駄目な自分と駄目じゃない自分

私たちの人生とは、駄目じゃない自分というものを証明しようとして頑張ってみたり、駄目だということを証明しようとして挫折したりを繰り返しているものだと言えます。

この二つの相反する意識のぶつかりあい、攻防であるとも言えるのです。勿論個人差はかなりありますので、その戦いがとても極端に現れてしまう人の場合と、比較的やんわりとしたものの場合と、それぞれ千差万別です。

しかし誰にでもある共通のこうした心の葛藤というものがどこから来るのかということを知っておくことは、こうした無意味な戦いから手を引いて幸せの方向に行く助けとなるはずです。

事の発端は幼い頃の理不尽とも言える、自分は駄目なやつなんだという思い込みなのです。それを少しずつ毎日毎日せっせと強く立派な思いへと作り上げてしまうのです。

この自分への駄目出しは勿論そのことで自分を守ろうとする行為なので、そのことが確固とした信念として心の奥に沈殿していくわけです。

一方では、こんな駄目な自分のままでは嫌われて価値がないとして見捨てられてしまうかもしれないという恐怖を生み出します。

それは間違いなく命がけの恐怖感です。ですから、その人の生きる目的は今日を何とか生き延びるということになってしまうのです。

どうしたらより幸せになれるかといったことよりも、サバイバルそのものです。戦場でどうやって生き延びるか、それが最大の関心事となるのです。

だから本人は必死に駄目である自分を隠そうとして頑張り続けることになるのです。その目的は、周りから認められて存在意義をもらい、自分は生きていけるという安心をもらうことなのです。

しかし、安全を第一に目指すという人生は危険なところに自分はいるということを証明することになってしまいます。

それと同時に、自分に駄目出しをしたかつての幼い自分は駄目じゃない自分になってしまったら、駄目であることのメリットを享受できなくなってしまうので、駄目だという証明をしてくるのです。

こうしたことが繰り返されているということです。これでは、決して幸せにはならないことは自明の理ですね。何せ幸せを求めていないのですから。

あなたはしっかりと幸せを求めていますか?それとも駄目じゃないことを証明してサバイバルしようとし続けているのでしょうか?一度よく見つめてみることはとても大切だと思います。

新しい講座について

昨年の7月より始めた講座も、ヒーラー養成講座、カウンセラー養成講座、そしてヒプノセラピスト養成講座と増えてまいりました。

そのほかにも人間関係を改善する心理講座というのも行っています。そして、他に自分はどんなことをやりたいのかなと考えたときに、この先のことが見えてきました。

それは昨年1月より月一回のペースで続けてきた「奇跡のコース」の勉強会を、講座形式にしたものをやりたいという思いでした。

勉強会はこれからも今まで通り続けていくつもりですが、新たな講座ではより密度の濃い充実した内容になると思っています。

これほど自分を導いてくれた書物は勿論他にはないですし、これから先もずっと読み続けては実践していく日々になることは間違いありません。

それだけ大きなインパクトを与えてもらったという気持ちなのです。ただ、決して読みやすい本ではないというのも事実です。

ですが、どうしてもこの世界でより幸せになるためにはあの本の考え方が欠かせないという思いがあるので、内容を分かりやすく繰り返しお伝えしていくことに意味があるかもしれないと考えるにいたりました。

勿論私自身が今でも読み続けているものですから、完璧な内容の講座ができるはずもないのですが、それでも少しでも多くのみなさんにコースの真髄に触れていただきたいとの強い願いがあるのです。

無謀かもしれませんが、とにかく奇跡のコースの講座をスタートさせたいと思っています。実は今までにも、現在行っているすべての講座の中で、コースの話しは常に織り交ぜてきています。

今後は、そこに注力できるという喜びが自分の中に溢れてきているようです。是非、一人でも多くのみなさんに参加していただけるようにと、心から願っています。

開始時期は11月の第一週を目指しています。詳細が決まり次第、またHP上等でお伝えさせていただきます。

弱者と強者

誰でも自分の周りには大雑把に分けて、弱者と強者がいるものです。たとえば、家の中のお父さんの立場からすると、家族特に子供は弱者であると言えますが、会社での上司は強者となるわけです。

