真実はシンプル

かつて沢山の物理学者たちがこの宇宙の法則を見つけてきました。それは大抵単純な数式で表すことができます。

たとえば、E=mc2 という式がありますが、これはアインシュタインが彼の特殊相対性理論の帰結として導いたものです。

内容の難しさからしたら、その結論としての式の何とシンプルなことでしょう。この結論を導き出すまでに、彼は自分では数式が解けないので、数学者に手伝ってもらっていたということを聞いたことがあります。

その結果、そんなにシンプルな式が最後の最後に与えられたのですから、その喜びは筆舌に尽くせないでしょうね。

この式は、この物質宇宙のあるレベルでの真実を表しているということが言えますが、残念なことにこれとてすべてを網羅しているのではないということが後になって証明されました。

心の世界でのことも全く同じようにして、シンプルであればあるほど真実に近いということが言えるのではないでしょうか?

人はエゴで物事を捉えたり考えたりするので非常に複雑になってしまうのですが、それは決して真実を反映しているとは言えません。

奇跡のコースの中で記述されている登場人物は、神と聖霊と神の子である我々の三つだけです。そこには、妖精や天使、守護霊やご先祖様など出てきません。

しかもそれはエゴである我々が読んで分かるようにそのように書いてあるだけであって、真実は愛である神しかありえないのです。

真実とはそこまでシンプルなのですね。では、神とは似ても似つかないエゴの自分は一体何なのでしょうか?真実はシンプルであるなら、複雑怪奇な我々は真実ではあり得ないということになります。

つまり実在しないということです。実在しないのなら、何でこんなブログを書いてるのか?それは書いているという妄想、この人生を生きているという妄想に過ぎないのです。

この複雑な世界に生きている複雑な我々の本当の姿は愛そのものであって、それはすべてが一つであるという最もシンプルな想念であるだけなのだということです。

身体の痛み

ずっと以前から身体の痛みというものは一体何なのだろうか?という疑問を持っていました。そんなことをわざわざ考えなくてもいいようなものですが、子供の頃から自分の中で大きな問題だったのだと思います。

時々お腹が痛くなることがあったからかもしれませんし、もっと幼い頃にはいつも具合が悪くて肉体的な苦痛を感じながら生きていたというのも理由かもしれません。

どんなにそれをいやだと思っても、苦痛はやってくるのですから、何とかならないものかと考えるのも当然といえば当然ですね。

これだけは、どんなに両親に頼み込んでも助けてもらえるわけではないですし、自分ひとりでその痛みと戦わなければならないわけです。

心の癒しをするようになって、身体の痛みはすべからく心の痛みからくるものだということが分かるようになりました。

心が健康そのもので身体だけが苦痛を訴えるということはあり得ないということです。ただし、その元になっている心の痛みを見ようと思っても通常見ることはできません。

なぜなら、それは自分にとって都合の悪い部分だからなのですし、だからこそそれを身体の痛みとして形を変えて自分に見せつけようとするわけです。

初めから心の痛みを自分に隠さずに見つめてあげていさえすれば、わざわざ身体の痛みとして訴える必要もなかったわけですから。

身体の痛みが現在のものだとしても、その元になる心の痛みは間違いなく過去のものです。過去のどこかの時点で傷ついた心がその痛みを今になって身体を利用して見せ付けているのです。

