ぜんまい仕掛けのお人形

小さな子供の時に買ってもらったロボット型の人形がありました。ぜんまいを巻くと、ジイジイという音をさせながら腕を振って歩くものです。

それはとても強そうな面構えをしていて、ブリキで出来ているためにとても頑丈そうに見えました。ひ弱で情けない自分とは違って喧嘩をしても負けそうにない感じなのですぐに気に入りました。

自分がそのロボットになったつもりで、堂々といろいろなところをジイジイ言わせながら歩かせて遊んでいたと思います。

またあるときは、そのロボットを自分の家来のようにして自分の言いなりにしてご満悦だったのでしょうね。自分の思い通りに動かすことができるので、自分が強くなったような錯覚をしていたのだと思います。

そのロボットは絶対に自分に逆らってくることはなく、安心していつも一緒に遊んでいられたのですが、あるとき何のせいか機嫌が悪くて、ロボットを見てると憎たらしくなってきたのです。

そして自分のイライラをロボットにぶつけて蹴飛ばしたのですが、そのときはじめてロボットと遊んでいて怪我をしてしまいました。足を痛めてしまったのです。

自分には決して逆らったりしない絶対服従だったはずのロボットが自分を怪我させたと思いました。そうしたら、益々そのロボットのことが嫌いになってしまいました。

それからしばらくはそのロボットで遊ぶことをしなかったと思います。時が過ぎて、ふとロボットのことを思い出して見てみると、そこにはかつての仲間のように遊んだあのロボットが待っていてくれました。

あの時何であんなにロボットのことがいやになったのか、全く分かりませんでした。穏やかな気持ちで見てみると、とても大好きだということを思い出したのです。

ロボットはいつもただそこにいてくれただけだったのですね。自分の心がささくれ立っていたときに、ロボットに怪我をさせられたと被害者の気持ちになって相手を嫌ってしまっただけだったのです。

自分の気持ちが元に戻れば、ロボットはまたいつものように自分が遊ぶ相手として最高の仲間になってくれるのです。

大人になった今でも周りには沢山のぜんまい仕掛けのお人形たちがいてくれます。彼らはただそこにいてくれるのですが、自分の気持ちをそのまま見せてもくれるのです。

そして気付いたのですが、自分自身も周りのみんなのぜんまい仕掛けのお人形の一人なんだといういうことです。その気付きは自分の心をとても落ち着かせてくれました。

満たされた心とは

昨日の続きのような内容になりますが、心が満たされる、あるいは満たされた心とはどうやって手に入れられるのでしょうか?

実は何か外的な要因によって心が満たされるわけではないのです。自分の周りにどんなことが起きようと、そのことで心が満たされることはあり得ないのです。

心とは元々が満たされた状態、あるいは満たされた属性を持っているものなのではないかと思っています。

だとすると、自分の心が満たされてないと思うとは、心本来の性質そのものを忘れてしまっている状態であると言い換えることができます。

それならば、満たされた心の状態を思い出すことさえできれば、心は満たされることになるということですね。

ではどんな方法によってその心の本来あるべき姿を思い出すことができるのでしょうか?それは、心が満たされた状態ではこういうことになるはずということを真似ればいいのです。

誰かを憎んでいたり、絶対に許せないと思って相手を罰しているときに、満ち足りた心を感じることは不可能だと誰もが知っています。

不安や恐怖、そして怒りから相手を攻撃しているとき、あるいは攻撃したいと望んでいるときにもけっして心は満たされてはいません。

その逆にそういう強い感情に乱された状態から平安な心に変化すれば、きっと満たされた心を思い出すことができるはずです。

だとすると、本当に満ち足りた人生を生きたいと願うのであれば、心の平安を願い、心が平安な状態でいられるように練習することです。

それが必ずや本来の心の状態である満ちたりたという喜びをもたらしてくれるのです。何が起きたかとか、どんなことをされたのかなどは本当に瑣末な取るに足らないことだと分かることです。