病院での看護師さんの立場からすると、病気を患って苦しんでいる患者さんは弱者であり、権威のあるお医者さんは強者となります。

幼稚園の先生であれば、園児たちはみんな弱者ですし、園長先生はじめ先輩の先生方などは強者であると言えるわけです。

そして、人は大抵弱者に対しては優しさを使うことができるのですが、逆に強者に対しては敵対視したり恐怖を感じたりします。

家族の中では、幼い子供やペットは弱者ですから、やさしいたわりの気持ちで接することが容易にできるのです。それは、向き合う人が恐れを感じずにすむからです。

人は恐れないでいられると、無防備でいられるために愛が発動しやすくなるのです。だからこそ、相手が愛しく感じられるし、優しく接することができるのです。

一方、自分にとって強者に対応する場合には、必ず何かしらの恐れを伴うはずなのです。だからこそ、防衛のメカニズムが激しく発動し、逆に愛は心の奥へと押しやられてしまいます。

そうすると、あの優しさはどこへやら、気が付くと相手の悪いところばかりが目に付いたり、不正を見つけては裁きたくなってしまうのです。

そしてそのように見えることを、事実であるとして勘違いしてしまうのです。強者を好ましく感じることが難しいのはこうした理由があるのです。

あなたにとっての強者は誰でしょうか?そしてその人達に対していい印象を持っているでしょうか?もしも、いやな感情の方が強いと思っているのでしたら、是非ともここで書いたことを参考にしてみて下さい。

そして、自分が弱者に向き合う時のあの優しい感覚をそのまま強者に対しても向けてみることです。きっと、何かが大きく変化してくるはずです。

動機が不純でも構わない

私たちは何かを思い立ってやり始めるときには、必ずしもそれが後で考えてすばらしい目的のためではなかったと思うことがよくあります。

たとえば、好きな異性にギターを弾けるところを見せたくて、一生懸命に練習するということがあるかもしれません。

かっこいいところを見てもらいたくて、異性にもてたくてスポーツを頑張るとか勉強をするなどはその典型ですね。

もう少し本質的な例をあげると、私たちは誰もが自分の価値が高いと思えれば思うほど嬉しいものですが、その自分の価値、存在意義を求めて頑張るのです。

若いときからボランティアに目が向く人もいるでしょうし、何かと人に親切にしてあげたいと思っている人もいます。

そうしたことが愛から出た発想であるとは限りません。自分の存在意義を高めてそれを確認したくて、そうした貢献をしようとする場合が少なくありません。

つまり動機が愛からではなくて、自分を何とかしたいというエゴから出た思いであったとしても、それをきっかけとしてギターが弾けるようにもなるし、スポーツが大好きになるかもしれません。

やりだした勉強が面白く感じてそれを仕事にするようになるかもしれませんし、ボランティア活動を通して体験したことで愛を学ぶかもしれないのです。

元々の動機や発端が何であれ、その体験を通して何かを学んでいけるということの方がとても大切なことなのです。

自分が何かをこれからしていきたいと思っている場合、あまりその目的を詳細に検討しなくてもいいのです。とにかく始めることです。

もしもそれがあまりにもエゴの色が強いと、結果はすぐに出てくることになります。つまり自己犠牲が強くなってしまい、苦しくて続けることができなくなってしまうのです。

途中から愛の要素が入りだすと、最初は気付かなかった面白みを発見したりして、当初とは違う喜びを見出すこともできるようになるのです。

何かを始めるときには、とにかくあまり迷わずにやり始めることが重要ですね。始めなければ失敗するという体験すらできないのですから。

感謝の言葉

先々週の月曜日の深夜に、「生まれてきてよかった」という題名のブログを書きました。そして実はその少し前に下のような感謝の言葉も書いていました。

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生まれてきて本当によかった!
生まれてきて本当によかった!
生まれてきて本当によかった!