身体の痛みがしつこくて強烈であるという人は、過去に沢山の心の傷を負っていて、それを次から次へと無自覚に心の奥に隠して生きてきたということになります。

ですから時間はかかるかもしれませんが、丁寧に過去を紐解いて自分の心にどれほどの傷を隠し持っているかを調べてあげることが必要です。

ただし、こうした過去を洗い出す作業には終わりというものがありません。いくら繰り返してももうこれで終了ということにはならないのです。

ですから、ある程度処理することができたなら、その後は痛みそのものを受け入れて心を受動的な状態から与えるという能動的な方向へ積極的に変えていくことが重要です。

そうすることで、身体の痛みを使って訴えていた受動的な気持ちを使わなくなっていくことができ、結果として身体の痛みは激減することになっていくはずです。

求めよ、されど得られず

私は若いときにはお金がない割に欲しいものが沢山あって苦労しました。年齢を重ねていくと、次第にそれほど欲しいと思うものがなくなってきます。

それでも、何もいらないという境地にはならないのが普通だと思います。私たちは欲しいもの、望むものが手に入ると幸せになると錯覚しているのです。

確かに手に入れた瞬間は喜びがやってきますが、それはほんのつかの間の出来事であって、またすぐに次なるものを手に入れようとして頑張るのです。

そうやって長い間生きてくると、さすがに何を手に入れたとしても本当には満たされることはないんだなと分かり始めてしまいます。

「求めよ、されど得られず」これこそがエゴの策略なのです。私たちが本当に求めているものとは、心からの満足感です。

それはどんなに外側に求めても得ることは出来ないのですが、エゴはそれを隠して求め続けなさい、そうしたらいつか満たされるはずと吹っかけてくるのです。

しかし自分を見つめる習慣がついている人ほど、これはトリックだと気付くことになります。エゴの言われるままに外側に求めているだけでは決して満たされないのです。

心から満たされる状態、それは永続的な心の平安をもたらすことになり、それこそが本当の幸せなのですが、今までのやり方では決して得られないとはっきり理解する必要があります。

そうした満たされた心というものは、本当はもうすでに私たちの心の奥にあるのです。ただそこにふたがされてしまっていて、分からなくなってしまっているだけなのです。

ですから、そのことに気付きさえすればいいのです。何も外側に求めなければいいだけだったのです。逆に、外側から何かを手に入れるということに意識を向けてきたからこそ、このことに気付けなかったのです。

何かの拍子にそのことに気付いてしまった体験をした人はきっと沢山いるはずです。私もあるときに自分は完全に満たされている、足りないものは何もないという状態になったことがあります。

それはあまり長い時間続かなかったのですが、でもその感覚は今も明確に残っています。多くの先達たちが座禅や瞑想に明け暮れていたのはそうしたことに気付こうとしてのことでした。

誰の心の中にも必ず自分は満たされていると自覚している部分があるのです。その部分と繋がることさえできたら、完全な幸せが手に入ったと感じることでしょう。

どうしたらその満たされた心の部分を自覚することができるようになるのでしょうか?そのヒントとなることをこれからもこのブログで綴って行きたいと思っています。

二つの夢

私たちは眠っているときに見る夢の中で隠された自分の願望を達成しているのです。私は何度か身体が浮いて空を飛べる夢を見たことがあります。

また、たまにですがスプーン曲げができるようになった夢も見ます。やっぱり曲がったよ、今回は夢じゃないよな?確かに現実だ!と実感する夢なのです。

なかなかくだらない夢なのであまり大きな声では言えないのですが、そのリアリティには本当にびっくりさせられてしまいます。

また、寝ているときの夢は大抵支離滅裂です。あまりストーリーもなければ、まったく現実のルールを無視している場合もかなりあります。

とても怖い夢や辛い夢などの場合には、それは自分の願望ではないと思うかもしれませんが、実はあれも自分の望みどおりなのです。

心の中のエゴは自分を傷つきやすい存在であると自分に思わせたいという強い願望を持っているため、そのエゴと自分を同一視すると、そうした恐ろしい夢やひどく苦しむ夢を見ることになるのです。

