悔し涙の正体

昨日のブログでは、怒りという感情を味わう方法について述べてみたのですが、この怒りを別の言葉でも表現できますね。

例えば、イライラする、ムカつく、悔しい、腹が立つ等々。怒っているはずなのに、悔し泣きなんて言葉もあります。

つまりは、悔しくて仕方がない時に、どういうわけか涙が出てきてしまうという場合があるということです。

なぜ怒りが涙を伴うことがあるのか?一般的には悲しいという感情があれば自然と涙が出てくるのは周知の事実です。

実は怒りの下側には必ずといっていいほど悲しみが隠されているのです。その悲しみは惨めであるという思考から作られるのです。

全体のカラクリを説明すると、まず初めに惨めだという思いがやってきて、そこから悲しみという感情が作られます。

けれども、惨めさも悲しみもどちらも見たくないので、怒りという感情で蓋をするのです。だから、怒り→惨め→悲しみの順番で層を成しているのです。

ということで、怒りをしっかり味わうことができると、その下に隠されていた惨めさが露わになって、同時に悲しみも感じることになるのです。

それが悔し涙の正体だったのですね。

怒りの味わい方

怒りという感情をネガティブなものだと思い込んでいる人が多いのですが、そもそも感情にいいも悪いもありません。

怒りを否定的に捉えてしまうのは、攻撃的になって相手を傷つけてしまう可能性があると思うからですね。

確かにそうですし、自分自身が幼い頃から親や周囲の人から怒りをぶつけられて、辛い思いをした経験があれば、怒りを否定しても当然でしょう。

ただし、感情そのものを否定するのは間違いです。怒りという感情をしっかり自分自身の中で消化すればいいだけです。

それができないので、相手にその怒りを投げつけてしまうのです。これは依存心ですね。未熟なマインドのすることです。

投げた怒りのエネルギーは自分自身に戻ってきてしまい、全く消化されずに蓄積されるということも知っておく必要があります。

怒りをしっかり味わうためには、いくつかの方法があります。もちろん依存をやめて、自分一人で怒りと向き合うのが前提です。

その上で、一番効率が悪いのは声を荒げて怒りの対象に向かって言葉を発することです。イメージの中でやれば誰にも迷惑はかからないのですが、少し効率が悪いです。

それよりも効率が良いのは、言葉を一切使わずに大声を張り上げることです。言葉を使わないことで、思考から離れることができるので、中程度の効率です。

最も効率が良いのは、言葉を発せず、大声を出すこともせず、ただ唸ること。大声を出さないことで、外側へ向けて怒りを投げなくなるのです。

それによって、しっかりと怒りを自分の肉体を使って感じ切ることができるのです。どうせやるならできるだけ効率的にやりたいものです。

是非試してみてください。

存在に意識を向ける

部屋でじっくりと大好きな音楽を聞こうとしたら、その部屋が静かであるに越したことはありませんね。

誰も雑音だらけの場所で音楽を聴きたくないのです。雑音を遮断するために、イヤフォンやヘッドフォンを使うくらいですから。

それは当然、雑音が聴こうとする音楽の邪魔をするからです。環境が無音であればあるほど、音楽はそのまま耳に入ってきてくれるのです。

無音、つまり静寂というのが如何に大切なものかが分かりますね。音のベースは静寂だと言ってもいいくらいです。

私は個人的に、静寂を感じられる音楽が好きです。この音の背景には静寂が佇んでいると感じられると、何だか気持ちがいいのです。

それと似たようなことですが、自分は自分の人生物語を生き続けているのですが、その自分をどのように見ているのか?

自分は何かをする人、自分は何かを経験する人、自分は何かになる人、このようにだけ自分を見ているのではないでしょうか?

実はその背景にあるもの、それは自分とはただ在る人、つまりは自分は存在なのです。この存在が常にバックにあっての毎日の生活なのです。

それは音楽のバックにある静寂のようなものです。もしもあなたが自分の存在に意識を向けずに生きているなら、何と軽薄な毎日でしょう。

あなたの本質はただ存在するということです。あなたが誰かを愛するならその対象は存在なのです。受容する対象も存在です。

なぜなら、愛も受容も存在も全てが思考の外にあるものだからです。いつも自分の存在に意識を向けているように練習するといいと思いますね。

それができれば、人生物語を見ている側でいることが容易に感じられるはずです。存在を感じられるように訓練することです。

見守る側でい続ける

物事を複雑に捉えるよりも、できる限りシンプルに考えることが大好きなのです。今日はその精神で、人生をシンプルに表現したいと思います。

誰にとっても終わりが必ずやってくるたった一度きりの人生です。どのように生きていったら悔いが残らないのか?