お母さん、産んでくれて本当にありがとう。
沢山の愛を与えてくれて本当にありがとう。
すばらしい人生をくれて本当にありがとう。
あなたの息子で本当によかったです。

お父さん、守ってくれてありがとう。
大きな愛で包んでくれて本当にありがとう。
すばらしい人生をくれて本当にありがとう。
あなたの息子で本当によかったです。

このすばらしい人生をプレゼントしてくれたすべてのものに感謝します。
自分は本当に幸せです。
この幸せをみんなに伝えて分けていきたいです。
それが自分の役目だと思っています。

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これはブログに載せる必要はないと思って自分ひとりで瞑想中に唱えるようにしていました。そのときの自分の素直な気持ちにとてもマッチしている言葉だったからです。

そして、ブログを更新した翌々日の夜に右足のひどい痛みで寝れない日が始まったのです。それが、今も少し続いている帯状疱疹の痛みです。

今まで痛みの原因がいまいち曖昧だったのですが、このことを思い出してすっきりしました。この両親に対する感謝の気持ちに激しく抵抗している心がまだいるということです。

自分の苦しい惨めな思いを差し置いて、こんな感謝の気持ちを唱えるなど言語道断だということなのでしょうね。それを分かってあげなかったから病気を作り出して訴えてきたのです。

まだ痛みが残っていますので、このことをいい機会だと思ってじっくり感じて受け止めてあげようと改めて思いました。

ヒーロー願望

以前、近所の家の幼い男の子が外で独り遊びをしているときに、仮面ライダーか何かの真似をして変身するときのポーズを一生懸命やっているのを微笑ましく見ていたことがありました。

本人としてはいたって真面目に練習しているようなのです。彼には現実の周りの景色など見えてないのだろうなと思うくらいに打ち込んでいました。

特に男の子に多いのかもしれませんが、テレビ番組に出てくるヒーローになったつもりで自分が活躍しているところをイメージしているのでしょうね。

ヒーローはとても強く、勇敢に悪者に向かっていくし、本当の自分みたいに無力で弱虫ではないので思い切り羨望してしまうのです。

私も子供の頃は、正義の味方だという感覚を持っていたのを今でもはっきり覚えているくらいですから、子供の頃のヒーローへの憧れは相当なものだと言えると思います。

しかしこうした純粋な願望は、小学生の間の自我を形成する大切な時期に少しずつ薄らいでいくのが一般的なのです。

徐々に現実的な視点で物事を見る目が養われていくために、ヒーローのような極端な存在のことを忘れて現実でどうやったらいいかということに意識を切り替えていくのです。

ところが、こうした大人への変化がスムーズに行かなかった場合には、この幼い頃のヒーロー願望が大人になっても強く残ってしまうこともあります。

そうすると、妙に正義感が強くて融通の効かない大人になってしまうことになりがちです。プライドだけが高くて、傷つくことをとても恐れているような人です。

そのくせ、その心のセンターはとても幼いままなので、依存心も強いままに残っているので子供っぽい男性と見られてしまうかもしれません。

本人は大切な人や家族などを自分の力で守っているということに満足していたりしますので、身近な人達があまりに元気で活躍し過ぎると今度は不満な気持ちが出てきたりして、なかなか面倒な人というように思われることになります。

このような人たちが本当に求めているのは、幼い男の子がお母さんに求めている気持ちと全く同じなのです。もっと、分かって欲しい、自分を第一に見て欲しい、気持ちを受け止めて欲しいということです。

こうした心の内を理解してその願望を満たしてあげるように接することができると、元々ピュアな心の持ち主ですから、その人の本当の暖かさややさしさを使えるようになるはずです。

