自分の本質という発想は自我のもの

自分は身体ではないということはある程度はっきりしていたものの、その身体の中に自分がいるという感覚が強かったのでしょうね。というか今もそうですが。

身体なんて元々ないんだとなったら、ものすごく心許ないというのか、居場所がないというような居心地の悪さを感じたのです。

貝を奪われてしまったヤドカリさんのような感じという表現がいいのかどうかは、ヤドカリさんに聞いたことがないので分かりませんが。

そしてそれはやっぱり、自分という存在がいるという信念が確固としてあるからなんでしょうね。

自分の正体を知りたいと思ってずっと探究してきたのですが、そのためには瞑想によって自分の本質に気づく以外にはないのだろうと。

でもはたと気づいたのです。自分の本質、自分の正体が自我ではないとなった時に、すぐさま代わりになる何かとして存在するはずだと。

そう勝手に思っていたことに気づいたのです。これがもうおかしなことですよね。自我ではないことはかなり明確になっているのですが。

自我の代わりになる何かを想定していること自体が独りよがりだったなと。自分の本質という発想そのものが、自我によるものだったわけです。

身体も自我も最初の最初から全くもってなかったと潔く認めてしまえばいいだけなんですけどね。でもその一方で、何もないというのはなぜか清々しい感じもしますね。

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再生リストを作りました

私の拙い動画を見て下さっているあるクライアントさんから、再生リストを作って欲しいとご要望をいただいたのです。

あれ、再生リストってなんでしたっけ?としばし考えたのですが、音楽動画などで日常的に作っていたプレイリストのことだったのですね。

私の動画は、ラジオと同じ聞いていればいいものなので、台所仕事などをしながらでも聞けるので、再生リストにすればリストが終わるまでずっと聞いていられて楽だと。

なるほど〜、すごくいい提案をいただいたなと思って、早速再生リストなるものを作ってみました。

実は最初の三つほどは自分の力で作ったのですが、残りは友人にやってもらってめでたく本日出来上がりました。得意不得意の差が歴然です。

そうして見てみると、なんだかいつものやりっぱなしの適当な動画チャンネルだと思っていたものが、少し立派に見えるから不思議です。

自分が日頃なんの脈絡もなく、その日に喋りたい内容をただ撮影してアップしているだけなのに、再生リストに名前がついてグルーピングされた途端、おおいいじゃないとなりました。

おかげさまで、今日の時点で17個の再生リストができましたので、ぜひみなさまご利用くださいね。

目標のない生き方だってあってもいい

好きなことを誰に構うことなく思いっきりやれば、人生は楽しくなります。そう言われても、特にやりたいことがないという人もいるはずです。

何を隠そう私自身がそのタイプなので分かるのです。これはもう子供の頃からなので、年季が入っているのです。

大人になって何もしたいことがないというのを大ぴらに言うと、変な奴とか、ダメな奴と言われてしまいそうなので、適当に隠してはきましたが。

この年齢になると、もうそんなことを隠す必要も感じなくなっているので、こうして普通に公言しているわけです。

人の生き方には大きく分けて2通りの生き方があると思うのです。一つは、目標を定めてそれに向かってまん進していくタイプ。

もう一つは、特別目標を作ることもなくただ毎日を暮らしていくタイプ。社会的に見て、どう考えても前者の方が高評価を得られるのです。

じゃあ、私のような後者のタイプの人はどうすればいいのでしょうか?きっと若い時は生きづらさを感じてしまうでしょうね。

やりたいことが見つからないので、目標を設定するといってもかなり嘘っぽいものになってしまうのは仕方ありません。

けれども心配はいりません。本質的には目標などいらないということを見抜くことさえできればいいのですから。

もしかしたら、そうしたことがある種の目標にもなるのかなと。ただし、社会的には全く見向きもされませんが、そんなことも構わないでいられることも目標にすればいいのですね。

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この宇宙には自分しかいない

子供の頃からとまでは言わないまでも、もうかなり前から感じていたことがあるのです。それは、この宇宙には自分しかいないんじゃないか?ということ。

この言葉だけ聞くと、ものすごくワガママというか、独りよがりというのか、傲慢な感じがしてしまいますね。

自分自身も、自分てそうなのかも知れないと思ったりもしたのですが、その後少し心の整理ができた時に分かったのです。

この世界に自分しかいないというあの感覚って、個人としての自分に対しての感覚ではなかったのだと。

この人間としての自分に対して、それ以外の誰もこの宇宙にはいないというのではないということです。

自分しかいないという場合の自分とは、全く人間としてではなくて、表現できないような全宇宙を占めるような、そんな感覚なんですね。

今他の言葉を用いるとしたら、いつもの全体性というアレです。全体性は全体なので、それ以外はないというのは当たり前です。

自分=全体性になった時にだけ、この世界には自分しかいないという感覚がやってくるということであって、これはごくごく当然のことだったのです。

というわけで、私は傲慢な奴ではなかったということです。実際、自分のことを傲慢だと思ったことは一度もないのですけどね。

それって、もしかしたら傲慢なのかも知れない? 

