自分の気づきと変化について

諸行無常というように、物事は常に変化し続けているというのはごく自然なことですね。それは私たち人間にも当てはまります。

とは言っても、しょっちゅう言うことが違うようであれば、誰からも信用してもらえなくなってしまいます。

要するに一貫性がないねえということになってしまうからです。それはよく分かった上で、今回ある告白をしなければなりません。

それは、私が日頃皆さんにお伝えしていることの根本の部分の考え方、こうだと思っていたことを撤回することになりそうだからです。

もちろん、メインの心の癒しについては基本変わることはありませんが、その背後にある私が真実だと思っていたことが変化してしまったのです。

自分の本質は意識だとか、全体性だとか、あるいは瞑想によって覚醒へと向かっていくといったことがなくなってしまいました。

あるいは、大好きだった宇宙の原理だとか、ハイアーセルフだとか高次元の存在など、スピリチュアルなことにも食指が動かなくなってしまいました。

その原因はある小さな気づきが起きたからです。ずっとこれまでなんだかんだ言って自我ベースの発想だったんだと気づいたのです。

その代わりに、この世界には何もないというかなり究極の事実に気付かされたのですね。だからと言って、人間である私自身には特別な変化は起きていません。

ただ、なんらかの形で気づいたことが活かせればいいのになとは思っています。できれば今後も変わりなくセラピーを続けていけたらとも思っています。

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謎にひれ伏す自由

あまりテレビは観ないのですが、たまに観るクイズ番組は結構楽しんで観ることができますね。特に、知識を競うようなものではなくて、ナゾナゾのようなものが好みです。

なぜそういうものが好きなのかなと言えば、きっと分からないことを解明することに快感を感じる習性があるのだろうと。

私だけでなく、これは人間全般に言えることだと思います。思考を受け持つ左脳というのは、何かを理解しようとする仕組みで動いている感じがします。

もちろん個人差はあって、何か分からないことがあっても、よく分からないけれどそういうものなんだろうで済ませる人もいます。

私はその真逆の人間なので、とにかく分からないことをそのままにしておくのが苦手なのです。ただし、興味のわかないものについては、完全に放置しています。

興味のあるこの世界、この宇宙の仕組みとか、自我についても色々理解を深めることにとても魅力を感じるのです。

それを仕事にしているのでとてもありがたいのですが、最近ずっと探求してきたことが、大きな曲がり角に来てしまった感じがしていて。

今度ばかりはどのように探求しようとしても、そうすればするほど得たい気づきから遠のくような感じがしているのです。

もう謎が謎すぎてお手上げ状態なのです。このまま探求を進めていったところで、先は見えているというか。

それでふと気づいたことがあるのですが、これまでの理解しようとする生き方から離れて、謎を謎としてそれを受容してしまおうと。

謎に対して観念するのです。謎に平伏してもうお手上げですとやってしまう。そうイメージしたら、何だか逆に清々しいような気持ちになれて。

ああこういう生き方もあるんだなと。謎と戦わないでいることの自由を初めて感じたような気がしています。という個人的なよもやま話でした。

視点がなかった頃に戻りたい

自分が一人の人間(自我)であると思い込んでいる限り、そこには必ずや視点というものが付きまとうことになるのです。

ここから見ているという視点。いつも自分がどこにいるのかを無意識であれチェックしているので、そこに視点もあることになるのです。

それが鬱陶しくて、目を閉じたとしても、なかなか自分の居場所(視点)がなくなるということはないのです。

自分がいると思うから自動的に視点が生まれ、今度は視点があると感じてしまうので、そこに自分がいるというループが生じているのです。

このループをどこかで断ち切ってしまいたいのですが、ありえないほどの強固なループになってしまっているようで。

自分の存在も視点も単なる思い込み、イメージ、妄想なんだろうことは分かるのですが、分かったところでどうすることもできない。

最もやってはいけないことは、視点がなくなったらどんな感じなのだろうと、また新しい妄想を作り出そうとしてしまうこと。

これは、どんな努力も無駄というか、しない方がいいのかもしれません。赤ちゃんや動物の世界には視点がないでしょうからね。

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あるのはクオリアだけ?

皆さんは、ものが見える仕組みを知っていますか?私もざっくりとしか説明できないですが、簡単に言えば以下のようなものですね。

光がものに当たって、それが反射して網膜の中に入り、それが視神経を刺激して、電気信号として脳へと送られて、あとは脳がそれを適切に処理した結果ものが見えるというわけです。

大体は間違っていないと思うのですが、以前から不思議に思っていたのですが、その電気信号をどのようにしたらものが見えているという感覚になるのか?