心の平安を真剣に願い、そのためにこそ生きるのだということを改めて決意することがとても大切なことではないでしょうか。

取るに足らないもの

私たちは誰もがこの世界でうまく行く人生をつかみとりたいと願っています。大切な人たちから愛されながら、欲しいものを十分に手に入れて満足の行く人生を望んでいます。

しかし逆に誰もが何を手に入れたとしても本当には満足することはできないということにも気付いているのです。

気付いていないとしたら、気付いていないふりをしているに過ぎません。なぜなら、そのことに気付いてしまうと、どう生きていったらいいのか分からなくなってしまうからです。

だから必死に気付かないようにして、手に入れられたものや叶った願望のことだけを意識するようにして毎日をやりくりしているのです。

でも私は本当に気付いてしまいました。この世界で何を手に入れようとも、決して満足することはできないということを。

それを認めるしかなくなってしまいました。しかしだからといって、どう生きて行ったらいいのかという目的が分からなくなったわけでもありません。

逆に明確な目的ができたのです。それは、きっと誰からも見ることのできない内面的な満足感を得ることなのです。

私たちが求める幸福とは、大抵は人からもそれが見えるものでできていると思い込んでいます。人から賞賛されたり、羨ましがられたりすることを伴っているはずと思っています。

ところが内面的な満足感は本当に本人にだけしか分からないものです。そうしたものを少しでも垣間見ることができると、逆に今まで求めていたものがすべて取るに足らないものばかりだということにも気付くことになるのです。

だから自分の人生に何が起きているか、どうなっているのかということに興味を持たなくなっていくのです。そこには何の意味もないし、どうでもいいことばかりに思えるからです。

内面的な深い洞察からやってくる心の平安こそが本当の幸せであり、愛の状態なのです。それをほんの少しでも体験すると、そのほかのことはどうでもよくなるのです。

だから本当に愛に目覚めたとしたら、一体どうなってしまうのか見当もつかないくらいです。満ち足りた人生とはそういうところからやってくるだけなのです。

自分を手放す

私たちが持っている苦悩は、そのすべてが自分への執着から来るのです。自分を価値あるものと思いたいという強い欲求があるために、日々せっせと価値を手に入れるべく頑張るのです。

ところがどうしたわけか、頑張れば頑張るほど、価値を見出そうとすればするほど、幸せになるどころか辛く苦しい人生になっていってしまうのです。

自分の生きる原動力がすべて価値ある自分を作り上げるというところから来ていると、確実に自己犠牲という罠が待っているのです。

今日一日を生きる原動力をほかのものにしてみませんか?自分に価値があるかないかということをすっかり忘れて、楽しむことに精を出すことです。

価値のないことは馬鹿馬鹿しくてやる気にもならないと感じるとしたら、かなり重症かもしれません。一旦立ち止まってゆっくり周りを見回してみることです。

そこに愛があるなあと感じる時には、きっと価値があるかどうかは考えてないはずです。そういう心の状態こそが自分を幸せにしてくれるのです。

価値ある自分でいたいという強力な欲望を徐々に手放していくことです。それができない限り、エゴと本当の自分との違いが分からないで生きていくことになってしまいます。

それは深刻でまじめではあるけれど、少しも満たされることのない、苦悩の人生です。少しは頑張った成果を享受することができたとしても、また明日から過酷な毎日が待っています。

その繰り返しです。どうでもいいこと、くだらないと普段だと切り捨ててしまうようなことを、一度立ち止まって眺めて見ることです。

どこに幸せの種が転がっているか分かりません。そういうものを価値基準だけで見逃してきたとしたら、なんともったいないことでしょうか。

袋小路からの脱出

苦しんでいる人は自分が真っ暗な袋小路にでも迷い込んでしまったと感じているかもしれません。四方八方の暗闇で、自分では光への出口が見つからないのですから。

その人は本当に自分なりに努力してきた末にこうした暗闇にどうしたわけか迷い込んでしまったと思っているのです。

一生懸命頑張れば頑張るほどに、人生がうまく回らない状態になってしまうし、藁をも掴む思いで本を読み漁ってみたり、これはと思うものに出会ったらそれを試してみるのです。

