自己否定のバカバカしさに気づく

自己否定というのは、誰のマインドの中にも大なり小なりあるものですね。自分がダメなんだとか、自分が悪いというもの。

自分のなんらかの言動に対して、自分が間違っていたと思うのは自己否定ではありません。その間違いを正せばいいだけなので。

あるいは、自分がバカだったというのも自己否定ではありませんね。そのバカさ加減は成長と共に、変化していくようにすればいいだけなので。

けれども、こうした間違いを犯すことやバカさ加減、あるいは未熟さといったものと自己否定を混同してしまう人が多いのです。

例えば、あの時自分がもっとこうすればよかったのに、自分が悪いな。もしくは、自分はなんてバカなことをしてしまったのだろう、明らかに自分が悪い等々。

どういうわけか、自分が悪いということを付け加える習慣が身についてしまっているとしか言いようがないのです。

自分がいるとみんなに迷惑がかかる、だから自分が悪い。自分は努力が足りない、配慮が足りない、優しくできない、だから自分は悪い。

なんだか呪文のように、必ず最後には必ず必須アイテムのように「自分が悪い」を使うのです。心当たりがある人いませんか?

それを当たり前のようにやっているとしたら、自己否定症候群を患っています。これは、元々自分に対する存在否定からやってくるのです。

だからその否定には本当はどんな理由もありはしません。幼い頃に作り上げてしまった存在否定に過ぎないのです。

ここをよくよく理解することができれば、しつこい自己否定症候群から解放されるでしょう。自己否定のバカバカしさに気付けば、それはあっという間に消えていくはずですね。

潜在意識は不眠不休

昨日の朝5時ごろ、何かの物音がして目が覚めたのですが、すぐに母親が転んだのではないかと思って見にいくと、案の定リビングで仰向けに倒れていました。

最近学習した方法で、焦ることなく起き上がらせて室内用の車椅子に座らせてあげることができました。

大きな音がしたというわけでもないのに、我ながらよく目が覚めてくれたなと、不幸中の幸いだったと胸をなでおろしたのです。

最近の母親はいつ転んでもおかしくない状態で夜間に部屋の中を歩くので、心のどこかでそれを気にかけていたおかげで目が覚めたのだろうと。

けれども、眠ってしまっているのになぜ起きることができたのか?それは、潜在意識の一部は眠ってしまってはいなかったからですね。

眠っているからと言って、脳の活動が全停止するようなことはないので、ずっと聞き耳を立てていてくれる部分があるのですね。

寝ている時に夢を見るのも同じことです。夢を創作しているのは潜在意識なので、そこは起きて物語を作っているということです。

とはいえ、睡眠中ずっと脳が活性状態であったりすると睡眠の質が悪化して、脳内に溜まったものを解毒できなくなってしまうのです。

そうなると、それこそ認知症になるリスクが高くなるらしいので、質の良い睡眠を心がけたいものですね。

自我は欲望の運び屋

昨日のブログ「欲望が生まれ変わる」を書いていて、思ったことがあるのですが、今日は続きとしてそれについて書いてみようと思います。

以前ウイルスについての本を読んだことがあって、その中で地球上で最強の生物はウイルスではないかという仮説を立てていたのです。

なぜなら、彼らは自分の肉体を持たないので、肉体を持っている生物の中で繁殖して、種を存続するという戦法を取っているからです。

つまり、ウイルスからしたら他のあらゆる生物は単なる乗り物として使っているということになるのですね。

それと同じようにして、欲望というのは私たち人間を乗り物として存続し続けているという見方ができるのです。

そういう意味では、私たちは単なる欲望の運び屋でしかないのです。それが私たちの役目なのだと考えると、かなりバカバカしい気持ちになりますね。

ニワトリが先か卵が先か?という議論がありますが、それと同様にして人間が先か欲望が先か?という見方もできるのです。

もしも人間が自我を持っていなかったなら、欲望は存続することはできなくなります。要するに、自我と欲望の絶妙の組み合わせで、その永久ループは成り立っているのです。

だから先ほどの議論は、自我が先か欲望が先か?に言い換える必要がありますね。そしてごくごく稀に、そのループを断ち切る人が出てくるのです。

それが覚醒した人ですね。覚醒するということは、自我が消滅してしまうので、それと共に欲望も跡形もなく消え去ってしまうわけです。

自我は欲望を餌に生き、欲望は自我を乗り物として使う。こんな素敵な取り合わせを一体誰が考案したのでしょうね?

