何も持って行けない

2ヶ月くらい前からだったと思うのですが、2階の自分の部屋から、かつて父親の部屋だった1階の部屋に引っ越ししたのです。

老齢の母親が夜の間転んだりしないかどうか心配で、夕飯を済ませてからはずっとその部屋で過ごすようになったのです。

いつもソファに腰掛ける生活に慣れていたので、突然ベッドとテーブルと座椅子しかない畳の部屋に移って、バリバリ違和感だらけ。

自分の私物もないので、これは不便な生活になってしまうかもと当初は後悔したのですが、それがそうでもなかったのです。

ベッドは自分の部屋のソファベッドよりも快適だし、考えてみたら夜眠るまでの4〜5時間の間、タブレットとスマホがあれば事足りることに気づいたのです。

要するに夜何もしていないということですね。あれ、じゃあ昼間は何かしているのかというと、スポーツクラブに午前中行くだけ。

セッションの予約が入ってなければ、それこそ本当に何もしないのです。自分の毎日って、何もしない時間だらけだなと。

かつては何か生産的な時間を過ごしていないと、落ち着かないような感覚があったものですが、もうそんなものはすっかり姿を消しました。

どれほどの成果物を残したとしても、あちらに旅立つ時には手の中は空っぽなのです。何も持っていくことなどできないのですね。

今のうちにそのことに気づけてよかったと思っています。

幸せ恐怖症

自我というのは比較のプロなのです。何でもかんでもすぐに比較する傾向が強いのです。大抵は自分と近くにいる誰かを比較するのですが。

比較して良いことは一つもないと薄々分かっているはずなのに、どうしてもやめられないのです。自我の悲しいサガですね。

しかも自分の満たされている度合いが低ければ低いほど、比較をしてしまうことになるのです。これって、誰でも思い当たるのではないでしょうか?

つまり自分が幸福感に包まれていて、満たされていると感じる時には、周囲のことなどどうでもよくなるものです。

だからそういう時には、他人の幸せを心から祝福してあげることができるのです。そうでない時には、ひがんだり嫉妬することになるのです。

この状況が親子の間で起きると悲惨なことになります。例として、母親(のインナーチャイルド)が自分の娘に嫉妬するということが実際にあるのです。

そうなると、子供は自分が楽しそうにしていると母親に怒られたり否定されたりする一方で、辛い時には逆に優しくされたりするわけです。

こうしたことが母親との間で何度も繰り返されることで、その子は自分は幸せになってはいけないのだと察するようになるのです。

私はこれを「幸せ恐怖症」と呼んでいます。幼い頃にこのルールがしっかり染み付いてしまうと、大人になっても知らず知らずのうちに幸せになりそうになると自らそれを破壊してしまうのです。

もしもこのようなことに思い当たるふしがあるなという場合には、しっかりと癒しを進めていくことが必要ですね。 

マインドの取引を見抜く

未来というのはイマジネーションの中にしかないはずなのに、私たちはその未来をとても大切なものだと思い込んでいます。

というのも、今実現していない希望や夢というのはその全てが未来の中にこそあると思えるからですね。

そのため、最も大切な現在を犠牲にしてでも、未来を優先しようとしてしまうのです。何を言っているか分かるでしょうか?