しかし、そうすればするほど、結局自分の気持ちとは裏腹に事態は悪化していき、にっちもさっちもいかないような出口のない洞窟の中でうずくまってしまうことになるのです。

これは典型的なエゴが使う悪循環の手口なのです。本人はまじめに自分の人生に取り組んでいるのですが、その視野の狭さをうまく利用してエゴが翻弄することに成功するのです。

視野が狭いとは、一つのことしか考えられないということです。全く違った発想で物事を捉えなおしてみるということができないのです。

私たちの自己像は自分が握っている信念や信条というものから大体出来上がっているのですが、そうしたもののルーツはすべて過去にあるのです。

そしてその過去を後生大事に抱えて自分の自己像の正しさを証明しようと努めているのです。本人がどんなにそれが大切だと思ったとしても、その結果が袋小路を作り出したとは分からないのです。

苦悩の中であえいでいる人がそこから脱出するたった一つの方法は、その袋小路を作っているのは自分の自己像だということにはっきりと気付くことなのです。

誰のせいでもない、過去に作り上げた自己概念そのものがそうした袋小路を作り出したのです。だからこそ、自分の正しさの中でどんなに努力してもそのこと自体が袋小路をより強固なものにするということに気付かないのです。

自分が信じている自己像のままにいくら頑張っても、未来もその袋小路の中にい続けることになるのは明らかであると分かることです。

もしも少しでもそのことに気付くことができたら、自分の今までの頑張りと努力を笑い飛ばして水に流してしまうことです。

そのときにこそ、すぐ目の前に光の差し込む出口があったということに気付くことができるのです。あとはそこに向かって進んでいくだけです。それが癒しというものですね。

喜びを邪魔するもの

私たちはいつも苦しむことよりも楽しむこと、喜んでいるほうがいいと思っています。気の進まないことをし続けるよりも、興味のある大好きなことをしたいと思っていますね。

嫌いな人と一緒にいるよりも、好きな人といたいし、苦手なことよりも得意なことをしていたいと思っています。面白みのない仕事よりも、やりがいのある仕事をしたいとも思います。

しかし必ずしもそのように思い通りにはなっていないのが現実かもしれません。それはどうしてなのでしょうか?その理由の一つのパターンについてお話しします。

たとえば、世界中をぶらっと旅でもしたいなあと思ったとしても、女性の場合でしたら一人では危険だし、それに寂しいからという理由で実現しないかもしれません。

自分はミュージシャンになりたいと思ったとしても、そんなのでは生活していけるかどうか分からないし、きっと親も反対するに決まっていると思うと決断できなくなってしまいます。

片思いの大好きな人がいても、思い切って告白することができないのは、交際を断られてしまったらつらいという恐れが邪魔をするからですね。

本当は告白してみないと分からないのですから、せっかくのチャンスを逃してしまうことになってしまいます。こうしたことは日常的によく耳にすることです。

このようにして、私たちは喜びや楽しみなどを手に入れることを自ら放棄してしまったりするのです。それは、恐怖や不安、そして罪悪感などが邪魔をするからなのです。

結果を恐れずにやりたいことをやっていくことができたら、もっともっと満足のいく人生にしていけるはずですね。

誰かに申し訳ないとか、こんな自分では駄目だからなどという罪悪感や自己否定感などで、いつまでもやりたい仕事があるのに進めていくことをためらったりしてしまうのです。

自分の人生を思い返してみて、恐れや罪悪感に本当の喜びを邪魔されてないかどうか、チェックしてみることです。

そうして、もしも該当するようなことがあったとしたら、喜びよりも安全や安心を優先したのだと自覚することです。

こうした優先順位のつけかたが悪いということではありませんが、これはいつでも自分で変えることができるのだということを覚えておいても損はないと思います。

「無意味」という意味 その2

昨日のつづきです。

意味がないということは、価値がないということを言おうとしているのではなくて、価値があるとかないとかという価値判断ができないということを示しているというお話しをしました。