そうした夢から目覚めて現実の世界に戻ってくると、誰も夢の中の出来事をホンモノだとは思わないはずです。夢は夢で終わったわけですから。

ところが、その夢を見ることになった原因である自分の(隠された)願望そのものがなくなったわけではありませんね。

目覚めたあとでも依然として空を飛びたいと思っているし、スプーンを曲げられるようになりたいという願望を持っているのです。

誰かと争った夢であれば、その人を攻撃したいという怒りの感情をこの現実の世界でも持っているということですから。

こうした寝ている間に見る夢の特性とこの現実とはとてもよく類似しているのです。言ってみれば、この現実とは起きている状態での夢なのです。

寝ている時の夢と起きている時の夢は自分の願望が達成されている場面を体験するという点では全く同じものと考えられます。

寝ているときの夢の中で見る周りの世界はすべて自分の心の中にある思いであるということは誰もが知っている事実です。

しかし夢の中ではそのことに気付きません。夢の中に現れた人達が自分の心で作ったものだとは決して思わないのです。

この現実という起きている時の夢もそれと全く同じなのです。自分の外側には自分の心とは別の世界が存在していると信じています。

しかし真実は、寝ているときの夢のように自分の心の中の思い、願望を外側に投影してそれをあたかも自分とは違う外側の世界があるとしてみているのです。

この二つの夢はかたちは違えど同じ夢であることには何の違いもないのです。私たちは、この現実の世界で自分の心の願望を常に見ているということです。

その願望は実在の世界、真実の世界からはかけ離れたものですが、そのことを信じることなくこの現実こそが真実なのだと思って疑わないのです。

起きている時の夢の本当のねらいは、自分は全体から分離した個別の存在であって、そのことに価値があるということを証明しようとするものです。

それがすべては一つという想念である実在(愛)の真反対であることは確実です。愛のない現実という夢が悪夢であることは当然の結果であると言えます。

しかし落胆する必要はありません。この悪夢をすばらしい夢に変えていくことができるからです。エゴと同一視することをやめて、愛を見たいという願望を常に意識することで夢の見え方が一変するはずです。

そうすると、見るもの聞くもの、手に触れるものすべてが愛しいと感じることができるうれしい夢になっていくはずです。みんなでこの現実という夢を幸せな夢に変えていきたいものですね。

生まれてきてよかった

みなさんは自分が生まれてきた目的は何だろうと考えたことはあるでしょうか?セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、人生の目的と役割を知りたいという方が時々いらっしゃいます。

私自身は自分が生まれてきた目的について、あまり深く考えたことはないのですが、それはきっと目的などないだろうという思いが強かったからだと思っています。

同様にして役割などあるはずもないと思っていました。ある意味、ドライな考え方かもしれません。そして、楽しいこともあるけれど、どちらかというとこの人生を生きていることは面倒くさいことだと思っていました。

死にたいという気持ちとは全く違うのですが、どこかで早く過ぎ去って楽になれたらいいのにという感覚がいつもありました。

過去形で言っているのは今はそれがなくなったからなのですが、それはあるときに本当に生まれてきてよかった!という感覚になったことがあったからです。

瞑想中に大きな感謝の渦の中に投げ込まれたようになって、あまりの感動にうなり声をあげているときにはっきりとそう思ったのを覚えています。

この人生を生きてきてよかった、この自分をやっていて本当によかった、この人生で正解じゃないかという思いでした。

そうした経験をしてから、早く過ぎ去ればいいのにという思いが薄れていきました。それでもやっかいだなこの世界はと思うことは多々あるのですが、生きる目的ができたようにも思えてとても楽になりました。

生まれてきた目的は、勿論誰であろうとここで幸せになることです。そして、その幸せを周りの人達に伝播していくことだと思えるのです。

私たちは自分ひとりで幸せになることはできません。幸せはみんなのものだからです。もしもまだ生まれてきてよかったと思ったことがなければ、それはこれから必ずやってくると信じてください。

そのために生まれてきたのですから。それは自分が妨害し続けない限りかならずいずれやってくるし、そのときには本当に自分は恵まれていると感じて嬉しくなるはずです。

静かな心

私たちはほんのちょっとしたことで自分の気持ちが高揚したり、全く些細なことでうんと落ち込んでしまったりするものです。

そうした周りの瑣末なものによって、心が波打っておおいに影響させられてしまうと、もっとしっかりとした何事にも動揺しない冷静な心を持ちたいと思うものですね。

確かに、何かに巻き込まれてしまってパニックになっていたり、とにかく冷静さを欠いてしまってあらゆる不安に飲み込まれてしまうと、本当の自分の能力や判断を使うこともできなくなってしまいます。

しかし、よくよく自分の心の中をのぞいてみると、どんなときにでも静かにただ周囲を見ているだけの自分がいるということに気付かされます。

それは起きている事柄にあまりにも影響されてしまう自分からすると、まったく異なる自分の姿に見えてびっくりすることになるかもしれません。

でも誰の心の中にも確かにその静かにしていられる心の部分があるはずなのです。それは一体何者なのでしょうか?

