金持ちの道楽

昔確か中国の方の金持ちが、わざと水虫にかかり、その痒みを癒すことで快感を得るという道楽をやっていたと聞いたことがあります。

真偽のほどは定かではないのですが、私はこの話しを聞いたときにもしかしたら自分も大金持ちだったらそういったことを考えるかもしれないと思いました。

残念ながらお金がそれほどない庶民は、お金を得るという刺激が欲しくて毎日頑張って仕事をするのです。勿論生活のためという題目はあるものの、月に一度の快感を得るためでもあるのです。

お金持ちはそうしたお金を得ることでの刺激がなくなってきてしまうために、何か他の刺激を求めるようになるのです。

現代のようにさまざまな楽しみがなかった昔の中国だからこその逸話なのかもしれません。中世のヨーロッパにおける何不自由ない裕福な貴族たちの生活ぶりも同じようなものだったはずです。

このように、私たちは常に刺激を求めて生きているのです。今のこの日本ではお金持ちも貧乏人でもそこそこいろいろな刺激を享受できる環境になっていますので、あまり奇抜な道楽というものは必要ないかもしれません。

しかし誰もが何らかの刺激を求めていることは確かなのです。それはなぜかというと、何かを我慢しているからに違いありません。

人は何か辛いことがあれば、そのことを忘れようとしてそれ以上に刺激の強いものを求めてしまうという習性があるのです。

それがいわゆる依存症というものです。つまり誰もが刺激依存症の中で生活しているのです。万人に共通のその辛いこととは、実は自分は個人であってみんなと分離しているという孤独感なのです。

それはとてもまともには見ることのできない心の奥に抑圧された大きな恐怖であるとも言えるのです。それを紛らすために刺激を求めているのです。

したがって幸せを求めていると思い込んでいるだけで、実は刺激を求めているのです。幸せとは永続的な心の平安ですから、刺激とはまったく無縁なところにあるのです。

だからこそ、本当の幸福感を得るには、自分はみんなと一つなんだということを思い出すことでしか実現しないということです。

心の平安を第一に目指しているかどうかを一度ゆっくりと見つめてみることはとても大切なことだと思います。もしもそうならOKですし、どうも刺激を求めてしまっていると思えるのでしたら、その目的も合わせて考えてみる必要があると思います。

セミナー開催

毎月の大抵最後の土曜日に「奇跡のコース」の勉強会を開いているのですが、そのために毎回半年以上も先の会場の予約をしています。

ちなみに今月予約をしたのは、来年の3月末の分をしました。毎回、そんな先の予約をしてしまって本当にいいのかなと無責任なことを思いながらも予約をしに行くのです。

そして実は、今年の3月頃には10月分の予約をしたのですが、その時に何とはなしにその会場を終日分予約してしまったのです。

勉強会で利用するのは、お昼の場合には1時~5時、夜の場合には6時~9時だけなので、残りは無駄になってしまいます。

それでも何だか一日分の予約をしてしまいました。今までずっとそのことを放っておいたのですが、いよいよそれが来月に迫ってきてしまいました。

そこで、結局以前開催したようなセミナーをまたすることにしました。2年前に何度か開催したこともあるのですが、今回はもう少しパワーアップさせたいと思っています。

セミナーを開催するのは嫌いではないのですが、何だか気乗りしないというか面倒臭いという思いがあるので、きっと自分の中で強制的に場所の予約をしてしまえばやるしかなくなるだろうという、これまた無責任な気持ちが無自覚のうちにあったのでしょうね。

どんな内容にするのか、まだ明確には決めてないのですが、きっと参加されるみなさんの深い癒しを促すことになると信じています。

私自身、そうしたセミナーではいつもとても深い愛の体験や、少し辛いのですが急激な感情の開放などを経験しています。

多少なりともご興味があると感じる方は、是非気乗りしないという思いをはねのけて参加していただきたいと思っています。

自分一人では決して体験できないような癒しのパワーを、セミナー会場で存分に感じることができると確信しています。

日にちは、10月30日(土)、場所は武蔵野公会堂第三会議室です。時間その他の詳細はまた追ってHP上に掲載させていただきます。

家族を守りたい

二十歳くらいのときにクルマの免許を取得してからというもの、かれこれ35年に渡ってずっと運転してきました。その間ほとんどクルマと縁が切れたことはなかったのですが、その中で二度ほど事故に遭遇したことがあります。

その二度目を、実は数日前に経験したのです。都心のとある交差点で信号待ちをしている際にドンという結構な音がして、後ろから追突されてしまいました。

30分くらいの間に必要な処理はすべて終わって帰路に着いたのですが、その間に様々な心の状態を見ることができてとても興味深かったのです。

まず、クルマをぶつけられたと同時に自分は家族と共に被害にあったという思いがやってきました。と言っても、誰も怪我をするようなレベルではなかったのです。

それなのに、何だか被害を被ったような思いと共に、こうした外敵から家族を守らねばならないというような使命感のようなものが持ち上がってきたのです。

冷静な自分は、怒りやその他何の感情もなく平静なのですが、原始時代からの父親の役割みたいな本能があるのかもしれないですね。

何だか追突してきた人を責めるような冷たい態度に出なければ家族の手前駄目だというような感覚なのです。大人の自分はどうでもいいと思っているはずなのですが、その両者は極端に違う意識でした。