例えば、今この状況がどれほど理不尽で苦痛であろうとも、ここを乗り越えることで希望する明るい未来が手に入ると思うのです。

要するに現在の苦悩と未来の満足の間で取り引きしているわけです。今どれほど惨めなことが起きていても、未来のために頑張るというわけです。

これがうまくいかない理由は、思いのほか明々白々なのです。それは、明日の自分は今日の自分から生まれるからです。

osho 曰く、「どうしてくたびれた旅が喜びに満ちた目的地に続くだろう?」ということなのです。

自己犠牲によって波動を下げた挙句に、マインドの中に苦しみを蓄積してしまえば、その先に待っているのは悲惨な毎日になるのは明らかです。

歯を食いしばるのは、明るい未来のためではなく、今この瞬間の喜びのためでなければならないということです。

マインドはいつも取り引きしたがるのですが、それをしっかり見守ることができればそこから離れていることができるのですね。

心のスピードを落とす

30歳のころに初めて転職をして、それまでとは毛色の違う外資系の企業に移ったのですが、そこでは誰もが一国一城の主のように見えました。

みんなが自分が知らないことを知っているし、あちこちで英語のワードが飛び交っていて、和やかな中にもピリピリ感もあったのです。

テンション高めというのか、活力に溢れているというのか、とにかくペースが早くてみんながイキイキしていたのです。

そんな中に一人、少しペースの違う感じがする女性がいて、いつも落ち着いた雰囲気で穏やかでゆっくり話す感じの人でした。

仕事で一緒になることがなかったので詳しくは分からないのですが、いつもこんなハイテンションの中でマイペースを維持できていていいなと思ったものです。

一般的にいって、自分の自然のペースを乱されずに過ごすのは難しいものですね。仕事中などは特にそう感じます。

できるだけ日常的に自分の自然のペースで生きることができるなら、心のペース、心のスピードを落とすこともできるようになるはず。

そうなった時には、思考と思考の間の空隙が見えるようになるはずだとoshoは教えてくれています。

その隙間に意識を向けるようにすることはとても大切なことです。なぜなら、それこそがあなたの本質であるからです。

そうなると、更に好循環が生まれることで、より心のスピードが落ちてきて、思考よりも空隙の方が大きくなってくれるはずです。

そうしてより深い瞑想状態へと入っていくことができるのですね。

他人のことは決して分からない

大往生という言葉がありますね。天命を全うして安らかに死ぬこと。高齢の人が老衰や自然死のように亡くなることとあります。

そういう意味だということは知っていましたが、最近この言葉を聞いてなんだかあまりいい気持ちがしないなと感じたのです。

身内の人たちが使うのでしたらいいのですが、何も知るはずのない他人が何を知ったかぶりしてそんなことを言うのだろうと。

もちろん何の悪気もなく、高齢で平和に亡くなっていったんだなくらいの気持ちで言っているのはわかるのですが。

私たちは知らないはずの他人のことをあれこれまるで知っているかのように言うことが多いのではないでしょうか?

