体験が消えていく日が来るか?

今年に入ってから、もうほとんど非二元の探究からは遠ざかってしまいました。本を読むこともないし、ワークをすることもない。

ただし、時々は非二元に触れるようにはしているのです。なぜなら、気がつくとすぐに物語の中へと埋没してしまいそうになるからです。

物語というのは、別の表現を使えば「思考体験」と呼べるかなと。それの最たるものが、映画やドラマですね。

疑似体験ではあるものの、さまざまな体験が起きるので、それを楽しんだり感動したりできるのが魅力です。

そしてそうした思考体験が起きた後に、リアルな直接体験のレベルに戻るようにするのです。これをやらないと、物語に流されてしまいます。

こうなってくると、どちらがいいとか悪いというものでもないということに気づきます。なぜなら、どんな体験であれ体験であることに違いはないからです。

体験が全てなのです。どんな体験をするかではなく、体験がただ起きているのみ。そしてその背後には、気づきがありますね。

気づいていることに気づいている、この瞬間物語から抜けていずれはあらゆる体験も消えていくのかもしれません。

今この瞬間に完全に関わる

人は誰でも自分はなぜ生まれたんだろう?とか、自分の人生の目的とは一体なんだろう?といった疑問を持っているはずですね。

明確な自覚を持っているかどうかは人によるとは思いますが、誰だって心のどこかにそうした疑問があるはずです。

それは個人として生きていると思い込んでいる自我の特徴なのです。自分や自分の人生に価値を見出したい。

あるいは、そこに大切な意味があると思いたいのです。だから、目標を持つことで、人生に方向性を持たせて心の安定を目指すのです。

日々の生活が辛く苦しい時でも、そうした目的、目標があればそれを実現するためだと思って乗り越えることもできるのです。

けれども、生まれてきた理由など最初からないし、人生に意味や価値を見出す必要すらないと聞くと、保っていた自分という存在がバラバラになって消えてしまいそうな気がします。

でも安心してください。バラバラになっても大丈夫。なぜなら、最初から誰もいないからです。自我は存在しません。

それは単なる思考による機能なのです。集中することで焦点ができて、そこに私という感覚が生まれるだけ。

ここがより明確になることで、未来志向だった生き方が変化して、今この瞬間に完全に関わって生きることができるようになるのです。

それはそれほど難しいことではないのです。大好きな音楽を聴いている時、楽しい会話に没頭して時間を忘れている時。

あるいは、山道をドライブしていてコーナーを果敢に攻めている時など、完全に未来のことが消えています。

その時、「私」という存在はどこにもいないことに誰でも気づけるはずですね。

老いを楽しむ余裕

高齢者の領域に入ってくると、自分ではまだまだ若いつもりでもそれなりの兆候というのが色々現れてくるものですね。

例えば、筋肉痛。中高年あたりから、運動した翌々日あたりから遅れてやってくるようになって、やれやれと思っていたのです。

ところが、最近では運動した数時間後には立派なやつがやってきてびっくりするのです。やり過ぎだぞって言われる感じがして…。

あるいは、新しい環境への順応力が極端に落ちてくるのです。日々ほとんど変わり映えのしない毎日を送っているせいなのか。

新しい車の運転、知らない道、新しい衣服、新しい家のシステム。こう言ったものに慣れるのに、ひどく時間がかかってしまうのです。

そしてもっと困るのが、視野が狭くなってくること。知らないものを目にしたときに、必要なところを探すのに時間がかかるのです。

ただこうした老いの様相を苦しみとして見るのか、それとも面白がることができるのかで、かなり気分が変わるようです。

若い頃の記憶というのも、今この瞬間のものでしかないことに気づけば、ただコレがあるだけであることを思い出すことができますね。

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個人という中心が薄れていく

ずっと自我から解放されて覚醒したいと願っていたのですが、そのくせ自我という自分がいなくなるというのは、一体どういう感覚なのだろう?と思っていたのです。

自分がいなくなるというのを想像できなかったわけですね。でも最近それが少し分かるようになってきたかもしれません。

自我という個人の自分はいなくなっても、誰でもない自分がいなくなるわけではないのだと。この誰でもない自分とは何か?

