶に浸ること、未来を想像すること、考え事をすること、イメージの中に入ること等々。

何となく想像できるでしょうか?逆に言えば、上記のようなことを続けていると、必然的に無意識状態になってしまうということです。

一般的に、夢中になるということは肯定的に捉えられていますが、無意識状態になるという副作用もあるということです。

未来のことをあれこれ想像して夢見心地でいるのは楽しそうでいいのですが、残念ながら間違いなく無意識になってしまいます。

映画やドラマを観て、その物語に没入できればそれだけエンターテイメントとしては成功な訳ですが、それも無意識状態を作り出します。

つまり、無意識状態でなければ楽しめないこともたくさんあるということです。だからこそ、意識的であり続けることはとても難しいことなのです。

それでも繰り返しますが、意識的であることを通してしか、今この瞬間の至福を味わうことはできないのですね。 

無邪気で素直な自分

子供の頃、家族の中にいて自分も含めて家族の誰もが何だかずっと本音を出さずに生きているのではないかと感じていました。

本当はもっともっと人間らしく、喜怒哀楽を表現し合いながら生きていければいいのに、なぜそれができないのだろうと思っていました。

おそらくは、いつの間にか身につけてしまった恥ずかしさが邪魔をしているのだろうと考えていたと思うのです。

きっと小学生低学年くらいまでは、それができていたはずなのです。少なくとも自分だけはそうやって自由に生きていたのです。

それが次第に他の家族と同じように、恥ずかしさのために無邪気さが邪魔されるようになったのでしょうね。

オーバーに言えば、何だか仮面家族のような感じですね。そして少しずつその偽りの感覚が麻痺して感じなくなっていったのです。

年頃になって好きな人ができて、その人との間では元々の素直さを取り戻すこともできたのですが、結局はまた冷静な自分になってしまったと感じています。

そんなことをつらつら思い出して見たところ、人生の中で今が一番無邪気に素直に毎日を過ごしているのかもしれないと思えたのです。

それはきっとクライアントさんとの数多くのセッションを通して、ありのままの生を間近で見せてもらうことができたからだと思うのです。

だからクライアントさんにも、この仕事にも感謝ですね。

自分の本質を感じる

自分の中に来たり去ったりするものがあるとしたら、それが自分自身ではないというのは何となく理解できるはずです。

その代表的なものは、思考ですね。思考というのは、何かを考えているとき、イメージしているとき、思い出したり、予想したりするときにやってきます。

逆に深くリラックスしていたり、ぼんやりとしている時などは、思考は何処かへ行ってしまいます。感情も同じように常にあるわけではありません。

それなら「私」というのはどうでしょうか?思考や感情などと違い、常にあるように思えます。けれども、そうでもないのです。

何かに没頭していたり、何かに夢中になっている時などには私はいません。あるいは、思い切り笑い転げている時なども同じです。もちろんずっといなくなるわけではないですが。

そうなると、ずっと変わらずにあり続けるものとは一体何でしょうか?そんなものあるのだろうか?という疑問が出てくるかもしれません。

ヒントは音と静寂です。音はやって来たり去ったりするものですが、そのバックにある静寂は常にそこにありますね。

そして静寂がなければ、音が存在することもできなくなるのです。同じようにして、思考や感情や私のバックにあるものに気付けばいいのです。

それが意識ですね。一般的に言う意識というより、私たちが存在できるようにしてくれてる空間のようなイメージと言えばいいのでしょうか?

