「ノー」が自我の求心力

自我が健全に成長していくために絶対に必要なことは、「ノー」を言うことなのです。「ノー」が自分をひとまとまりにしておく求心力になるのです。

元々自我というのは、生育環境の寄せ集めによって出来ているのですが、ただかき集めただけのものは放置しておけばすぐにバラバラになってしまうのです。

それを避けるために、「ノー」を繰り返し、360度全方位に向けて放ち続ける必要があるということです。

それはちょうど日本の時代劇のチャンバラのシーンに似たようなものを見ることができます。大勢の敵に囲まれた数人の武士をイメージしてください。

その武士たちがバラバラに戦っていてはいずれはやられてしまいます。そこで彼らは仲間同士で背中をくっつけ合って、その周囲にいる敵たちと対峙するのです。

その光景が自我が「ノー」を放ち続けて、中心に固まる様子に似ているように思うのです。イメージできたでしょうか?

その逆に、自我の発達段階で思う存分に「ノー」を連発することを阻止されてしまったなら、他人との境界が曖昧なままになってしまうのです。

境界が曖昧なまま成長してしまった自我は、他人から侵略されやすいし、他人からの影響が大き過ぎてとても生きづらくなってしまうはずです。

そういった自覚が少しでもあるなら、日頃から「ノー」を言う訓練をするとともに、「ノー」が言えなかった過去と向き合って癒しを進めていくことがとても大切だと思いますね。

海底の片割れを救い出す

子供の時であろうと大人になってからであろうと、生きていれば必ず惨めな体験というのはやってくるものです。

自我にこれを避ける方法はありません。ただし自我のやり方としては、そのような惨めで情けなくて都合の悪い自分を分離してしまうという荒技に出るのです。

そして、都合のいいピカピカな自分はその後も惨めじゃないということを証明するかのような人生を生きるわけです。

その一方で、惨めで都合の悪い弱々しい自分をコンクリート詰して海底深くに沈ませて、いないことにしてしまうのです。

そうなると、その後の人生というのはコンクリート詰したもう一人の自分の影を払拭しようとして、走り続けることになります。

脇目を振らずに難関突破を目指してみたり、自分で自分に都合のいいことを言い聞かせしたりして、海底の様子を忘れるのです。

ところがどれほどあの惨めな子から離れたと思っても、実は背中のすぐ近くにいて本人の人生を操ってくるのです。

理不尽な目にばかり遭って見たり、何を手に入れたとしてもすぐに満たされない状態に逆戻りすることになったりするのです。

そんなことを繰り返して、ようやく自分の片割れに意識を向けなければもうどうにもならないということに気づくのです。

コンクリート詰になった片割れを救い出して、陽の光を浴びせてあげることができたら、すっかり忘れていたあの無邪気な心地よさが戻ってくるはずですね。

物語から目覚める

いついかなる時でも、意識を自分に向けていることがどれだけ大切で本質的なことかを忘れずにいる必要があります。

もしもそのことを忘れて、外側で起きていることばかりに注意が向いてしまうなら、あっという間に物語の中へと放り込まれることになるのです。

そうなると私たちは無意識状態へと転落して、夢の中にいるのとそう変わらないような時間を過ごすことになってしまいます。

夢の中では、やらなければならないことがあったり、困った状態からどう抜け出そうかと考えていたり、とにかく物語に翻弄され続けるのです。

ところが不意に夢から醒めると、自分を取り戻すことになって、夢の物語から離れることができるのです。

これと似たようなことを毎日の中でも実践することです。注意が外へと向くことで早速人生物語の中へと入っていきます。

物語の中(思考)でグルグル無駄な時間を繰り返したとしても、ある時ふと自分を思い出して意識を内側へと向けること、つまり目を覚ますことができればいいのです。

そうやって現実という物語から抜けて、夢から覚めた時のような開放感と安心感を得ることができるようになるのです。

これをライフワークにしてしまうことです。この繰り返しは、少しずつではあっても人生物語との距離を大きくしていってくれます。

最終的には、人生物語で何が起きたか何をしたかではなくて、どれだけ物語という3次元で起きていることから解放されたかだけが本質となるのですね。

osho の言葉は好きだけど…

1日のどこかで、osho の言葉に触れるようにしていると、その瞬間ああ何て気持ちいいんだろうと思うのです。

そうだった、そうだったと我に帰るのですが、早い時にはその数十秒後には自我に占領されてしまって、osho の言葉を忘れるのです。

その時の言いっぷりは、だってoshoの言うように生きたとしたら、ここまで生きて来れなかったと思うよ。自分のやり方でなんとかここまで生きてきた。

つまり、自分には実績があると叫んでいるのがいるのです。ただ残念なのは、生きては来れたけれど、その結果はあまり喜べないようなもの。

自分は損しないためにはどうすればいいか?あるいは、人生の落伍者と言われないためにはどのように振る舞ったらいいのか?