思考に頼るのをやめてみる

自覚があろうがなかろうが、1日に何度も何度も繰り返し思考によって答えを見つけようとしているのです。

あれが◯◯だったのは何でかなあ?って思ってみたり、これはきっとこうだからそうなったに違いない等々。

どれもこれも突き詰めれば思考で解決しようとしているのです。あの人との約束は何時だったかなあ?

この思い出そうとするのだって思考を使っています。どうやったら、この人にこのことを理解してもらえるだろうか?

今日やるべきことはこれで全部だったかなあ?とか、こんなこと言っても大丈夫だろうか?などいくらでもあるのです。

こうしたことの全部が思考を使って、思考に頼って答えを見出そうとする行為なのです。これで分かったと思います。

いつも自分をしっかりと観察していれば、こうしたことばかりやっていると気づくことができるはずなのです。

そして、それをやめてみるのです。すると、頭の中が静かになるのを感じることができるはず。これはかなりの効果があります。

思考に頼らないでいるようにするだけで、思考は止まるのです。思考を止めなければと思う必要はなかったのですね。

もしも興味があれば、是非試してみてください。

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何が真実なのか、全く分からない

私たちが日々体験していることって色々あるのですが、身体に関して言えばそれは五感を通してやってくるのです。

それにプラスして、思考、感情、気分などの精神的なものもやってきます。特に、思考は非常に多岐にわたっています。

概念とか、観念、あるいは信念、イメージ、そして記憶の多くも思考が操っているのですから、思考まみれといってもいいかも知れません。

そうした思考を頼りにするのをやめてみると、それだけでかなりこの世界を違った感覚で見ることができるのです。

ただ、実際に概念や観念を抜きに見るなんてことは至難の技です。例えば、部屋で1人静かに坐って目を閉じます。

その状態で残っているのは、身体からやってくる様々な感覚だけですね。けれども、その感覚が身体のどこからやってくるのかはイメージに過ぎません。

自分が今部屋の中で坐っている、というのも目を閉じた瞬間から単なるイメージでしかないということに気づくでしょうか。

そのようにして見ていくと、確実に分かっていることなんて一つもないということに気づくことになってしまいます。

実は何も分からない。理解というのは思考によるものなので、思考を抜きにすればどんな理解もやってきません。

そして自分は身体の中にいるというしつこい感覚さえも、実際にはイメージに過ぎないのです。それを証明することができないからです。

これは困ったことになりましたね。全ては曖昧なものであって明確なものなど一つもない。理解もできない。

これこそが本当のこと。それが起きていることなんですね。 

「キャッシュバック」って大嫌い!

いつの頃からかは忘れてしまいましたが、新規顧客を獲得しようとして誰かが考え出したシステムなのでしょうね、例の「キャッシュバック」。

和製英語のヘンテコな言葉。何かを契約したり購入すると、◯◯円のキャッシュバックが貰えますというアレ。

契約金などの一部が戻ってくるっていう意味なんでしょうね。それに釣られてということはないのですが、とにかくキャッシュバックがありますと。

で、貰えるものは貰っておこうというシンプルな発想で、それなりに期待しているわけです。1万円とか2万円とかその程度なのですが。

ところが、それがすぐに貰えるわけではなくて、ひどい時には半年から1年くらい後にならないと貰えなかったりするのです。

さらに、時間が経ったらいつでも貰えるわけでもなく、ある特定の期間しか貰えなかったりするのです。

きっと、一定数が忘れてしまったりすることを想定しているとしか思えないのです。こういうの本当に嫌いですね。

今回新しい家に合わせて、家人が冷蔵庫を購入したのですが、それにキャッシュバックがついていたのです。

指示されてる通りに、冷蔵庫の中に貼ってある情報を写メして、購入証明になるものと一緒に送ったりしたのです。

2ヶ月後と言うことで、やっとその時期がやってきてそれなりの通知が来たので、その処理を進めていたところ、エラーになってしまい、お金は貰えず。

クレームのメールを送ったところ、ようやく手違いがあったことが分かって、最終的には無事お金を受け取ることができたのです。

大嫌いなシステムなのですが、だからと言って無視してミスミス貰えるお金を貰わずにいるというのも、それはそれで損をした気がして嫌なのです。

結局、お金を貰えたとしても別にそんなに嬉しいわけでもなく、どっちに転んでもただ嫌いだということだけが明確に分かったのです。

世の中からこんなアホなシステム、一刻も早く消滅して欲しいと思っているのは私だけでしょうか?