あの人は幸せだなとか、あの人はきっと不幸に違いない等々。私はマインドの理解を通して、そんなことは決して分からないと気づくことができました。

逆に一つだけはっきりしていることもあります。それは、どんなマインドも満たされることはないと言うことです。

逆説的かもしれませんが、これだけは明確なのです。なぜなら、マインドは満たされてしまったら、もたないからですね。

他人に対するそれ以外の一切のことは、決して計り知れないのだと言うことを、よくよく理解しておくことが大切なのでしょうね。

なぜならその方が自分自身のマインドが穏やかなままでいられるのですから。

自我の三つの層

長い間、自分自身の自我やその他たくさんの人々の自我を見つめてきて、色々理解できたことがあるのです。

例えば、私たち人間は最も表面的なレベルでは、より幸せになりたいと願っています。これに異論がある人はいないでしょう。

ところがその表皮を剥いでしまえば、そのすぐ下の層では安心したいという願いがごってり詰まっているのです。

私の言葉で言えば自己防衛ということになりますが、とにかく不安をできるだけ安心に変えたいと願っている部分ですね。

この二つの層だけでも実は互いに矛盾するものなのです。なぜなら、安心を得ようとすれば必ず、そこには自己犠牲が付きまといます。

つまり不自然な生き方をしたり、自由を奪われた毎日を生きることになったりして、幸せとはとても言えない状態になるのです。

この二つの層だけでも互いに矛盾する困った状態なのですが、実はその奥にはまた違う自我の本音が隠されているのです。

それが本当の本当の自我の目的なのですが、それは自我が消滅しないようにするということです。これに気づいている人は少ないかもしれません。

この部分は目的を達成するためには、自分が幸せだろうが不幸だろうがそんなことにはお構いなしなのです。

どれほど不幸になろうと、どれほど不安に苛まれようと、とにかく自我として存続できればいいという究極の原動力があるのです。

この三つの層の全てをしっかり理解し、それを総合的に見守ることで自我から距離を取ることができるようになるのですね。

塞翁(さいおう)が馬

コロナのワクチンを3回接種したところで、ひとまずもういいかなと思っていたのです。間違いなくインフルエンザ並みかそれ以下の死亡率になるだろうと思って。

ただ東京での感染者の増大があり、高齢の家族と同居していることもあって、思い直して昨日4回目のワクチンを打ってきたのです。

3回目まではこれといった際立った副反応が見られなかったので、今回も大丈夫だろうとたかを括っていたのですが、今37度8分まで熱が出ています。

身体が熱くてフワッとした感覚があるのですが、この程度の熱であればどうということはありませんね。

逆にどちらかというと、血圧がやや高くなった時の感覚に似ていて、なぜか瞑想しやすい感じがしています。

高温のサウナでも短い時間であれば、瞑想しやすい感じがするのですが、それと同じような感覚なのかなと。

熱で少しフワッとすることで、思考の動きが鈍くなるのかもしれないですね。怪我の巧妙というほどではないですが、悪くないなと。

身体が健康過ぎると、思考も良く働いてしまうので、少しの不具合はいいのかもしれません。力も抜けるし。

かつて会社員だった頃、職場のみんなとボーリング大会をやっていたのですが、ある時腰痛があって少し無理して参加したら、優勝してしまったことがありました。

あれも腰の痛みのせいで身体の力がいいように抜けたことで、逆にリラックスして変な欲が出なかったからなのかなと。

瞑想に話しを戻すと、熱があるおかげでより深く入りたいという気負いのようなものが取れているので、返っていい状態になれるのでしょうね。

人間万事塞翁が馬ってやつですね。

母親のセッションで分かったこと

先日、認知症になった母親の脚をマッサージしながら、ちょっとしたセッションをやってみたのですが、なかなか興味深い内容となりました。

そもそもセッションをしようと思った理由は、母親が空腹を感じると嫌な気持ちになるということを言っていたからです。

それともう一つ、彼女が持っている不安のうちの多くは食べ物があるのかどうかということなのですが、それがどこからくるのかを知りたいとも思っていました。

その不安と空腹の時の嫌な気持ちとの間に、何かしらの関連があるのではないかと思ってそこを掘り下げてみたのです。

すると、子供の頃はお腹が空いたら親が作ったご飯を食べるだけでよかったものが、若くして(19〜20歳)結婚してからは主婦として自分が食事の支度をしなければならなくなったと。

大家族の末っ子として生まれた彼女が、結婚を機に突然知らない土地に嫁いで、しかも六畳一間のアパートでたった一人で夫の帰りを待つ生活。

その心細さと寂しさ、そしてお腹が空いたら自分で食事の支度をしなければならないというのが、心の中で結びついてしまったのかなと。

そこで分かったことは、彼女は料理をすることが元々好きではなかったのですね。だから父親の死後、全く料理をしなくなったのです。

母親の中に棲んでいる甘えん坊で末っ子の女の子が未だに健在なんだなと。その子が空腹を感じるたびに、寂しさと悲しみも感じるのです。

それを分かってあげられただけでも、良かったかなと。ただ、その女の子の気持ちを見守ってあげて…、は通じませんでした。

そのため、問題の解決にはほど遠いし、こうした30分くらいのセッションの内容も全く覚えてはいないのですから、仕方のないことですね。

真理になぜ?は通用しない

子供の頃というのは、なぜ?やどうして?をたくさん持っているものですね。その答えは親も知らないということを思い知らされます。

そうしてそのうちには問うことを諦めるのです。私自身もそうだったと思うのですが、どんな疑問にも答えてくれる存在として、神がいるのだと思ったりしていました。

本当は、人間が神の存在を意識するのは死があるからなのですね。死の恐怖をなんとかしてほしくて神に頼ろうとするのです。

話しを元に戻して、全能の神という表現をするくらいなので、どんな質問にも答えてもらえると思っていたのかもしれません。

けれども、それは間違いだったと気づいたのです。なぜ?というのは、思考によって作り出されるものなので、真理とは無関係だと気づいたのです。

真理に対してなぜ?は無意味だということです。このことに対する深い理解というのは、とても大切なのではないかと。

自我は問題を解決すること、分からないことを分かるようにすることで安心しようとするものなのです。

けれども、自我に真理を理解することは不可能です。なぜなら、自我の理解は思考の世界のことだからですね。

なぜ?を解決することで安心することをやめて、ただ在るがままを受け入れることで本当の深い安堵がやってくるのですね。

本当の自由を満喫するには

私自身は一人旅というのをしたことがないのですが、皆さんはどうでしょうか?想像するだに気持ちよさそうですね。

何か壮大な自由を手に入れられたような感じもします。日常的なあらゆるしがらみから離れて自由を満喫する。

あるいは、あてもない気楽さ、目的地を定める必要もなく漂う心地良さ。そう言ったものを味わうのが一人旅のいいところですね。

ただそうした気楽さや自由さというのは、本当は日常でも味わうことはできるはずなのです。どうすればいいのか?

それは、ごく普段の日常を気楽な一人旅だと思えばいいのです。しがらみを作っているのは自分だし、目的地を定めるのも自分なのです。

全ては自分を安心させようとする自己防衛のせいだと気づくことです。防衛をなるべく控えて無防備になること。

それができればできるほど、一人旅と同じ気楽さと自由を手に入れることができるはずなのです。

本当の自由とは、あなたの自我から解放されることなのです。無防備になることでそれは実現します。ほんの少しの熱意と勇気さえあればですが…。