こうしたことが頭をもたげてくるのです。私の内面は、いつもosho 側に立っている部分と、自我そのものの部分とに分かれています。

両者のせめぎ合いといっても、もっと正確に言えば自我側が勝手に戦いを挑んでいるだけで、自分の本質と戦うなんてできないのは分かっているのですけどね。

そんなこんなで自我が観念するまでには、もう少し時間がかかるようです。それはそれで面白いので、ことの顛末を見守っていこうと思う今日この頃です。

時空は幻想

いつものように次の osho の言葉にハートを委ねてみましょう。

生はひとつの川だ
ひとつの流れ、連続体だ
始まりも終わりもない
それはどこへ向かっているのでもない
それはつねにここにある
それはどこかからほかのどこかへ向かっているのではない
それはつねにここからここへと動いている
生にとって唯一の時はいまであり
唯一の場所はここなのだ

厳密な言葉の意味を捉えるというよりも、そのフレーバーを飲み込むようにするだけでもいいと思います。

じっくり深く感じてみれば少しずつ見えてくるものがあります。私の自我がこれに対して反応をしているのが分かります。

始まりも終わりもないのは気持ち悪い。時間的にも空間的にも広がりがないのも息が詰まる感じがすると。

確かに自我は動き回る時間的空間的スペースが必要なのですね。なぜなら、自我自体が思考で作られているからです。

思考を落とせば、時間の流れなどないし、空間の広がりもないということです。「今」というのは時間ではないし、「ここ」というのも場所ではないということ。

思考がなくなれば、あらゆる概念、観念や意味の全てが一瞬で消滅してしまいます。それは何とも清々しい感じがして、春の到来を感じるあの軽やかさとも近い気がしますね。

宗教団体をなくしたい

幸福の科学の創始者である大川隆法氏が亡くなったという記事を目にしました。その情報によると、資産2000億円だとか。

まだ大学生だった頃に吉祥寺でバスを待っていたら、この本を読んで下さい、差し上げます!という人がやってきて、本を手渡されたのです。それ、彼が書いた本だったんですね。

きっと信者の人がノルマかなんかで沢山自腹で購入しては、巷で配って歩いていたのでしょうね。それだけでちょっと恐ろしいと思ってしまいます。

だから彼が出版する本はいつもベストセラーのように言われていたのも頷けます。その頃、宗教の教義にはどんなことが書いてあるのだろうと興味があったので、読んでみたのです。

感想を一言で言うと、お前何様なんだ!という感じ。自分は特別な存在だと信じ込んでいるのが伝わってきて、とても気持ちが悪かったのを覚えています。

信者になってしまうと、あの本の内容も有難いことが書いてあるというふうに感じるようになるのだろうなと。

宗教か慈善か知らないですが、他人の人生に干渉して助けられると思っている、フリをしているのかなと。

自分のことも救えないのになあと。創始者の死を機会に、宗教団体ごと解体してくれたらとても嬉しいのですが。

これまでにたくさんのクライアントさんが、そういった宗教にハマって酷い目に遭ってきたのを知っているので。

覚醒したらどうなるの?