欲望が生まれ変わる

今年も最後の月に入りましたね。この月の最初の日は、自分にとってはなかなか忌々しい日でもあるのです。

なぜかというと、誰かの欲望を背負って自分が生まれてきてしまった日だからです。もう生まれて来なくて良かったのに。

もちろん生まれてきたことで、沢山の大切な人と出会うことができたのは感謝しているのですが、それでも生まれて来ないことに越したことはありません。

前の人生を生きていた人も同じような考えだったと想像しているのですが、その人が欲望を残したまま息を引き取ったのでしょう。

だからその欲望のエネルギーが次の人生を求めて新しい肉体を持つことになったのですが、それを引き継いだのが自分だったということ。

こうした説明がまわりくどいので、自分が生まれ変わったと言ってしまえば簡単ですが、正確に表現すればそういうことです。

今回の人生でも、残念なことに欲望が消えることはないように思えるので、私の肉体の死後次の人生へと進んでいきそうです。

次の人にお任せするしかありません。私が残してしまった欲望を、その人がどう料理するのか、天国で見守ってあげたいものですね。

生き方が相応の結果を招く

私のモットーである、「より自然に、より自由に、より意識的に」というのを、絶賛推奨し続けているのですが、決して押し付けるつもりはありません。

どんな生き方をしようと、それが間違っているとは思っていないし、それこそその人の自由に任せればいいのですから。

またそんなもの、初めから押し付けられるものでもありません。より正しく生きたいと願っている人がいてもいいのです。

誰よりも強くありたいと願うのもありですね。あるいは、弱音を吐かない、みっともない姿を見せない生き方等々。

何を優先して生きるかは人によって異なって当然です。ただし、その人の生き方や考え方がはっきりと結果として現れてくるのも事実です。

どんな結果がやってこようが、当然のこととしてそれを受け容れるべきなのですが、どうもそこが曖昧な気がします。

つまり、自分は自分の流儀があってその信念のもとに生きている、まではいいのですが、そこからやってくる結果は気に入らないのです。

あなたが何かと戦っているなら、必ずあなたの周りに敵がやってくるはずです。冷静でいようとして自由な感情表現を抑圧すれば、激しい感情を誘発される事象がやってくるのです。

自分が選択した生き方が、それ相応の結果を招くという事実をしっかり理解することです。この理解の深さによって、生き方は自ずと修正されていくでしょうね。

来世へのささやかな希望

今から30年ちょっと前の会社員だった頃、「イカすバンド天国」という深夜番組が流行っていたのをご存知でしょうか?普通は知らないですよね。

数多くの素人バンドが出てきて、それぞれに演奏を競う番組なのですが、その番組に出ることを目標に職場の仲間とバンドを組んでたことがありました。

自分の演奏の腕前は脇に置いて、当時フュージョン系のトップを走っていた「カシオペア」とか「プリズム」といったバンドの超難しい曲ばかりを練習していました。

それから時が経ち、あの「カシオペア」のメンバーだった3人が、キーボード、ベース、ドラムのトリオを結成したのを最近知ったのです。

彼らも全員が60代のおじさんになったのですが、今年リリースした新曲を聴いて久しぶりに心が躍るような感覚が蘇ってきました。

もうかれこれ100回以上はクルマの中とかスポーツクラブでウォーキングしながら聴いています。

そして聴くたびに、次生まれ変わったら是非ともカッコいい演奏ができるミュージシャンになろうと馬鹿なことを考えている毎日です。

そのくらいのノー天気な方がいいのです。闘う人生から足を洗ったという実感があるので。宜しかったらどうぞご視聴ください↓

うまく言葉にできない

これから書くことが何となく難解に感じてしまうこともあるかもしれませんが、本当はものすごくシンプルなことを言っているのです。

それはシンプル過ぎて言葉にできないくらいなのです。それを無理やり言葉にしようとするから、分かりにくいということになるのだと思います。

もうホントに単純に、自分はなんなのか?どこにいるのか?というこの基本的な質問にも答えがないのです。

もしも答えられるとしたら、それはあなたがこれまでに手にした情報を思い出しているだけなのです。

そういった情報は、誰かから与えられたものであって、自分が本当に知っていることではありません。

それは一種のラベル付なのです。ある物体にリンゴという名前をつけるのと同じで、私たちはリンゴの本質については知りません。

意識を自分自身に向けていればそのことは明白になるはずです。あまりにも明白過ぎて気づくことができないのです。

自我が大好きな五感を一切使わずに、ただ在ることに気づいていればいいだけ。そうすると、自ずと分かるのです。

自分には形も大きさも場所も何もないという、この感覚は普段忘れ気味ですが、マインドが静かなときに意識を内側へと向ければやってきてくれるのです。

この単純な感覚を見つけることです。それが何の役に立つのと疑問に思うかもしれませんが、これもうまく言葉にはできないですが、深い安心と信頼につながっているように感じます。

