受容と感謝で満たされる

老人ホームにショートステイして二日目の母親のところに行ってきました。一人用の冷蔵庫を持って行ったり、どんな感じで過ごしているのか気になったので。

私の顔を見るなり、ほんの少し涙を溜めた表情で、私は何を待っているのだろうか?というのです。なぜ自分がここにこうしているのかが全く分からないのでしょうね。

これまで毎日通っていたデイサービスとは違い、次から次へとあれをやってこれをやってとは言われないので、やることがなくじっとしていたのです。

自分の部屋に連れて帰っても、もう家に帰れないのなら死んだ方がマシのようなことを言うのです。

色々説明したところ、家に帰ったところで同じだと分かったようで、要するに今の自分の境遇を受け入れられずにいるのです。

認知症のために過去の自分として生きているような感じがするのですが、現状はこうだと言われてそんなことなら死んだ方がマシというのです。

様々な角度から言葉を紡ぎ、試行錯誤をしているうちに、今度は自分は恵まれているということを言うようになったのです。

お金にも衣食住にも困っていないし、身体は健康だし感謝しなければいけないという方向へと変化していったのです。

そうなると、途端に気持ちが穏やかになっていくのです。受容すると言うことは、どれほど大切なことなのかを身をもって見せてくれたのですね。

セッションの内容が役に立つ

あっという間にことが進んで、今日母親を老人ホームへと送ってきました。まだ入居の契約はしていないので、ショートステイといういわゆるお試し期間です。

ここで双方ともに問題がないようであれば、来週末くらいには本入居へと進んでいく予定です。というわけで、久しぶりにこのブログを自分の部屋で書いています。

ちょっと感慨深いものがありますね。昨日までは、ブログを書くかたわらに監視カメラの映像があって、リアルタイムで母親の動向を見ていました。

久しぶりにゆっくりと眠れそうですが、面白いことに幼い我が子を旅に出したような感覚というのか、柄にもなく心配しているのです。

いきなり知らない部屋で、穏やかに眠れるのだろうか?とか、夜間目覚めて転倒しないだろうか等々、子供のことを心配する母親の気持ちが少し分りました。

所詮はなるようにしかならないということを知っているので、すぐに心配は吹っ飛んで行ってしまいましたが。

あるいは、これで本当によかったのだろうか?もっともっと自宅でできる介護の方法があったのではないだろうか?という軽い罪悪感のようなもの。

これもそういうのが来るのは想定内なので、無理やりその罪悪感をどこかへやってしまおうとせずに、それをそのままにしてあります。

こうしたことが全て日々のクライアントさんとのセッションで気付かされた方法なのです。本当に役に立ちますね。

どれほど言葉を駆使したところで…

osho は言います。『私の言葉はたんなる容器にすぎない。それらは容れ物だ。中身はまったく違う。中身は正反対だ。容れ物は言葉だが、中身は言葉のない沈黙だ。

それは私の愛だ。言葉はただのカプセルにすぎない。カプセルは薬ではない。薬はそのなかにある。カプセルのことは忘れなさい、私を飲みなさい–。』

確かにそうですね。もしも月が真実ならば、思考はその月を指し示す指のようなものなので、どれほどその指ー言葉を吟味したところで真実は知れないのです。

ただし、真実を目の前にしてまるで幼い子供のような私たちは、苦い薬をそのまま飲むことを嫌うのです。

だからカプセルが必要となるのです。カプセルによって、薬の苦さを味わうことなく薬を服用できるのですから。

言葉(思考)というのは、そういった役目を果たすこともできるのです。私のこの拙いブログも言葉だけでできています。

だからどれほど言葉を駆使したところで、真実からはほど遠いのです。私自身も真実から程遠い自我として生きています。

それでも諦めずに、やっぱり今日も言葉を駆使してブログを書き続けるのは、きっとそういう人生なのですね。

