鏡のようにあるがままを映し出す!?

思考から解放された純粋な心というのはただの鏡だ、と osho は伝えてくれているのですが、それがどうも長いことしっくりこないでいたのです。

つまり逆を言えば、自我に乗っ取られた私たちのマインドは、まるで歪んだ鏡のように周囲のものを映し出すということです。

鏡はその周囲にあるものをそのままに、あるがままに映し出すのですが、私たちの目、自我の目はそうではないということです。

確かに自我の目は観念というフィルタをかけてしか、ものを見ることができません。例えば今私がいる部屋の様子が目に写っているのですが、自分ではあるがままを見ているように思えます。

けれども、上を向けば天井があって、下を見れば床があって目の前には壁があってという具合に常に観念や概念が働いた結果を見ているのです。

目を大きく見開いたまま、何を見ているのか分からないという状態にならない限りは、鏡にはならないのですね。

分かってはいたのですが、あらためて見つめ直してみて何となくしっくりくるようになったようです。

だとしたら、マインドが鏡のようになるためには頭をごっそりそのまま無くしてしまうしかないのではないかと思われます。

あるとき、目の前のものを微細に明確に見ているのに、何を見ているのか全く分からないという不思議な夢を見たことがありました。

あれはきっと、観念や概念を司る脳の部分が眠ってしまった状態で夢を見たからそうなったのだろうと思っています。

自我が生きている状態で観念だけが落ちてしまうと、そんなもどかしい体験をすることになるのですね。

最後の野心は健在

長いこと生きてきて、これまでで最も印象に残ったことは、この自分はいないということです。

それは勿論ただ情報として知ったということだけであって、実体験として知ったわけではなかったのです。

それでも、その衝撃は他のどんなことよりも凄まじく、そして大いなる希望として自分の中に定着したのです。

その後毎朝のように瞑想をしたり、絶えず意識的であることを訓練したりしていたのですが、自分の本質は自我ではないという知識に留まっていたのです。

それから数年後にたった一度だけ、その体験はやってきてくれました。どう説明しても曖昧な表現になってしまうのですが、ただ個人としての自分がいない体験をしたのです。

本当はその体験が起きただけであって、それを体験した自分などいないと分かっているのですが、自我は自分の体験にしてしまうのです。

その後はそうした明らかな体験はやって来なくなってしまったのですが、その代わりにその片鱗は絶えず感じるようになったのです。

ただし自我の騒音が大き過ぎて、自分の中の静寂がかき消されてしまうので、片鱗でしか味わえないのが残念。

まるでジェット機の爆音の中で、風鈴の音を聞き分けるような感じです。もう色々な野心がだいぶ消えていってくれたのですが、本質に戻りたいという野心だけは強く残っています。