マインドとハート

マインドは生後親や社会などから作られていくものですが、ハートは生まれながらに備わっているものです。

マインドが人工的であれば、ハートは自然のもの。マインドが思考であるのに対して、ハートは無思考です。

マインドは考え、ハートは感じる。マインドは防衛し、ハートは無防備なのです。両者は、これだけの真逆の特性を持っています。

マインドが社会性であるのにハートは非社会性であり、マインドが攻撃性であるのに対してハートは受容性なのです。

マインドの中にもある種の受容性はあるように思えますが、それはホンモノではない感じがしますね。

マインドが受容するときは、形だけ、表面だけ受け入れるということのように思うのです。そこにはある種の取引のようなものが付随している可能性が大ですね。

マインドは計算的ですが、ハートは計算ができません。だから、マインドは打算的ですがハートは取引ができないのです。

このくらいマインドとハートをしっかりと比べてみれば分かるのですが、ハートを主体として生きていなければ人生が殺伐としたものになるのは当然です。

マインドよりもハート優位の人生にすることです。そして最も大切なことは受容するということ。あなたの受容性が花開くとき、全体性が降りてきてくれるのですね。

どんな信念もいらない

みなさんは信念という言葉を聞くと、どんなイメージが湧くでしょうか?一本筋が通った人は、強い信念を持っているように見受けられます。

あるいは、人としてこの社会の一員として生きるためには、信念を持っていた方が上手くいくかもしれませんね。

信念がない人は、他人に支配されてしまう感じもするし、風見鶏のような生き方しかできないように思えます。

私はそれを否定するつもりはないのですが、社会に適合することを優先する生き方が唯一の正解だとも思っていません。

私がいいなと思う生き方は、やはりより自然に、より自由に、より無邪気になのです。そうなると、信念を持って生きることとは隔たりがありそうですね。

というよりも、信念を持ってしまうと私の理想とは真反対の生き方になってしまいそうです。なぜなら、信念とはこの自然界には存在しないからです。

信念は固いものです。どんな逆境でも挫けない強さが必要です。その逆が水のようにどんな形の入れ物でも抵抗なく充すことができる柔軟さです。

そして最後に、どんな信念であろうとあなたを満たしてはくれません。逆に、信念という凝り固まった考えがあなたの人生をズタズタにする可能性もあるのです。

例えば、自分という存在は価値がないという信念です。この信念は本当にしつこくて、その馬鹿馬鹿しさに腹の底から気づかなければ、死ぬまでそれに支配された人生になるでしょう。

そんな信念など、今すぐにゴミ箱へ捨ててしまってください。そして、都合のいい信念を作るか、あるいは信念そのものから離れた軽やかな人生にしませんか?

人生は壮大な実験場

信じない心よりも信じる心の方が良いように感じてしまうのは、一体どんな理由からなのかと考えてみたのです。

あまり定かではないのですが、もしかしたら人は自分のことを信じてもらえないよりも信じてもらえる方が嬉しいので、そこからきているのかなと。

だから物事を信じる人は純粋で好感が持てるということになったのではないかと思っています。けれども、信じることは大変危険なことです。

人を信じたばっかりにその人に裏切られて、酷い目に遭わされたなんてこともあるからです。その最たるものが信仰です。

信仰心というのは、死の恐怖からやってくるのです。信者をたくさん抱えているあの聖人の言うことだから、信じていれば間違いない。

そうして、信仰は人を盲目にさせてしまう力を持っています。決して信者になってはいけません。対象となる人がどれほど素晴らしい人であろうと。

問題は対象となる人ではなく、信じてしまうことそのものにあるからです。信じるとは、自ら検証することを放棄してしまうことなのです。

信じてしまえば、その先にはどんな探求も必要なくなってしまうからです。それは信じないということと同値です。

どちらも自分の人生をかけて実験することを回避してしまうのです。人生は壮大な実験場であることを忘れないことですね。