あなたの身近にヒーローさんがいるのでしたら、こういったことを分かったうえで、やさしいお母さん役を試してみてください。きっと二人の関係がよくなっていくはずです。

中立な心

私はクライアントさんとのセッションの前には、できるだけ瞑想などをして自分の心を平安な状態にしておくように努めています。

それは勿論、心がささくれ立っていたり、気になることに意識が向いたままの状態ではとてもクライアントさんと無心で向き合うことができなくなってしまうからです。

それはときには中立な心の状態を作るという言い方をすることもあります。中立とは、公平な見方ができる、ひいきをしたり偏ったものの見方をしないという意味でもあります。

しかし、もう少し詳しくこの意味を考えてみると、正しさというものに価値を見出さない心の状態であるということが言えると思います。

小沢一郎が民主党代表への立候補をするという事実を聞いたときに、それをどんな心でうけとめればそれが中立な心だと言えるでしょうか?

それは端的に言って、反応しない心の状態であるといえます。つまり、無反応であるということ。何も意見や気持ちの揺れなどがないということです。

小沢一郎という人に対して世間一般でされている評価、あるいは政治の世界にとても詳しい人がしている評価、その他きっとさまざまな評価というものがあるはずです。

しかし、中立というのは評価をしない心でもあるため、それに対して意見というものを持たない心の状態でもあるのです。

たとえどんな政治家が何をしても、そこに正不正、善悪、良し悪しなどの解釈を持ち込まないでいられることこそが中立の心であると言えます。

そしてこの中立の心は、一見独自の意見や考え方がないように思われて、人としてどうなのかとも思われるかもしれませんが、それでもいいのです。

結局、正しい自分でありたいか、幸せな自分でありたいか、二択であって両方を選ぶことはできないというコースの言葉に大切なすべてが含まれているのです。

幸せを思い出す

自分の幸せとは何だろうということを徹底的に追及していくと、この世界の一般常識とはかなりかけ離れたものになってしまうことが分かります。

つまりそれだけ、通常知られている幸せとはまがい物だということになります。そのことがはっきり分かってしまうと、この世的な幸せというものに全く興味を感じなくなってしまいます。

誰にとっても共通した本当の幸せというものを明確に言えるとしたら、一体それはどんなものか知りたいと思うはずですね。

しかしその答えはあまりにも単純で、人を馬鹿にしたようなことになってしまうのです。非難を覚悟で表現すると、本当の幸せとは、単に自分は本当に幸せだと気付くことなのです。

このときに、その幸福感の理由を説明できないというのが本当の幸せにだけある特徴かもしれません。そして気付くためには何も必要とはしません。物質的な条件もないですし、ただ思い出すということに過ぎないのです。

自分の心の愛の部分に触れると、何の理由もなくそのような心の状態になることができるのです。そのときには、同時に自分には不足しているものは何もないということも分かります。

つまり、誰にとっても真の幸せというものは元々心の奥に内在しているものだということです。そのことに気付くことだけで、突然のように幸福の嵐の中に入ってしまいます。

これは経験した人にしか分からないものですが、それは確かにそうなのです。自分は完全に満たされているという認識を得るのです。

私たちの常識では、幸福感とはそれなりの原因があってこそ、そのような心の状態になれると思い込んでいます。

たとえば、長年目標としてきたことが頑張った末に実現したとか、人生に起こることがいい事尽くめで順風満帆であるような時こそが幸せに違いないと思っています。

しかしそれは錯覚であるし、単なる思い込みなのです。そうした目に見える幸せというのは、決して心の底から満たされているという保証はありません。

本当の幸せというものを体験するためには、この世的な幸せから目をはずしておくことです。なぜなら、この世的な幸せが真の幸せの上に蓋のようにのっかってしまうことで、いつまでもそれを覆い隠し続けてしまうからです。