そして自分の中ではこの価値判断をしないという決意をこめて、「この世界には意味がない」という言葉を唱えるようにしているとも言いました。

それは価値判断がすべての苦悩の根源だからということです。今日はそのことについて少し詳しく書きたいと思います。

私たちは絶えず何かにつけて価値があるかどうかということを判断しながら生活しています。これは意識してもしなくても、物心ついた頃からずっと続いていることです。

形があるものにしても、形のないものにしてもありとあらゆるものに対して、この価値の有無、価値がどれだけあるのかを気にしているのです。

それは勿論自分にとって対象となるものや人に対して価値があるかどうかという判断をしているわけです。価値がないものは興味を持ちませんし、価値があると思えば大切にするし近づきたいとも感じるわけです。

その本質は自分に価値があると思いたいという強い欲求を持っているからにほかなりません。それは、自分は不完全な存在だという感覚を誰もが持っているからなのです。

不完全であるということは、何かが足りないという欠乏感と全く同じものです。逆に満ち足りた感覚というのは完全であるという思いからくるものです。

そして不完全であると思い込んでいる自分を完全なものにして満ち足りた心地になりたいと常に思っているのです。

そのことが自分を価値のあるものと思いたいという気持ちを作っているのです。実はそれを実現しようとして、大変な自己犠牲を払ってしまっているとも知らずに。

それがすべての苦悩の大元なのです。しかし、不完全なものを完全なものにすることは不可能なのです。 何事にも意味はないとして、価値判断を放棄することができたら、苦悩はなくなります。

そうすると、きっと本当の自分はすべてに満たされてた完全な存在なのだということに気付くことができるのだろうと思っています。

「無意味」という意味

意味がないという意味の無意味という言葉を、価値がないという意味合いで使うことがよくあります。つまり、無意味=無価値というように想定しているわけです。

そして「無価値」は当然否定的な言葉の響きを持っていますね。価値がないということですから、それは尊いとか大切なという意味の反対な意味を持っています。

しかし、突き詰めて考えてみると、意味がないということがそのまま価値がないということにはならないということが分かります。

「無意味」つまり意味がないということの本当の意味は、価値があるとかないとかといった価値判断ができないということを指し示しているのです。

たとえば、犬や猫たちにとってお金の価値を判断することはできません。自分の飼い主が自分の口座を作ってくれて、そこに100億円預金してくれても彼らは嬉しくないでしょう。

日本語しか理解できない日本人に、原文のハムレットを渡されてもその価値を感じることは全くできません。書いてある意味が分からないのですから。

このように、意味がないということは、価値を判断することができないということを指しているのであって、価値がないということを言っているわけではありません。

ですが、私たちはどうもここを勘違いして、無意味という言葉を使っているように思います。そして、もう一つとても大切なことがあります。

それは、価値があるかないかは、それを判断する人が決めるということです。対象物の価値とは、それを評価する人が決めているということです。

地球のあちこちにある世界遺産と言われる場所や建物などは、地球上から人類がいなくなってしまったらそれに価値を見出す人がいないのですから何の価値もなくなってしまいます。

私の内面的な標語になっている、「この世界には意味はない」という言葉があるのですが、それは自分はこの世界のあらゆるものに対して価値判断をしないということを示しています。

この世界は価値がないと言いたいのではないということです。価値がないと言ってしまうと、価値判断がそこに入ってしまうからです。

だからこそ、意味がないという言い方をするわけです。なぜそんな言葉が標語になっているかというと、人の苦悩は価値判断から来ることが分かっているからです。

なぜそんなことが言えるのかは、明日に続きを書きます。

プロセスに委ねる

人生、生きていると本当にいろいろなことが起こるものですね。願ってもなかなか叶わないようなことが喜びと共に起きてしまったり、逆にどうして自分の身にこんなひどいことがと思うような事態になることもあります。