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精神活動が止まっても残るもの

未だに自分のことを身体だと思い込んでいる人も一定数いるんでしょうかね?というよりも、誰の心の奥にもそんな部分が少しはあると思います。

けれども、自覚している部分だけで言えば自分はこの身体だと信じている人はそれほど多くはないのかも知れません。

私の場合ですが、自分はこの身体の内側に常にいて、(詳細な場所はちょっと分からないけど、敢えて言えば脳の中かな)この肉体をコントロールしていると感じています。

そしてなぜ自分の本体は可視化できないのかというと、精神活動そのものだと思っているからです。

自分のことを肉体だと思っているよりも、精神活動だと思っている方が何となく賢い感じがしますからね。

精神活動というのは、モノではなさそうなのでどこにあるかという質問に意味はなさそうですし、境界がないというのも頷けます。

ではその精神活動が独自に信じていることって、どの程度正しくて価値のあるものなのかを調べてみると。

かなりどうでもいいことのようにも思えてきます。さらに言えば、自分の存在を単なる精神活動だと捉えるのって、なんだかやっぱり無理があるように感じます。

深く瞑想をして精神活動そのものがかなり鎮まったとしても、何かは残り続けているのをいつも経験しているからです。

じゃあその経験て誰がしているのか?こうしたことを突き詰めていくと、自我の癖というのが見えてきます。

つまり、経験は誰かがしているという思い込みです。自我というのは、いつもどんな経験であれそれを自分のものとしてしまうからです。

そういった思考の癖を取り除くなら、ただ経験がある、ただ起きていると言えるのです。そうなると、自分という奴の入り込む余地は無くなってしまいますね。

精神活動が止まっても残るもの、それが何なのかを突き止めてみたいと思いませんか?思考を使わずに、ただそこにあるものを見てみたいと思います。

不可能に挑戦していたことに気づいてホッとする

ここ以外の他のどこかなんてない。どこにも行き場がない。改善の余地など全くない。それが分かるとどうなるだろう?

めっちゃ無駄な努力をしてきたなあという、呆れた状態になるのです。一生懸命瞑想を続けていれば、いずれは覚醒するかも知れないと。

覚醒してしまったら、自我が作り出すあらゆる苦しみ、悩み、そう言ったものから完全に解放されて、死ぬまでマインドは静かなままになる。

この思い込みが、これまでの人生で一番バカバカしい考えだということに気づいてしまいました。本当にしょうもないのです。

それ以外でも、今のままではダメだ、このままでは不満があるし、もっといい状態に持っていけるはずだと。

ずっとそんなことをどこかで考えていたような気がします。それが日々生きるエネルギーとなっていたような。

だって、昨日までの自分と全く同じではつまらないじゃないですか。ほんの少しでも進歩しなければ、時間がもったいないと。

生きている意味がないじゃないかと。けれども、改善するものがそもそもなかったと気づいてしまったら、アレってなってどこかで安堵が起きるのです。

不可能に挑戦していたことに気づいたら、あとはほっとして全てを放っておくしかなくなるのです。これって完全な自由ですね。

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滑稽過ぎて笑うしかない

ある本を読んでいたのですが、途中で何やら可笑しくなってきて最初のうちは我慢していたのですが、とうとう笑い出してしまったのです。

理性の自分は別に何も可笑しいことなどないのにな、と思っているのですが、どうにもこうにも笑いが込み上げてくるのです。

どんな内容の本かというと、これまでの自分の生き方、考え方、積み重ねてきたもの等々を根こそぎ否定された感じがしたのです。

もう全く取り憑く島がないといった感じなのです。何か自分なりの言い返しを試みようとしても、それも含めて全部否定されるのがわかるのでできなくなってしまうのです。

手も足も出ないとはこのことかなと。人の心って、あまりに全敗してしまうと、悔しいとか悲しいとか、惨めとか何もなくなるのですね。

そしてただ可笑しくて仕方なくなってしまうのです。あまり経験したことのないことだったので、ちょっと書いてみたくなりました。

で、まだ途中のこの本ですが、当然最後まで読むつもり満々です。なんでなのかというと、一切の言い訳ができないことが、清々しいのでしょうね。

それだけではなくて、今までの人生がいい意味で馬鹿馬鹿しく感じられて、滑稽に思えてきて不思議と気分爽快なのです。