よく危険な状態におかれると、周りがスローモーションのように見えるということが言われますね。私自身も幼い頃に家の脇にある川に三輪車ごと転落したことがあるのですが、そのときに周りの景色がスローモーションのように遠ざかっていくのをはっきり見ました。

そしてすごく冷静でした。それは川に落ちていくということに気付いていなかっただけかもしれませんが、それでも恐怖を全く感じなかったというのは普通ではあり得ないことです。

表面的な自分の意識がそのときに起きている事象に対処できないと感じたときに、一瞬降参するのではないかと思うのです。

そのときに、バックに控えているホンモノの自分の心が出てくるのではないでしょうか?それがどんな状態であろうとも静かに物事を見ているだけの心なのです。

私は10年ほど前に大腸癌になって手術をしたのですが、そのときにも表面意識では怖いし全くとんでもないことになってしまったと思っているのに、奥にある心はことのいきさつを静かに見ているようでした。

そこに意識をあわせると、どうしたわけか慌てず焦らずただ静かに成り行きを見守っているだけのように感じたのです。

その静かな心と繋がっているときには、何が起きようとも全く動じないでいられるのですから、なんと頼もしいことでしょう。

大きなパニック状態がやってこなくても、自然とそこと繋がることができれば、いつも穏やかな落ち着いた平安な心でいられることになるのです。

この静かな心と繋がる練習こそが瞑想なのではないかと思っています。
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分かち合う

エゴは何についても違いを見つけようとするのですが、分かち合うことはその反対です。違うことを互いに分かち合うことはできません。

全く違いがないという認識をしあうことこそが、分かち合うということの本質なのです。したがってそれは共感するということでもありません。

分かち合うことのできるものとは、変化をしないものです。なぜなら、変化してしまうものはそこに違いが出てきてしまうからです。

だとすると、この世界で変化しないものを見つけることは不可能ですから、この世界の中で真に分かち合うことのできるものは一つもないということになってしまいます。

違うということが空間を支えているし、変化することが時間を支えているのです。ですから時空がベースであるこの世界では分かち合うことはできないのです。

しかし、それは時間と空間の中で生きているという思いにおいての話しです。本当の世界は、時間も空間もないのです。

だからこそ、すべてが分かち合うことができるということが分かるのです。分かち合うとはコミュニケーションするということです。

それが愛です。愛は互いに愛を分かち合いつつ、それを繰り返し続けているものです。そうした世界にこそ、本当の私たちは生きているのです。

分かち合うことが愛の本質であり、愛は分かち合うことでその愛そのものを増やし続けています。それが本当の世界のすべてです。

苦しみや痛み、罪悪感や恐怖などは決して分かち合うことはできません。そこには愛がないからです。愛はすべては一つとして分かち合っている状態だからです。

ぜんまい仕掛けのお人形

小さな子供の時に買ってもらったロボット型の人形がありました。ぜんまいを巻くと、ジイジイという音をさせながら腕を振って歩くものです。

それはとても強そうな面構えをしていて、ブリキで出来ているためにとても頑丈そうに見えました。ひ弱で情けない自分とは違って喧嘩をしても負けそうにない感じなのですぐに気に入りました。

自分がそのロボットになったつもりで、堂々といろいろなところをジイジイ言わせながら歩かせて遊んでいたと思います。

またあるときは、そのロボットを自分の家来のようにして自分の言いなりにしてご満悦だったのでしょうね。自分の思い通りに動かすことができるので、自分が強くなったような錯覚をしていたのだと思います。

そのロボットは絶対に自分に逆らってくることはなく、安心していつも一緒に遊んでいられたのですが、あるとき何のせいか機嫌が悪くて、ロボットを見てると憎たらしくなってきたのです。

そして自分のイライラをロボットにぶつけて蹴飛ばしたのですが、そのときはじめてロボットと遊んでいて怪我をしてしまいました。足を痛めてしまったのです。

自分には決して逆らったりしない絶対服従だったはずのロボットが自分を怪我させたと思いました。そうしたら、益々そのロボットのことが嫌いになってしまいました。

それからしばらくはそのロボットで遊ぶことをしなかったと思います。時が過ぎて、ふとロボットのことを思い出して見てみると、そこにはかつての仲間のように遊んだあのロボットが待っていてくれました。

あの時何であんなにロボットのことがいやになったのか、全く分かりませんでした。穏やかな気持ちで見てみると、とても大好きだということを思い出したのです。

ロボットはいつもただそこにいてくれただけだったのですね。自分の心がささくれ立っていたときに、ロボットに怪我をさせられたと被害者の気持ちになって相手を嫌ってしまっただけだったのです。