本当はイメージすることなどできないのですが、それをいつも何処かで感じていられるといいなと思うのです。

それこそが私たちの本質だと感じるからです。実際にそれをしっかり感じられるときは、何とも言えない満たされた感覚がやってきてくれますね。

思考を止めたくない理由

マインドというのは、いつも過去か未来のことを考えているものです。それはそういうものだから仕方がないとしてしまうのは、勿体ないことです。

なぜなら、過去か未来のことばかり考えて過ごす人生がどれほどバカバカしいものか。生きているとは言い難いからです。

実はマインドのそうした特性というのは、意外に簡単に説明がつくのです。もしもあなたが、今この瞬間にバシッと意識が固定されるなら、思考は停止するのです。

思考というのは、過去や未来をベースに活動しているものだからです。つまり、過去や未来のことばかり考えているのは、思考を止めたくないからなのです。

思考を止めたくない理由は、自分を無意識状態にしておきたいからです。意識的に思考の中にはまり込むことはできないのです。

無意識状態でいると色々な気づきのチャンスが失われて、簡単に言えば動物のような生き方になるわけです。

自我としては、自分は単なる思考の塊であって実在するものではないということがバレないようにしたいのです。

バレてしまったら、自我は崩壊せざるをないからです。無意識であれば、そうした気づきは絶対にやってくることはありません。

逆に言えば、もしもあなたが自分の本質に気づきたいのであれば、瞑想的に意識的に生きる時間をどうにかして増やすことですね。

人生は一本道

かれこれ50年くらい前、学生だった頃に好んで聞いていた楽曲を思い出して、ネット上で捜したら見つかったので、懐かしい思いで聴くことができました。

いい時代になったものですね。あの頃のように、なけなしの小遣いをはたいてアルバムを買う必要もなく、気軽にテレビでもスマホでも聴けるのですから。

その時に何とも言えないかつての感覚も一緒に蘇ってきました。自分が青年であることを一応喜んで、自由に生きていたのだと思います。

今よりも不安は大きかったような気もしますが、それでもそれなりに毎日を楽しんでいたようです。

あの若き青年に何かを伝えてあげられるとしたら、何を言ってあげようか?と考えて、色々なアドバイス的な言葉が頭をよぎったのです。

けれども、しばらくしたらそんなことはどうでも良くなってしまって、たった一つだけ伝えたいことが残りました。

それは、今の君には思いもよらない何かを知るようになるから、それを楽しみにしていてね!というものです。

もしも今それを言葉で伝えようとしても、彼はどれほど頭を絞ったところで、意味を理解することはできないでしょうから。

それ以外は、何をしろとか、何をするなとか、そう言ったものは全くなく、そのままに生きていればいいよだけになりました。

10年後にまだ自分が生きているとしたら、今の自分にどんなことを言ってくれるのかな?と想像すると、結局そのまま生きればいいよって言われそうな気がします。

要するに、人生という一本道を歩むのに、正しい歩き方や間違った歩き方などあるはずがないということですね。

思考と思考の間に気づく

もしもあなたが、いつもいつも何かを考え続けて、頭が休まる暇もないとしたら、簡単に言えば正気を失っているということです。

そんなことはない、自分は正気でまともな頭で正しく考えを巡らせているだけだと反論するかもしれません。

確かに寝る暇も惜しんで、研究に没頭している科学者がいるとしたら、その人は正気に違いありません。

ここでいう頭が休む暇もない状態とは、過去や未来のことで頭がいっぱいの状態のことを言っているのです。

過去はもう過ぎ去ってしまったもの、未来はまだ来ないものであり、どちらも実在するものではありません。

現実ではないところに思考をどれほど巡らしたところで、肝心の現実を生きていることにはならないのです。

それは思考の世界に逃避してしまっているのです。正気を取り戻したければ、思考と思考の間があることに気づくこと。

一つの思考が終わって、次の思考がやってくるまでの一瞬を捉えるのです。その間は無思考状態であり、瞑想状態と同じです。

だから瞑想が苦手という人にとっては、その思考と思考の間の無思考を感じるようにすることで瞑想の代替えとなるのです。

思考と思考の間があることに気づくためには、やってきている思考に気づいているようにすることです。

それによって、その思考が過ぎ去っていくタイミングにも気づけるようになるはず。その瞬間が幕間を感じる大チャンスなのです。

存在としての単純な自分に気づく

この社会の通説として、人は誰かに必要とされて何ぼだ、というのがありますね。要するに、人に必要とされなければ価値がないと言っているのです。

確かに、例えば大人になって職場であなたは必要のない人間だと言われたら、誰だって相当な心の痛手を負うことになるでしょう。

だから人から必要だと認識されることは、心の平安のためにはとても重要なことだというのは理解できるのです。

けれども、それは社会というシステムの中でのことでしかありません。この社会は必要なものではありますが、本質的なものではないのです。