そこは科学が入る隙がないので、これまでずっとスルーされてきたのです。で、赤色をそれとして見えるあの感覚をクオリアと命名したようで。

名前をつけて終わってしまっているわけです。今の科学のレベルではどうしようもないと言ったところなのかも。

そこでちょっと気がついたのですが、例えば「目の前にあるコップを見ている」というのを想定してみてください。

この時に見えているのはクオリアなんです。ところが、私たちは長年の習慣でコップそのものをみていると錯覚してしまっているのです。

もの自体を見ることはできないのです。見えるのはクオリアだけ。ものが見えないというよりも、ものは存在しないという方がいいのかも。

少し前から、ものはないということは先端物理学で証明されつつあるということを書いたことがありました。

そこに繋がるのかなと。そしてまだ続きがあります。脳がクオリアを生み出せるとは到底思えません。

なぜなら、クオリアはいまだに科学が取り扱うことのできない何かだからです。ものが存在しないのであれば、自分の肉体も存在しません。

つまり、肉体の目も存在しないわけで、そうなるとただクオリアだけがあるということになりますね。

探求がなくなったらどうすればいい?

子供の頃から特に興味のある分野というものが見当たらないという自覚があって、社会の中でどう生きていけばいいのかが分からず。

それでも人並みの人生を送っていけばとりあえずのカッコは付くだろうと。そうやって、無理をした結果途中で社会から脱落したのです。

そこで今度は内面的な、精神的な目標を作って地味に成長していくということを自分に課してやってきたのです。

具体的には、自分の本質に気づくということだったり、覚醒するということだったりしたわけです。

ところが、ターゲットが何であれ、それは目標に向かって進んでいくという意味では全く同じ生き方だったのです。

さらに悪いことに、その目標設定が根本からして間違っていたということに今頃になって気づいてしまうとは。

とうとうここへきて探求が出来なりつつあるのです。探求が手詰まりになってしまうと、もう本当に何の目標も持てない人生になります。

そろそろ年齢的にはそれでもいいのかなと。自分の本質も、覚醒もどちらも「ない」ということが決定してしまったのです。

本当に無目的な人生というのに突入することになりそうな気配です。まだ少しだけ探求が残っているのですが、きっとそれもそのうちには消滅しそう。

有り余る時間を探求なしで、一体どうすればいいのかなと。

とんでもない間違いに気づいてしまった!?

人間生きていると本当に色々なことがありますね。最近、私に起きたことで非常に困ったことがあるのです。

それは、長年自分がこうだと思ってきたものが、実はそうではなかったかもしれないと気づいてしまったからなのです。

そんなことは誰にでもごく普通にあることなんじゃないの?と思うかもしれませんね。確かにそうなんです。

けれども、私の場合はただ自分の中で自分の思っていたことが違っていたなというのでは済まないのです。

なぜなら、これまでずっとこのブログや最近だと動画を通じて、皆さんにそれをお伝えしてきているからです。

ここで突然のように、私が伝えてきたことが完全に間違っていたとはなかなか言いづらいのですが、でもそうなのです。

セラピストとして癒しにまつわることを諸々お話ししてきたことについては、概ね間違ってはいないと思うのです。

ところが、癒し以外のことについては根本から勘違いをしていたかもと。例えば、今日アップした以下の動画はその代表例です。

自分の本質が意識だとか、その意識の感覚は全体性だとか、こうしたことがどうやら違うんじゃないかと。

それはあくまでも自我の立場からイメージしたものに過ぎなかったのではないかと。まだ確証は掴めてないのですが。

この動画は、少し前のタイミングで自分の間違いに気づく前に撮影したものですが、一応自分に対しても知らしめるためにアップしました。

そんなこんなで、しばらくの間私のブログと動画の内容は、ふらふらと彷徨い歩く感じがしてしまうかもしれません。

申し訳ありませんが、これが今の私の正直な心境なのです。

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自我オブジェクトもやっぱり実在していない

左脳がやってることは、オブジェクト指向プログラミングでやっていることに酷似していると思っています。

この世界にあるあらゆるモノをオブジェクトとして扱うのです。りんごだったら、りんごオブジェクトです。

そして、りんごオブジェクトには、リンゴの特徴である丸い形、赤い色、甘酸っぱい味、いい香り等々が属性データとして与えられます。

あるいは、りんごの能力として、食べられるとか、潰されてジュースになる等も関数としてデータ化されるのです。

そうやって、りんごオブジェクトには様々なデータが付与されて、一つの立派なオブジェクトとして扱われるようになるのです。

左脳はあらゆるモノに対して、同様のことを行ってデータベースとして登録するわけです。でもここで気づくことがあります。

それは、最初に作ったオブジェクトの入れ物は仮想的なものだったということ。中が空っぽの入れ物だからです。

つまり、オブジェクトの中身である様々な属性や関数を取り除いてしまえば、後には何も残らないというわけです。

これが「モノ」はないということを表しています。それと同じことを自我に対してやってみると、やはり自我は仮想的な入れ物でしかなく、実体はなかったということになるのです。