覚醒したらどうなるのでしょうか?という質問をされることが時々あります。ズバリ答えて差し上げたいのですが、自我として生きている私にも分からないのです。

自我が数時間いなくなった状態になった経験はありますが、定常的にそうなったわけではないので、やはり分からないというのが本音です。

ただこんなことになるんじゃないの?程度なら言えるかも知れません。一つはっきりしていることは、覚醒しても周囲の人から見たら表面的には何も変わらないはずです。

自分がいなくなってもごく普通に他人と会話もできるし、仕事だってできるのです。クルマの運転もできるし、何も変わらない。

自分のことを「私」と表現はし続けるだろうけれど、それはあくまでも便宜上そのように言うだけです。またその人?にとっては、人生がなくなるでしょうね。

なぜなら、人生というのは自我のものだからです。自我が消えてしまえば、人生の主人公が不在になるので、人生そのものはもうなくなるのです。

勿論周囲の人からは生き続けてると見られるのですが。それとマインドが消えてしまうということでもないはずです。

ただし覚醒するまでマインドに支配されていたものが、覚醒後はマインドをツールとして使う側になるはずです。

また覚醒とともに失ってしまうものがあるのですが、それは欲望や嫉妬、惨めさや罪悪感など、その他多数ですね。

行為と行動の違い

osho は行為と行動の違いをはっきり理解することが大切だと言っています。ぼんやり生活していると、その違いに気づかないままになってしまいます。

行動というのは、その全てが過去か未来からやってくるのです。それに対して行為はその瞬間からやってくるのです。

例えば、お腹が空いたから食事をするというのは行為です。一方、お腹が空いてなくても食事をしたり、空腹でも食事をしないのは行動です。

仕事が忙しくて夕食を摂らずに遅くまで残業したり、遅く帰宅してから食事をするなどは行動と言えますね。サラリーマンの頃は毎日がそんな感じでした。

1日の疲労感から眠くなった時に寝るのは行為ですが、眠気に逆らって遅くまで本を読んだりドラマを観たりするのは行動ですね。

あるいは職場で嫌なことがあり、それを引きずったまま帰宅してしまい、そのことを思い出して気分が悪くなるなら、それは行動です。

さらに明日のことを考えて憂鬱になるのも行動だし、明日のことなど気にすることなくシャワーを浴びて気持ちいいと感じているなら行為です。

もう分かったと思いますが、マインドが絡んでいることは全部行動と言ってもいいくらいです。だから過去と未来からやってくるわけです。

行為はノーマインドの状態で自然発生的に起きること。シンプルな人生を生きていればそれだけ行動が減り、行為が多くなるということですね。

知識と真理は次元が違う

幼い頃というのは誰であれ知らないことだらけでした。ただ知らないということに不安を感じることもありませんでした。

少し成長してくると、知らないということが実は不安を感じさせることに繋がることに気づくようになるのです。

過去の自分より、あるいは他人よりも知っているということで、安心を得ることができるのです。だから自我は知識が大好きなのです。

よく言えば知識欲とも言えますが、その本質は安心したいという防衛からやってくるものの方が大きいのではないかと思っています。

例えば、明日ある人と会って話しをする必要があるというときに、馴染みの人と会うのと初対面の人と会うのとでは、前者の方が安心なはずです。

それは相手のことを知っているからです。初対面の相手のことは知らないので、予想することが難しい分だけ不安になるわけです。

この知っているということが安心要素であり、あるいは有利に働くということから私たちにとっては知識が非常に大切なものと感じるのです。

けれども、その一方では本当に大切なもの、真理について知っていると思ったとしたらとても危うい状態になっていると理解しなければなりません。

なぜなら真理は自我にとっては決して理解することのできないものだからです。自我が消えた瞬間に真理が見えてくるとも言えるくらいだからです。

真理に目覚めるかどうかは別としても、知識を重宝し過ぎる生き方を一度見直して、不安があってもそのままでいるような生き方を試してみるといいかなと思いますね。

自我に不満はつきもの

本来の私たちが生きるためには不満は必ずしも必要ないし、そんなものはない方がいいとさえ思っているものです。

けれども、私たちの自我にとっては不満が生きる支えになっているのです。不満、つまり満足していない、不服だという状態ですね。

なぜなら不満があればそこと闘うことができるし、その闘いのエネルギーが自我を活性化させ続けてくれるからです。

ところが、幼い頃に、つまり自我が立ち上がった頃に不満がなかったと言う人がいるのですが、それは不可能なことだと知ることです。

もしも子供の頃に親兄弟に対して不満がなかったとしたら、それは単にその不満を抑圧していただけだと理解することです。

人間誰もが天使のような理想的な存在ではなく、逆に自我として生きているわけなので、不満は絶対的に必要なのです。

不満を抑圧してしまった具体的な理由は個人個人で違うかも知れませんが、いずれにしても自分の不満とは向き合ってこなかったということです。

大人になって子供の頃の不満をしっかり思い出して、そこにリンクされているあらゆる感情を味わうことができれば、今起きている問題は自然と解消されていくはずですね。