その最後の野心が取れた時にこそ、本当の自分に戻ることができるのでしょうね。

認知症がマインドの仕組みを見せてくれる

母親には平日月〜土まで毎日デイサービスに行ってもらっているので、日曜日だけが唯一朝からのんびりと家にいられる日なのです。

その朝いつもより1時間くらい遅い時間に母親を起こしに行ったら、帰るの?と聞かれたのです。どうも家に帰るのか?と聞いてきたらしいのです。

どこかに出掛けていて知らない部屋にいるような気がしたのでしょうね。毎日過ごしている自分の家に違和感を感じたのでしょう。

寝起きは大抵変な状態になるのです。夢の内容がそのまま続いていることもあるし、過去に生きているようになるらしいのです。

実は私たちのマインドも同じようにして、潜在意識の中では過去に生きていた自分がそのままの状態で現在生きているのです。

これはたとえ話しなのではなく、本当のことです。そんな馬鹿なことがあるのかと思われるかも知れませんが、それがマインドの仕組みなのです。

私のマインドに対する理解をそのまま裏打ちしてくれているのが現在の母親なのです。認知症がその正しさを証明してくれているのです。

母親の寝起き時の不思議な言動のほとんどを理解してあげることができるのは、今の仕事を通してマインドを深く理解したおかげなのです。

だからセッションで内側を見せてくださったすべてのクライアントさんに感謝ですね。

在ることと成ること

ただ存在するということ、それにはどんな思考も関与する余地がありません。シンプル過ぎて思考を働かすことができないからです。

だからもしも思考が止まらなくて困るということであれば、この世界の存在に意識を向けておけばいいのです。

存在に対しては、判断も批判も裁きも何もできないのです。そのため思考で出来ている自我にとっては、存在は認識しづらいのです。

興味を持てないと言ってもいいかもしれません。一方、成ることに関しては自我は非常に興味津々なのです。

誰もが成ることに向けて、人生を走り抜けて死ぬのです。赤ちゃんとして生まれ、幼稚園児に成り、小学生、中学生に成り、大人に成って、社会人に成って、親に成って…という具合に延々と続くのです。

自我はずっとそこだけを注視しているのです。成ることは物事の表層でしかないのですが、思考はそこだけしか見えないのですから仕方ないですね。

もう十分に成ることを見てきたので、物事の本質である在ることにチューニングを合わせてみてはどうでしょうか?

そうすると、この世界はとてもシンプルだということに気づくはずです。ただ在るだけで十分なのだという感覚もやってくるはずです。

記憶を使わずにいる練習が役に立つ

認知症になった母親が時々、自分はどうしたらいいか分からない、と訴えてきます。本当に困っているのが伝わってきます。

通常はもっと具体的な心配事、例えば明日の朝食のことや何時に起きればいいのかなどを訴えてくるのですが、どうしたらいい?という訴えにはこちらも言葉に詰まってしまいます。