きっと純粋な意識のことなのではないかと。気づいているこの感覚のことですね。コレがなくなることはないと誰でも直感的に分かるはずです。

それでも個人としての自分、つまり皮膚の内側に凝縮している自分、中心があるという感覚が薄れてしまうのです。

単にそれだけなのではないかと思うようになりました。だから、自我が薄れても毎日をこれまで通り普通に過ごしていけるのです。

覚醒するというのは何かの体験が起きることではないということです。ただ個人という中心が見つからなくなること。

都合の悪いことや問題が起きなくなるということでもありません。ただ、どこかで今この瞬間にはどんな問題もないことに気づいているといった感覚ですね。

ただ体験が起きるという気づき

非二元の探究の最中に、時間も空間も物質もその実体はないということが明確になった時に、そんなことはどうやったってイメージできないとなったのです。

つまり、私たちは自分が経験してきたこと、あるいは経験はなくてもそれなりにイメージできることだけを相手に生きているのです。

だからイメージできないものというのは、まったく論外になってしまって、相手にする必要もないとなるのです。

ところが、探究の結果というのは人情のあるなしどころか、いたって非情なものであって、どれほど抗ったところでどうしようもないと気づかされてしまうのです。

どんなに自分の理性や理屈がそんなわけないと文句を言い出したところで、全てがスルーされてしまうのです。それはもう小気味いいほどに。

で諦めるわけです。人間の好き嫌いとか理性とか、そう言ったものをはるかに超越していることに気づくのですから、逆に素直にもなってしまいます。

じゃあこの人生というのは一体何なのか?これにどんな意味があるというのか?こうした疑問が結果として消えていくだけなのです。

コレは解決すべき問題などではなくて、ただ体験として起きている(ように見える)だけだということに気づくのみなのですね。

愛車を送り出す

昨年の年末あたりから急に思い立って、クルマを変えることになりました。これまで毎日乗っていたクルマと入替になるわけです。

大抵そういう時期になると、乗っているクルマの調子が微妙になってくるのですが、今回だけはびくともしないようです。

不思議なもので、クルマの中で運転しながら新しいクルマのことを話題に出すだけで、今のクルマに何かの異変が起こるのです。

もう何度となくそういう経験をしているので、今回もどうなるのかなと思って様子を見ていたのですが、今回に限ってまったく変化なし。

それと、これも初めての経験なのですが、自分の気持ちの中で初めて今のクルマを手放すことへの郷愁のような感覚があるのです。

だったら手離さずに2台持ちにすればいいじゃないとも思ったのですが、結構ギリギリまで迷ったのですが、やはり入れ替えることにしたのです。

それにしても、今のクルマは本当に悪いところがまったくなく、完璧に近い状態でよその人のところへ旅立っていくことになるのです。

柄にもなく、なんだか神妙な気持ちで送り出してあげることになりそうです。7年を超えるお付き合い、お疲れ様でした。そしてありがとう!

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自分の中心が薄れていく

自分はいないんだ、自我というのは架空の存在なんだ、という情報に触れてからどれくらい経ったのだろうと思うことがあります。

最初にそれを知ったのがいつだったかは覚えていないのですが、ただそのことがとても新鮮でしかも気持ちいいものだったことは明確に覚えています。

この悩ましい自分が本当はいないんだということが、どれほどの救いになったことか。本当に気持ちが軽くなったのです。

ところがそこからが長かった。というのも、そういう情報を聞いたところで、毎日の生活が変わるわけではなかったからです。

瞑想をしようが、osho の講話本を読もうが、特別な大きな変化はやってこなかったのです。それでも瞑想は日々断続的にやっていたのです。

そんな折に、ふとしたきっかけでこの世界には実体というものがないことに気づいて、そこから非二元の探究が始まったのです。

それからは、時空も物質も存在しないことにも気づいてしまい、どれほど頑張ったところで自我などというものの居場所がなくなったのです。

そしてゆっくりと、少しずつではあるのですが、無理なく自然と自我という自分の中心が薄れてきたのです。

自我はいなくならなくてもいいと分かったし、そこに拘る必要がなくなっていったのですね。そんなわけでみなさん、気楽に行きましょうや!

生が自分を引っ張ってきてくれた

早いもので、今年に入ってもう1ヶ月が過ぎ去ってしまいました。一体自分は何をしたんだろうと思ってもまったく思い出せないのです。

どう考えても、自分がこの人生をリードしているという感覚がなくて、逆にこの人生が自分を引っ張ってきてくれてるんだなと。

ああそう思うと何だかありがたい。自分は何もせずとも、さまざまな体験を次から次へと送り出してくれるのですから。

そうやってようやく人生の舵取りの立場から退いて、お客さんのように生きることができるわけですね。

でも実はずっと最初の頃から自分はリーダーではなくて、もてなしを受ける立場でしかなかったということの気づき。

これが分かると、これといった特別な理由などなしに、生に対する感謝の気持ちというのが湧いてきます。

そしてもう少し行くと、そんな自分すらいなかったんだなと。あるのは、現象としての生だけだったんだという気づき。

死ぬまでに気づけて良かったような、どうでもいいような。

非二元の話は理屈に合わない

非二元の話をしていると、自分で自分に突っ込みを入れたくなることが何度もやってきますが、全部スルーすることにしています。

というのも、それを一つひとつ見ていってもどこにも到達しないからですね。そして探究も止まってしまいます。

実際、探究が止まることは悪いことではないのですが、探究者の立場からしたらちょっと具合が悪いのです。

そういうことにならないようにと、どれだけ言葉を選んだところで所詮は言葉は二元の世界のものなので、どうにもならない。

じゃあ何で非二元のことを伝え続けているのかというと、本当のところ、これにはどんな理由もないのです。

どんなことであれ、それが起きるのにはそれなりの理由があると思ってしまうのは、二元の世界に生きているからです。

本当はどんな因果もないので、そこには一切の物語性が存在しません。だからこそ、そこに「なぜ?」はないのです。

今この瞬間に起きていると思われることの全ても、それがただ起きているだけで、そこには理屈は存在しないのですね。

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手に入れたものと失ったもの

小学生の頃にビートルズの曲を初めて聴いた時に、自分の中で衝撃が起こって何かが弾けたような感じがしたものです。

特に、メンバーの一人であるポール・マッカートニーが大好きになって、彼が作る曲を聴いて天才だなと憧れていました。

こういう人は欲しいものは全て手に入る人生なんだなと。お金、名声、友人、才能。彼は、自分が欲しいと願うものをその最大級のレベルで手に入れたんだと。

ところが今になって、彼の人生を遠くから客観的に眺めたときに、どれほどの苦しみがあったのかを少し知ることになりました。

14歳の時に最愛の母親を病気で亡くし、超有能なマネージャを亡くし、ビートルズから脱退することでビートルズ自体も無くしたのです。

その後、最高の友人であるジョン・レノンを亡くし、最愛の妻を母親と同じ病気で亡くし、弟分のようなジョージ・ハリソンも亡くしたのです。

不思議なもので、手に入れたものと失ったもののバランスが取れているのかなと思ったりもするのです。

こう言った考えは二元的なものでしかないのですが、それにしてもなんとなくそんな法則がどこかで働いているように感じてしまいますね。