何事もないような平坦な毎日が続く時期が続くと思うと、激動の時期がやってきたりすることもあるわけです。

私の場合には10年前の命にかかわる病気になったのが、変化のきっかけになりました。それまでは、本当に平凡過ぎるほど普通の人生だったと言えると思います。

その病気を転機にして、サラリーマンをやめることになって今のような仕事をするようになったのですが、その間にさまざまな人との出会いがありました。

催眠療法のスクールに通い出したころに、一度手痛い落ち込みも経験しました。自分は一体何を馬鹿げたことをやりだしてしまったのだろうという大否定がやってきたのです。

そのときには、ひたすら眠る毎日によって現実逃避をせざるを得なかったのです。その後は、今の仕事をするようになってしばらくはまた比較的落ち着いた日々でした。

しかし、二年前に奇跡のコースとの出会いを契機に、またいろいろなことがやってきています。ですが、それは人の目からは見えない内面的なことが主なことです。

そしてこうした人生のプロセスは今後も続いていくわけですね。今までのプロセスを思い返してみると、10年前の自分では想像もできないくらいのことがいろいろ起きています。

ですが、とりあえず生きているわけですし、問題はあると思えばいろいろあるのでしょうけれど、全体としてみたらOKなわけです。

人生の流れに逆らわないこと、人生のプロセスをそのまま受け入れること、自分の力でどうにかしようと躍起にならないこと。こうしたことがとても大切だと今では分かるようになりました。

プロセスを信頼することです。プロセスに全面的に自分を委ねてしまうことです。プロセスと戦わないことです。何が起きてもすべては自分が愛に戻るために用意された賜物なのですから。

愛は罪悪感を蹴散らす

よくクライアントさんに信念、信条についてお聞きすると、多くの人が「人に迷惑をかけないように生きること」というようなことをおっしゃいます。

人に迷惑をかけたり、人から後ろ指をさされるようなことさえしなければ、あとは自分の自由に生きていいのではないかという考え方ですね。

自分の言動がほかの人の迷惑になってしまったり、いやな気持ちにさせたりすると、大抵罪悪感を感じてしまうのですね。

そうした罪悪感を持ちながら生きるのがしんどいので、何とかそれだけは避けたいという思いがあるということだと思います。

確かに人との関係の中で自分本位にばかりにしていたら、あの人はエゴイストだといわれてしまうかもしれません。

そんな人間にはなりたくないと思うので、自分の気持ちと相手の気持ちのバランスをとりながら関係を続けていこうとするのです。

しかし、相手に悪いなあと思うのは罪悪感が原因なわけですが、もしもそれを感じなくなってしまったとしたらどうでしょうか?

それはやはり自分勝手な人、自己中心的な人物というように見られてしまうかもしれません。ところが、いつもそうとばかりは言えないのです。

実は、本当は罪悪感を感じているのにそれを抑圧して分からないようにして、自分勝手な行動をとる場合には、周りからは自己中な人と思われるのです。

しかし、本当に罪悪感を感じないような場合には周りの反応が変わる可能性があるのです。それは愛によって罪悪感を感じなくなっている場合なのです。

その場合には、同じように自分勝手に見える行動をした場合でも、不思議と周りの人から否定的な目で見られることがなくなってしまうのです。

一見自己中だと見えたとしても、必ず後から理解してもらうことができるのです。愛とはそういう力を持っているのです。

人が愛で行動したときには、それがどんなに自分勝手に見えたとしても、それはいずれ受け止めてもらうことができるのです。

愛は当人の心からも、そして周りの人の心からも、罪悪感や罪を見る目を蹴散らしてなくしてしまうことができるからですね。