何が正解でどうなったら失敗なのか?どう生きるべきか?このようなことを可能な限り単純に表現できたらいいですね。

で、結論が出たのですが、それは物語の中で生きる自分を見守る側でいるということに尽きると思うのです。

人生物語で何をしようが、何をしなかろうが、そんなことはどうでもよくて、そこにはどんなルールもなく、金メダルを獲ろうが、ホームレスであろうが構いません。

ただ一つ、それを見守る側でいるということ。つまりは、できる限り自己留意の状態で生きるということです。

最もシンプルですが、かなりの高難度であることは間違いありません。物語の中では全くの自由ということで救われますね。

一方見守る側でいる、つまりは意識的であり続けるというのはとても骨の折れることです。一瞬一瞬が途方もなく大事になってきます。

その結果は明確な違いとなって表れるはず。必ず死に際して、そして肉体と自我の死後に大きな違いとなってやってくるでしょうね。

存在を楽しむ

この二元性の世界では、快適さと不快さは一対としてやってきます。快適さを求めてしまう私たちとしては、不快さもくっついてくると言うことを受け入れたくないのです。

いつも外側に求めるのは、快適な居住空間、快適な人間関係、快適な仕事等々。それらに囲まれているときは幸せだと思うのです。

けれども、表しかないコインが存在できないのと同様に、快適さだけの人生もあり得ないのです。

表裏、あるいは快不快というペアでのみ存在するのが二元性の世界であることを知ることです。この世界はそのようにできているのですから。

ただしそこから逃れる方法もあることはあるのです。それは、外側の世界から内側の世界へと向きを変えること。

具体的に言えば、自分の単純な存在を楽しむ方法を体得することです。存在そのものにはどんな理由もなく、どんな価値判断も当てはまりません。

存在はペアとしての相棒を持っていません。静寂もそうですね。そう言うものは、非二元性だからです。

もしもあなたが静寂を楽しむことができるなら、自分の存在をも楽しむことができるはずなのです。

結果として二元性の中でしか生きられない自我からも離れていくことになるのでしょうね。

不安は未来のもの

過去や現在のことを考えた結果、不安になるということはあり得るでしょうか?あり得そうですが、実際にはそれは不可能です。

私たちが不安になったり心配してしまうのは、未来のことについて考えている時に限られるのです。

いや、そんなことはない。夜寝る前に宿題をやっていなかったことに気づいて、不安になるのは現在じゃないか、と思うかもしれません。

けれども、その不安はやはり宿題をやっていない状態の明日を無意識的に考えて、不安や心配になっているわけです。

だからもしもあなたが理由がはっきり分かっている不安や心配を抱えているとしたら、間違いなく未来に注意を向けた結果だということです。

老齢の母親が毎日お決まりのように不安や心配を訴えてくるのは、明日の朝食が食べられるのかどうかといったことばかりです。

当然朝食が出てこなかった試しはないのですから、未来の食事に関するありもしない妄想を作り上げて一人で心配しているのです。

不安や心配というのは100%未来のものなのです。もしも余計な心配をしたくないと本気で思うのであれば、思考を過去か今現在に貼り付けておくことです。

もちろん一番いいのは、思考を緩めてマインドを静かな状態にしておくことです。それが難しいのであれば、注意深く未来に思考が飛ばないようにしておくことですね。

真ん中は空けておく

私たちのマインドというのは、非常に多くの思考が凝縮されていて、それらがたくさんの人格の小片のようなものを作り上げています。

天使のように純粋な奴もいれば、反対に悪魔のような奴もいるのです。善人がいれば、悪人もいる。男性がいれば女性もいるのです。

大人もいれば、幼い子供もいる、といった具合に一人のマインドの中にはありとあらゆる人格の小片がギュウギュウ詰めになっているのです。

誰のマインドも基本的にはそのような状態で活動しているわけです。そのごった煮のようなマインドを綺麗にしようなどと考えないこと。

マインドとはそういうものだからです。自己否定をやめようとか、人種差別をやめようとか、嫉妬をやめよう等々。

そういった改善マンも、マインドの中にいる沢山の人格の一つに過ぎません。最も賢いやり方は、それらには一切手を触れないこと。