自我の属性や関数として持っているものを洗い出してそれらを全て外に出してしまったら、後には何も残らない。これが自我オブジェクトの正体です。

架空の入れ物だったんだなと。それにしても、自我オブジェクトには膨大な量の属性や関数が投げ込まれていますね。

どれだけ肥えたオブジェクトになってしまったのでしょうかね。だから、自我は実在しないようには思えなくなってしまったのです。

物語の外に因果はない

これまでセラピストとしてやってきた心の癒しというのは、いつも言っていたように自我の癒しのことだったのです。

自我の病んだ心を癒して少しでも生きやすい人生になっていきましょうということです。そしてもう一つ、自我からも離れていけたらいいですねと。

苦しみの元は全て自我が作り出しているからです。ところで、自我というのは仮想的な存在であることもこれまで色々な形で伝えてきました。

自我は思考でできているよとか、だから思考が止まっている間は自我は活動できない等々。こうしたことの全ては物語だったのですね。

自我そのものが物語の中でしか意味を持たないものなので、自我の癒し自体も物語の一つに過ぎなかったということです。

こうした物語は今後もずっとなくなることなく続いていくのでしょうけれど、もう一方で物語は物語として置いておく。

そして物語とは全く別の世界へと好奇心が移っていく感じがしています。その結果がどうなるのかは分かりませんが。

物語に何らかの影響が出てくるのか、それとも何の影響もないのか。きっと後者になるような気がします。

なぜなら、因果があるのは物語の中だけだからですね。

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真ん中にいれば穏やかさを手に入れられる

「快を求め、不快を避ける」これが動物の本能と言ってもいいと思いますね。それは身体的なものであることがほとんどです。

ところが、人間だけはそこに精神的なものが入ってくるわけです。心身ともに、快をいつも求めて、不快からは遠ざかろうとするのです。

だから、嬉しいこと、楽しいこと、喜ばしいこと、気持ちいいこと、快適なことをいつも探し求めるのです。

その一方では、悲しみ、苦しみ、悩み、痛みなどからは逃げようとしてしまうのです。これはこれで当然のことだと。

けれども、現実は思い通りにはいかないもので、そのどちらも満遍なくやってきてしまうのです。

快ばかりがやってくるわけでもなく、不快ばかりがやってくるというのでもなく、ちょうどそのど真ん中。

快を求めれば求めるほど、その強さに見合った不快がやってくるのです。そうやって、相殺されるのです。

だからできることといえば、真ん中にい続けられるようにすることです。そうすれば、快と不快の大きさも和らぐことになるはず。

どちらが来てもOKですよと。そうやって余裕で真ん中にいることができれば、アップダウンの少ない穏やかな人生になりそうですね。

自分の本質という発想は自我のもの

自分は身体ではないということはある程度はっきりしていたものの、その身体の中に自分がいるという感覚が強かったのでしょうね。というか今もそうですが。

身体なんて元々ないんだとなったら、ものすごく心許ないというのか、居場所がないというような居心地の悪さを感じたのです。

貝を奪われてしまったヤドカリさんのような感じという表現がいいのかどうかは、ヤドカリさんに聞いたことがないので分かりませんが。

そしてそれはやっぱり、自分という存在がいるという信念が確固としてあるからなんでしょうね。

自分の正体を知りたいと思ってずっと探究してきたのですが、そのためには瞑想によって自分の本質に気づく以外にはないのだろうと。

でもはたと気づいたのです。自分の本質、自分の正体が自我ではないとなった時に、すぐさま代わりになる何かとして存在するはずだと。

そう勝手に思っていたことに気づいたのです。これがもうおかしなことですよね。自我ではないことはかなり明確になっているのですが。

自我の代わりになる何かを想定していること自体が独りよがりだったなと。自分の本質という発想そのものが、自我によるものだったわけです。

身体も自我も最初の最初から全くもってなかったと潔く認めてしまえばいいだけなんですけどね。でもその一方で、何もないというのはなぜか清々しい感じもしますね。

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