勇気を伴う優しさ

若い女性などにどんな人が理想の結婚相手ですか?と聞くと、大勢の人が先ず口にするのが優しい人ということです。

それは確かに優しい人がいいのは当然です。すぐに怒る人や冷たい人、あるいは厳しい人をわざわざ選ぶ人はいないはずです。

ただし、一口に優しい人と言ってもその中身は様々ではないかと思うのです。例えば、よく気がつくという意味での優しさもあるでしょう。

あるいは、席を譲ってくれるとか、物腰がいかにも優しい雰囲気であるとか、相手の気持ちを分ろうとするなども大切な優しさです。

けれども、いま挙げたような優しさというのは通常はあまり勇気がいるという類のものではないですね。

その一方で、自分を守ろうとせず勇気を持って相手のために立ち向かうことが、真の優しさなのではないかと思うのです。

それは具体的にはどういうことかというと、自分がこれまで築き上げてきたもの、信念など譲れないものを勇気を持って相手のために後回しにできる。

あるいは、これまで隠してきた最も都合の悪い過去の自分やその感情を、勇気を持って見ることによって、相手との関係性を改善しようとすること。

こうしたことは、自分を安全圏に置いておいて優しい言動をすることとは一線を画すことになります。

誰もが自分を最優先で守りたいのですから、自我が強大であればできないことです。それに負けない勇気を持つことこそが、本当の優しさに繋がることになるのですね。

他人の一言で目が覚める

認知症の母親が時々、夜間自宅で転倒するようになってきました。監視カメラで見ていて気づく時には助けに行けますが、就寝後はその限りではないのです。

そのため、まだまだと思っていたのですがどうも一刻の猶予もできない状態になってきたことを認めなければと思うようになりました。

このままだと、転んで骨折したり頭を打ったりしてとても危険なことになりそうです。ただ半年前に申し込んでおいた特別養護老人ホーム(比較的安価)は、空きがない。

さあどうしたらいいだろうと考えていた時に、ある認知症専門医の方の言葉でスッと目を覚ますことができました。

というのも、高額な有料老人ホームに入居して親の財産を使ってしまうのは勿体無いという、浅はかな考えに囚われていたのです。

自分が管理しているからといって、親のお金は親が気持ちよく余生を過ごすのに使うのが一番いいというのは当たり前のことです。

人間欲に目がくらむと、ごく普通に物事を考えることもできなくなるのですね。目が覚めてみてびっくりです。

ということで自宅での介護生活はそろそろ終わりを迎えそうです。来年からは、自分の部屋で過ごすことができそうです。

それにしても認知症の母親には本当に多くのことを教えてもらえたし、いい人生だったよねと改めて二人で話し合うこともできたので、ありたがいことですね。

自分の癒しが相手を変える

久しぶりに人間関係のことについて書いてみようと思います。かつてはそういった内容のことを真面目に書いていたのですが、最近はちょっとご無沙汰していましたね。

私たち人間は社会的な存在です。人数の大小があっても、多くの場合数名以上の他人に囲まれて生きています。

だから他人との関係性というのはとても重要になってくるわけです。幼稚園や保育園を皮切りに、様々な学校や会社などで団体生活の中に入ることになるのです。

その時になんの支障もなく、スムーズな人間関係を築けるならそれに越したことはありませんね。けれども、どうもうまくいかないということも起きてくるのです。

その時に、問題が自分にあるのだと考える場合もあれば、相手に問題があると考える場合もあるはずです。

どちらにしても、そう簡単に問題が解決することはありません。ただ自分になんらかの問題があるとする場合の方が、望みがあるのです。

なぜなら、他人の問題を改善するというのは他人任せになってしまうからです。そしてここからが本題なのですが、どんな場合であれ問題はこちら側にあるという見方ができるかどうか。