今まで自分が教えられてきたこの世界のやり方では、決して真の幸せを手にすることはできないとはっきり気付くことです。

みなさんと一緒に全く新たなやり方で、真の幸福感を思い出すことに専念したいといつも思っています。

転んでもただでは起きない

「転んでもただでは起きない」この言葉は、人のしたたかさを軽い皮肉と羨望を込めて揶揄するときに使う言葉ですね。

少しニュアンスは違ってしまうかもしれませんが、心を癒していくことに対してもこの言葉はとてもよく当てはまると思います。

何か自分の身によくない事が起きたとしても、それをただ悲観するのではなく、そこには何らかの学びがあるとして積極的に受け止めて行く生き方ともいえるからです。

これはいつもお伝えしていることなのですが、いやな出来事に遭遇したり、困った事態に巻き込まれたりするときは絶好の気付きのチャンスだと認識することです。

もしもそこで何も気付くことができなかったとしてもそれはそれで問題ありません。ただそうした態度でいつも生活するということがとても大切なのです。

私は10年前に癌を患ったことをきっかけに、20年以上に渡るサラリーマンの生活をやめて今のセラピストの仕事をするようになったのです。

癌になることは転ぶ程度の可愛らしいものではありませんでしたが、そのときに自分のやりたいように生きてみようという決意ができたのですから、大きな気付きをもらえたと言えると思います。

多くのクライアントさんがそれこそ多種多様な悩みや問題を抱えて、セッションにいらっしゃるのですが、根底にあるセラピーの考えはすべてこれなのです。

つまり、勇気を持ってセラピーにいらしたということは、当面の問題がすぐにどうこうなるということよりも、人生レベルでとても大きな変革のチャンスが到来していると見ることができるのです。

ピンチはチャンス、失敗は成功のもと。こうした言葉は概ね似たような意味が込められていますね。今回、帯状疱疹になったことも、まだまだ根深く残っている自分の心の闇の部分を少し見つめることができたかもしれないと思っています。

頑張る理由

世の中には、頑張らなければならないという信念を持っている人が意外に沢山います。頑張ったと認められた人は誰からも賞賛されますね。

そうやって、頑張るということがとても大切なことでもあるかのように思われてしまっています。しかし、頑張ると一口で言っても実にさまざまな頑張りというものがあるのです。

自分が望まないことではあるけれども、それを頑張ってやり通すことに価値があるのだという場合。あるいは、やりたくて仕方のないことなので自然と頑張ってしまう。

また、頑張ってるつもりは全くないのだけれど、人から見ると頑張っているように見えてしまうという場合など。本当に千差万別の頑張りがあるのです。

そうした中で、自分が頑張っている自覚のある場合、つまり頑張るべきだから頑張っているんだというような場合について見てみたいと思います。

なぜその人は頑張るべきだと思っているのでしょうか?頑張るとどんなメリットがあるのかということについて考えてみれば答えはおのずと出るはずです。

それは大抵、頑張ることで人からも自分自身でも認められる、それだけ評価されるということがあるのです。頑張った末にそれなりの結果を出すという期待が込められてもいます。

こうしたことの究極の目的とは、自分の存在意義を見出すということなのです。自分は役に立っている、自分は人から認められて安心できるという大きなメリットがあるのです。

そうした心の裏には、自分には価値がない、自分は駄目な存在なんだという自己否定が隠されています。それを払拭するためにも頑張らねばならないのです。

ですが、こうしたメリットは一過性のもので、いい結果を出したとしても明日失敗したらすべてがパーになってしまうということは分かりきっています。

ですから、この頑張ることで自分の価値を見出そうとする目論見というのは、生きている限り続けなければならないことになります。

そして自分の本音を殺してまで頑張るということは、結局自己犠牲を払うことにつながり、それは大きな怒りを蓄積することになってしまうのです。

したがって、この頑張る人生の結末は目に見えています。人から一過性的に賞賛されることがあったとしても、本人はいくらいい評価をもらえたところで、心の底から休まることは決してないのです。

みなさんはどんな「頑張る」を持っていますか?頑張るべきとか、頑張らねば、という意味に近いものを持っているという自覚がある場合には、上記のことをよく考えてみることが必要だと思います。