自分の気持ちが元に戻れば、ロボットはまたいつものように自分が遊ぶ相手として最高の仲間になってくれるのです。

大人になった今でも周りには沢山のぜんまい仕掛けのお人形たちがいてくれます。彼らはただそこにいてくれるのですが、自分の気持ちをそのまま見せてもくれるのです。

そして気付いたのですが、自分自身も周りのみんなのぜんまい仕掛けのお人形の一人なんだといういうことです。その気付きは自分の心をとても落ち着かせてくれました。

満たされた心とは

昨日の続きのような内容になりますが、心が満たされる、あるいは満たされた心とはどうやって手に入れられるのでしょうか?

実は何か外的な要因によって心が満たされるわけではないのです。自分の周りにどんなことが起きようと、そのことで心が満たされることはあり得ないのです。

心とは元々が満たされた状態、あるいは満たされた属性を持っているものなのではないかと思っています。

だとすると、自分の心が満たされてないと思うとは、心本来の性質そのものを忘れてしまっている状態であると言い換えることができます。

それならば、満たされた心の状態を思い出すことさえできれば、心は満たされることになるということですね。

ではどんな方法によってその心の本来あるべき姿を思い出すことができるのでしょうか?それは、心が満たされた状態ではこういうことになるはずということを真似ればいいのです。

誰かを憎んでいたり、絶対に許せないと思って相手を罰しているときに、満ち足りた心を感じることは不可能だと誰もが知っています。

不安や恐怖、そして怒りから相手を攻撃しているとき、あるいは攻撃したいと望んでいるときにもけっして心は満たされてはいません。

その逆にそういう強い感情に乱された状態から平安な心に変化すれば、きっと満たされた心を思い出すことができるはずです。

だとすると、本当に満ち足りた人生を生きたいと願うのであれば、心の平安を願い、心が平安な状態でいられるように練習することです。

それが必ずや本来の心の状態である満ちたりたという喜びをもたらしてくれるのです。何が起きたかとか、どんなことをされたのかなどは本当に瑣末な取るに足らないことだと分かることです。

心の平安を真剣に願い、そのためにこそ生きるのだということを改めて決意することがとても大切なことではないでしょうか。

取るに足らないもの

私たちは誰もがこの世界でうまく行く人生をつかみとりたいと願っています。大切な人たちから愛されながら、欲しいものを十分に手に入れて満足の行く人生を望んでいます。

しかし逆に誰もが何を手に入れたとしても本当には満足することはできないということにも気付いているのです。

気付いていないとしたら、気付いていないふりをしているに過ぎません。なぜなら、そのことに気付いてしまうと、どう生きていったらいいのか分からなくなってしまうからです。

だから必死に気付かないようにして、手に入れられたものや叶った願望のことだけを意識するようにして毎日をやりくりしているのです。

でも私は本当に気付いてしまいました。この世界で何を手に入れようとも、決して満足することはできないということを。

それを認めるしかなくなってしまいました。しかしだからといって、どう生きて行ったらいいのかという目的が分からなくなったわけでもありません。

逆に明確な目的ができたのです。それは、きっと誰からも見ることのできない内面的な満足感を得ることなのです。

私たちが求める幸福とは、大抵は人からもそれが見えるものでできていると思い込んでいます。人から賞賛されたり、羨ましがられたりすることを伴っているはずと思っています。

ところが内面的な満足感は本当に本人にだけしか分からないものです。そうしたものを少しでも垣間見ることができると、逆に今まで求めていたものがすべて取るに足らないものばかりだということにも気付くことになるのです。

だから自分の人生に何が起きているか、どうなっているのかということに興味を持たなくなっていくのです。そこには何の意味もないし、どうでもいいことばかりに思えるからです。

内面的な深い洞察からやってくる心の平安こそが本当の幸せであり、愛の状態なのです。それをほんの少しでも体験すると、そのほかのことはどうでもよくなるのです。

だから本当に愛に目覚めたとしたら、一体どうなってしまうのか見当もつかないくらいです。満ち足りた人生とはそういうところからやってくるだけなのです。