常識的に見れば、どう考えたって相手の問題だと言えるとしても、そのような相手と関係している時点で、もうそれは自分の人生の一部なわけです。

ということは、自分の身に起きることは自分が起こしているという原点に立ち返って、深く自分を見つめてみるいい機会だと捉える必要があるのです。

そして癒しなどを通して自分の生き方や考え方が変化すると、不思議なことに相手の言動さえも変化する可能性が高いのです。

自分を癒していく途中で、仮に相手との関係が壊れたとしても、それはその方が良かったということです。

私たちは他人との関係の中で多くのことに気付かされるのです。それが何よりも大切なことですし、その上で関係性を深めていけたらなお素晴らしいことですね。

無知であることに気づく

この世に悪などというものはありません。もちろん罪もないのですが、罪悪感はあります。自ら作り出してしまうだけですが。

悪がないばかりか、善もありません。あるのはどちらでもないという中間の状態だけです。もしも百歩譲って悪があるとしたら、それは無知のことです。

無知とは、真実を知らなすぎて勝手に夢のような世界で大騒ぎしていることです。ひどく苦しんでみたり、不安になったり、野心に満ちたり。

知らないというのは本当に恐ろしいことです。生をバカバカしいことの連続にしてしまうのは、真実に対する決定的な無知のせいなのです。

自我というのは、私たちのその無知を利用して生きるのです。無知であるがために、死を恐れ苦しみを恐れて防衛三昧になるのです。

それが思考を次から次へと働かせて、より一層の無知の中へと迷い込ませるのです。それが自我が生き延びるやり方なのです。

こうしたことは、親も学校でも誰も教えてくれません。無知が無知を育て続けるのですから、いつまで経っても地球上に無知が蔓延ったままなのです。

もうそろそろ、無知であることをしっかり見抜き、無知の中で生きるのをやめるためにどうしたらいいかを真剣に検討する必要があると思います。

やんわりと防衛を小さくしてゆき、少しの勇気をもって意識的になるように練習することです。結果は10年後、20年後に出るでしょうね。

思考を見守る側に戻る

意識をしっかり目覚めさせておくこと、つまりは意識的であることを継続することができれば、過去へ行ったり未来へ行ったりが少なくなるのです。

なぜなら、意識的であることによって思考過多の状態から脱出することができるからです。思考は常に過去と未来を行ったり来たり。

逆に言えば思考は今この瞬間にいることができないのです。思考は時間的な広がりというか空間が必要なのですね。

たった今という瞬間には思考が機能するスペースがないのです。だからこそ十分に意識的であることは、改めて瞑想をする必要すらありません。

思考を頼りに生きている自我は、思考が使えない今この瞬間にはいることができないのです。だから私たちは普段過去を思い出したり、未来のことを考えたりするわけです。

そうして思考が活躍する状態を維持させようとしているのです。実は、時間あるいは時間的広がりということ自体、思考による作り物なのです。

そう考えると、思考というのは本当にうまくできているものだなと感心してしまいます。思考がどれほど巧みであれ、私たちの本質は思考とはなんの関係もありません。

そのことを忘れずにいれば、いつかは思考を見守る側としての意識こそが自己の本質だということに気づくことになるのでしょうね。

癒せばハラスメントは起きない

いつの頃からだったのか、セクハラとかパワハラと言った言葉があちこちで叫ばれるようになって久しいですね。

私自身は実際の体験をした記憶がないので、そういったハラスメントに遭った人の気持ちは、想像するしかないのです。

特に自分は男性だからか、セクハラもパワハラも自分が加害者側になる可能性があるので、気をつけなければならないと思っています。

被害者側になるのは、立場上弱みを握られている場合が多いのではないかと思います。例えば、上司と部下、先生と生徒、親と子等々。

本来誰と誰でも対等であるはずなのですが、社会や家庭においては立場上の上下というのがどうしてもあるのです。

部下の立場では、上司に逆らいにくいし、生徒は先生に従うのが社会の一般的ルールと思われています。

子供だって親の機嫌を損ねたら大変なことになると思えば、自由な自己表現を抑えてしまうようになるのです。

立場の違いを考慮せずに、立場の有利な側が無遠慮な言動をすれば、知らぬ間にハラスメントをしている可能性があるということです。

だからと言って被害者側に勇気を持って立ち向かえと言ったところで、それは現実的ではありません。要するに加害者側の配慮が絶対的に必要だということですね。

加害者側に悪気がないのであれば、本人の癒しを進めることで問題は起きなくなっていくはずです。 

生きることは手段ではない

人生には成功も失敗もありません。なぜなら、人生は何かの目標を達成するための手段ではないからです。

成功と失敗が起きるためには、とにかく何らかの目標が必要なのです。その目標に向かって少しでも近づくことが成功で、遠ざかれば失敗なのです。

だからもしもあなたが未来のどこかに目標を作り出してしまうと、その目標を達成するための手段として人生を使うことになるわけです。

シンプルに表現すれば、人生は手段ではなくそれ自体が目標だということです。生まれて生きて死ぬ、それだけです。

それで完結しているのです。ところが自我はそれでは気が済まないのです。生きることとは別の目標を設定したがるのです。

それを達成するために頑張るのですが、結局どんな目標を達成してもしなくても最後は死ぬことで決着するのです。

生きること自体が目標であるということが腑に落ちるようになったなら、穏やかで喜びに満ちた毎日を過ごすこともできるはず。

なぜなら、失敗を恐れて悩んだり焦ったりする必要がないからです。誰のどんな人生であれ、もうすでに共通の目標は達成した状態なのですから。