私たちは社会の中で生きるのですが、社会に迎合したり社会に染まるべきではないのです。さもなければ、あるがままのあなたが台無しにされてしまいます。

私たちは自分に対して、二つの見方を持っています。一つは存在としての単純な自分、もう一つは社会の中で機能する自分。

幼い頃に自分の存在に目が行かないままで大人になってしまうと、後者である社会の中で機能する自分の価値にしか目が行かなくなるのです。

社会の中で、人よりも抜きん出た成果を出すこと、人に嫌われないこと、要するに人に必要とされることこそが自分の価値だと勘違いしてしまうのです。

そうなると、最も邪魔なのは無邪気な自分になるのです。だから、無邪気さを地下室に閉じ込めて、一生陽の目を見られなくするのです。

こうなってしまったら最後、いずれこの人生は破綻してしまうでしょう。大切なことは、存在としての単純な自分に気づくことです。

人から必要とされるか必要とされないかは、存在とは全く縁のない話しであることを理解しなければなりません。

自分は人に必要とされるために生きているのではないという、腹の底からの深い理解が絶対的に必要なのですね。

理想を掲げない

もしもあなたが生まれたままの無邪気さを見失うことなく生きていれば、あるがままの自分でいられることになるのです。

一方で、自分に対してある種の理想を作ってしまったとしたら、常に自分をその理想に向けて矯正し続けなければならなくなるのです。

それは途方もなく困難な人生を生きねばならないのは明らかですね。そのままのあなたが、あなたが作った理想とはかけ離れているに違いないからです。

どれほど頑張ったところでその溝が埋まることはありません。その無意味で絶望的な頑張りには、それこそたくさんのやり方があるのです。

ある人は、どこからどう突いたところで正しい人と思われるように頑張るのです。清廉潔白を目指し、それによって罪悪感から逃れようとするわけです。

またある人は、誰よりも抜きん出た才能や実績を残すことに命をかけようとするのです。そうして特別な自分であろうとするのです。

どんな努力であれ、作り上げた理想とやらに向けた虚しい気違いじみた努力が延々と続いていくことになるのです。

なんて哀れで、悲しい人生でしょう。自分に対して理想を掲げてしまうとそうした人生が待っているのです。

寸分違わぬあなたのままで全体性は充分に満足しているのです。そのことに少しでも早く気づくことが清々しい毎日を生きるカギとなるでしょうね。

ただ見守ること

このブログでお伝えしてきたことは沢山あるようにも見えるのですが、究極的にはたった一つだけだとも言えるのです。

それはただ見守ること。これですね。自分のマインドの中にやってくる煙幕のような思考、あるいは襲いかかってくる感情を見守ることです。

すると、思考や感情といったお決まりのものではない新たな要因、つまりは見守る者としての自己を理解できるようになるのです。

この理解があなたを根本から変革してしまうことになるのです。これまでのあなたの毎日は、見られる者としての人生ばかりでした。

それが、見守る者としての毎日が大きくなってくるので、それまでとは全く異なる人生になってしまうのです。

自我の辛さは見られる側としての自分がいるからです。見られるとは判断される、裁かれる、否定されるということにつながるのです。

一方でただ見守るということは、そこにはどんな思考も入らないし、だからこそそこには自我の要素も入り込めないのです。

見守ることは意識的であることと同値です。常に気づいていることとも同じ。この練習を繰り返すことで、一人でに自我は力を失っていくことにもなるのですね。

自己否定は親二世の仕業

誰であれ大なり小なり自分を否定しているマインドの部分を持っているものですね。今日は、事柄を単純化するために、自己否定は親二世の仕業であるとします。

親二世というのは、これまた誰のマインドの中にもあるのです。5、6歳くらいまでの間に怒りと共に自分を否定してくる親の代役が作られるのです。

その理由は否定される側だけの辛さを対処するために、親とそっくりな親二世を作ってそれが自分自身を否定するようになるのです。

親二世は否定する側になるので、その分トータルで見れば辛さが回避されるわけですね。もちろん、否定される側は辛いままですが。

なぜ親が子供に対して怒りと共に子供を否定するかといえば、その親のマインドの中にも親二世がいるからです。

そうやって、親二世は防衛の仕組みを利用して代々伝搬していくことになるのです。親二世はなかなか強いエネルギーを持っています。

というのも、親二世のバックには本物の親が控えているので、否定される側としてもなかなか太刀打ちできないのです。

成長して自己否定というバカバカしい仕組みをやめたいと思うのであれば、親二世の存在に気づく必要があるのです。

そもそも防衛のために親二世をこしらえただけなので、それが向けてくる自己否定には何の根拠もありません。そこをしっかり見ることです。

否定される側の自分と自分を否定する親二世の両方を均等に見守ること。それを繰り返すことで、マインドの中は静かになっていくはずです。

そうやって自己否定の何ともバカバカしい様に気づくことができると、生き方が自ずとシンプルになっていくでしょうね。