母の内面がどのような状態になっているのか察しがつくのですが、それをどう説明すればいいのかが分からないのです。

自分は誰で一体どこにいるのか、そうした最も根本的なことを忘れてしまった時に、そのような訴えがやってくるのですね。

このような状態というのは、意識的に作り出すことができるのですが、ただいきなりは難しいはずです。

日頃から練習をしておく必要があります。瞑想によって思考を止めるか、あるいは記憶を使わずにいる練習をすれば同じような状態になれるのです。

母親が心底困ってしまうのは、認知症になるまでこのような体験をしたことがなかったからなのだろうと思うのです。

高齢になる前から、記憶を使わずにいることで自分が何者でどこにいるのかが全く分からなくなる経験をしておくことです。

そうすれば将来自分が認知症になったとしても、困ることがないのではないかと踏んでいます。

邪魔がなくなるとき

久しぶりにosho の言葉↓を引用したくなりました。

『世間は素晴らしい学校だ。実験し、瞑想し、絶え間なくあなたを邪魔するものに触れていなさい。ある日何もあなたを邪魔しなくなるとき、それが素晴らしい祝福の日だ。』

人生が実験であるということは間違いのないことです。とにかく初めはやってみなければ結果は分からないのですから。

そして結果がどうあれ、結果を手に入れることができた時点で実験は成功裡に終わったことになるのです。

だから実験には失敗というものがないのです。つまり人生に失敗はないということ。あるとすると、結果から学ぶことをせずに何度も同じ実験を繰り返してしまうこと。

逆に言えば、結果から学ぶことができるなら、どんな実験であれ有意義だということです。生きている間にできるだけ多くの実験をする方が得ですね。

そしてあなたの人生には、それを邪魔をするものが必ず立ちはだかると言っているのです。それから逃げずに触れていなさいとも。

それがいつかは邪魔されなくなるとのこと。素晴らしい祝福の日が待っていてくれるのですね。それは私たちの受容力にかかっているのです。

受容するということは欲望が落ちるということであり、その結果はいかなるものもあなたの邪魔ができなくなるということです。

その時には、欲望と共に自我も落ちていくことになるのですね。

人生ドラマの途中で我に帰る

映画やドラマなどを観るとき、あるいはスポーツの試合を観戦するときなど、その中にのめり込んでしまえばそれだけ楽しめることを知っていますね。

夢中になってドラマの主人公と同化したり、お気に入りの選手に肩入れして無我夢中で応援したりして楽しむわけです。

要するに、「我を忘れて」没入するということ。その中に飛び込んで完全に自分のことを忘れてしまうのです。

観終わった時にようやく、ああ面白かったと自分自身に戻ることになるのです。それと同じことを、私たちはこの人生でやっているのではないかと。

とある誰かとしてその人の人生を生きるのですが、完全に我を忘れた状態のままでいるということです。

ただドラマを見たりスポーツ観戦と違うのは、人生では100%完全に我を忘れてしまうため、自分の力で自分を思い出すことができなくなってしまうのです。

場合によっては、一つの人生が終わりを遂げても我に戻ることをせずに、また次の人生へと続いていってしまうのです。

人類の歴史上ほんの一握りの人たちだけが、人生の途中で我に帰ることができたのです。それを覚醒と呼んだりするのですね。

認知症の予防にもなる

認知症が少しづつ進行しつつある母親が時々言うセリフがあるのですが、それは「私はこれからどうしたらいいのだろうか?」というもの。

明日どこへいけばいいのか分からない、何時に起きればいいのか分からない、そうしたことを不安に感じているのです。

1日の記憶のほとんどを失くしてしまうので、そうした不安を訴えてくるのも当然と言えば当然ですね。

その言葉をよくよく吟味すると、いつも未来のことを心配しているのが一つ、そして何をすればいいかを心配しているのがもう一つ。

この二つが特徴だと分かります。要するに、今自分はどうなのか?というところに意識が向くことがほとんどないということです。

今自分はお腹が空いているのかどうか、あるいは何処か身体の具合が悪いところはないのか?こういった現在の自分の状況を見ることをしないのです。

これは認知症だからということではなく、元々の自我の特徴でもあるのです。自我は過去と未来にばかりに目がいくのです。

今どうあるのか、の代わりに明日どうすべきか?を考え続けて、その結果案の定不安をせっせと製造し続けるのです。

現在認知症ではないとしても、こうした生き方を続けているなら、いずれは認知症になる傾向が高くなるのではないかと疑っています。

認知症予防の一つとしては、いつもこのブログでお伝えしているようなこと、常に意識的であるようにして、今ある自分を見守る練習をすることですね。

誰もが人造人間

自我がどのように造られていくのかを知ることは、自我のことを理解する上でとても大きな助けになるのです。

元々は何もないところから自我が造られるわけですから、そういう意味からして自分で自分を造るというわけではないと分かります。

つまり、自我は何らかの外的要因によって造られていくということです。その要因とは、周囲にいる親を代表とする自我のことです。

自我は他の自我によって、それとの関係性の中で造られていくのです。かつてオオカミに育てられた少年少女が発見されたことがありますが、彼らには自我がありませんでした。

それはオオカミには自我がないからです。自我は、自我によってしか造られることはないということです。

つまりあなたという存在は、肉体とDNAを親からもらい、その上で親の自我によって造り出された自我だということ。

あなたがこれが自分だと思っているものとは、何から何まで他人任せで造られたものに過ぎないということです。

あなたの努力がそれに加担したことなどないのです。自分はロボットではなく人間だと思っているかもしれませんが、実は人造人間そのものなのです。

誰もが人造人間でしかないということ。あなたという自我はそういうものです。そのことを深く理解できると、少し生きることが楽になっていくはずです。

自我は特別でありたいと常に願っているのですが、どう気負ったところで仕方がないと分かるからですね。

内側では野生でいる

小学生の頃に「道徳」という授業があったのを何となく覚えているのですが、その授業で何を学習したのかは皆目覚えていません。

要するに、その時の先生には申し訳ないのですが、本当にどうでもいいことを教えられていたのだろうと思います。

そしていまだに、道徳とか倫理といったものには興味を持つことができません。なぜなら、自然界にはそんなものはないからです。

確かに、人間だけが自我を持つことで社会というものを作り、その中で共同生活を営んでいるので、一定のルールは必要なのです。

だから必要最低限度のルール、道徳や倫理というものを守るのは当然のことです。小学生でも分かることですね。

けれども、ここからが本題なのですが、その道徳や倫理を自分自身の中に持ち込んでしまったら、生きづらい人生になってしまうのです。

道徳、倫理は社会の中で他人との関わりの中でのみ意味を持つのであって、自分との関わりにそれを使ってはいけません。

あなたの内側では、常に自然で自由であり続けることです。そしてそのことを意識的に継続することです。

社会ではルールを守る一方で、内側では常に野生であり続けること。そのバランス感覚が大切なのだろうなと思うのです。