そしてどの小片にもマインドを乗っ取られないように注意深くあることです。そのためには、マインドの中心を空っぽにしておくのです。

そうして空っぽの中心から、周辺に散らばっている人格の小片を見守ることです。見守ることだけに徹することです。

それが可能になれば、マインドの中にどんな奴がいようと何の問題もないことに気づくはずですね。

自我が自分を束縛する

人は本来自由であるべき存在なのですが、残念ながら程度の差こそあれ誰もが何らかの不自由さを抱えながら生きているのです。

そして私たちはその不自由さの原因は外側にあると思い込んでいるのです。なぜなら、自分は自由を標榜しているのに、結果は不自由だと感じるからです。

あの人がそばにいるだけで、何だか自由でいられなくなってしまうとか、社会や家庭のルールに縛られて不自由になってしまうのだとか。

とにかくより自由でありたいと願っているのに、外側からのあらゆる妨害にあって不自由な人生にさせられていると信じているのです。

けれども、幼い子供の頃ならまだしも、大人になって成人として認めてもらえるようになったなら、あなたの不自由さを外側にある何かのせいにしてはいけないのです。

不自由さの原因はあなた自身にあるからです。あなたのマインド、あなたの自我があなたを束縛しているのです。

あなたの自我が元気なかぎり、あなたは束縛され不自由さから逃れることはできないと知ることです。

自我はいつも取引しているのです。あなたの自由を差し出す代わりに、安心を手に入れようとすることをやめられないのです。

この防衛から手を引いて、できるだけ無防備に生きることができるなら、不自由さはその分だけ小さくなり、自由で清々しい毎日を手に入れることも可能なのですね。

生死とは無縁の意識

小学3年生の頃、何のきっかけだったかは定かではないのですが、ふと死んだらどうなるんだろうと思ったのです。

そうしたら、急に怖くなって顔面が引きつったようになって、母親に助けを求めたところ、そんなことは考えなくていいと言われたのです。

自分もそうだ考えなければ大丈夫と無理やり自分をなだめて、その場は落ち着きを取り戻したのを覚えています。

その経験があってからは、死について考えることをタブーにしてきたのだと思います。あの恐ろしい感覚はその後一度も味わってないのですから。

けれども、今になって死を見つめることでしか、自分のビジョンを変容することはできないということに気づきました。

神を求めて神に救われるというのは間違いだと気付いたのです。代わりに死をどのように受け止めるか、ここが大切なのです。

というのも、死に際してどのようにそれを見守るのか、自分が死んで行く様を見つめていられるならば、死は通り過ぎていくはずだと。

なぜなら、死ぬのは肉体と自我だと理解できたからです。本当の自己は肉体でも自我(マインド)でもないという理解。

そうした理解が深くなればなるほど、それが単なる知識ではなく自分の気づきとして定着すれば、人生最後のビッグイベントを悠々と見守ることができる。

その時のための練習は、日々できるだけ意識的であり続けることなのです。あなたの意識も人生における生死とは無縁なのですから。

ちょうど真ん中

自我は自分の存在を明確にしたいと常に思っています。群衆の中に埋もれてしまって、いるのかどうか分からなくなってしまいたくないのです。

私はここにいるよ、みんな見てね!と訴えているようなものです。要するに、自分自身で自分の存在を確定できないのです。

だから自我は他者が絶対的に必要なのです。他者に見られることで、他者に認めてもらうことで生き延びられるのです。

だから、ふつうであるよりも特別でありたいのです。何でもない者でいるよりも人かどの者でありたいわけです。

こうした傾向が私たちを真理から遠ざけてしまっているとも知らずに。真理にフタがされて忘れ去られてしまったのです。

真理は極端から離れて、ちょうど真ん中であることでしか体感できません。特別であろうとすればするほど、真ん中から遠ざかることになるのです。

どれほど特別だと言われたところで、喜んでいるのはあなたの偽物の部分だけで、あなたの本質からはほど遠いのです。

こうしたことを見抜くこと。ちょうど真ん中である時だけ、あなたの本質に気づくことができるのですから。