もしも、自分ひとりでその事故に遭遇したとしたら、きっともっともっとその追突した人と和やかな雰囲気で話しをしただろうなと思うのです。

しかし、それは家族の手前してはいけないというような不思議な感覚があったのです。この事故のおかげで、自分の中に隠されていた知らなかった思いに気付くことができました。

それと同時に、いつもお世話になっているクルマのディーラーさんや、相手が加入していた保険会社の人の対応の素晴らしさにも感動しました。

家族を守りたい自分だけが、いやな目に遭ったと思っているだけで、センターの自分は逆にいろいろな経験もできてよかったなという思いがあります。

今、代車が来たおかげでそのクルマに乗る楽しみもできてしまいました。人は物事の捉え方が変わると本当に楽になってしまうのですね。

罪悪感を探す

個人セッションにいらっしゃるクライアントさんや講座を受講されているみなさんのお話しを聞いていると、人はいかに罪悪感に目がないかということを思い知らされるのです。

残念ながらそれをはっきりと自覚できる人はごく少ないのかもしれませんが、自覚のあるなしにかかわらずそれを求めていることは明らかです。

罪悪感という言葉よりも、自分への駄目出しを必要としていると言ったほうが近いのかもしれません。自己嫌悪や自己否定というニュアンスです。

情けない惨めな自分を見出そうとしているということです。幼い頃には大人と比べればそれは能力も経験も比べようもないくらいに劣っているので駄目出しは簡単にできます。

しかし、大人になるにつれて、そうそう駄目な自分というものを簡単には見つけにくくなってくるのも確かなのです。表面意識としては、駄目な自分など否定したいわけですから。

そうなってくると、何とか駄目な自分というものを探してやっぱり駄目なんだ、悪者なんだ、罪深いんだというように思おうとするということです。

ですから、傍から見ていると何ともわざわざ自分を落とし込むような体験や、思いなどを使って駄目な自分を証明しようとしているというのが見えてしまうのです。

自分に気が付いている人は、自分が罪悪感を求めている、駄目出しをしようとして手ぐすね引いて待っているとどこかで感じているのです。

単純な失敗やミス、病気や具合の悪さ、怠け癖、卑怯な考え方など、ありとあらゆるものを駄目出しの材料として使うのですから、どんな自分であっても駄目出しに困るということはありません。

やっぱりこんな自分は駄目なやつだという烙印を押すことで、なぜか安心することができるのですね。そこが自分と人との関係性の中での定位置とでも思っているかのようです。

そんなことで安心しようとする意識とは勿論幼い頃の自分の心に違いありません。その気持ちを十分に受け止めて、認めてあげることです。

何度も繰り返すことで少しずつわざわざ駄目な自分をみつけようとは思わなくなってきます。罪悪感は誰のことも幸せには決してすることはないですから、こうしたことをしっかりと心に留めて生活することは大切なことだと思います。

願望成就は幸せではない

私たちの人生とは様々な願望を成就するかあきらめるかの歴史でしかありません。勿論誰でも願いが叶ったら嬉しいのですが、そうなんでも願いどおりになるわけではないと知っています。

あるときには、好きで好きで堪らない異性のことをあきらめねばならないかもしれませんし、希望している学校にも入れないことがあります。

大切なことは、望み通りの現実にならなかった場合にどのようにそれを処理するかということなのです。いつまでもその願望にしがみついていると、それは執着になってしまいます。

特定の異性への執着はストーカーのような人生になってしまうかもしれませんし、志望校に入ることへの執着は、いつまでも学歴コンプレックスとして残ってしまうかもしれません。

逆に、願望が達成されたからといって、本当の幸せがやってくるとは限らないということも知っておく必要のあることです。

私は、会社員をやめて何か別のことを自由気ままにやって生計を立てられたら夢のようだなと思っていました。でもそんなことはきっと実現しないだろうと、サラリーマンの頃思っていました。

ところが会社をやめて今の仕事をするようになって、その夢が叶ってしまったときに本当にありがたいと何度も思ったのですが、ではどれだけ幸せになったかというとそうでもないのです。

比べることによってとても恵まれていると感じることはできますが、今の生活が日常的になってしまうとそれはある意味普通のことなのです。

とても愛しているこの人と結婚できたらこれ以上の幸せはないと思っていたのに、結婚生活はそれほどでもないとほとんどの人が感じているのと同じです。

幸せな心の状態とは、願望を達成することではなく、願望を手放すことなのです。ですから、願いが叶わなかったときにそれを手放す練習をすることが幸せへの近道だとも言えるのです。

与えることで気付く ~コースの教え~

この世界の法則では、一般的に何かを与えた人はそれがその分だけ減り、与えられた人はその分だけ増えるということがありますね。そしてプラスマイナスゼロとなって、帳尻があうわけです。

しかしこの法則が成り立たないケースもあります。それは、お金や物のように目に見えるものではなくて、たとえば情報や考えなどの場合です。

自分はこう思うというような自分の考えを相手に伝える場合に、それは伝えた側で減ることはなく、伝えられた人にはもしかしたら新しい考えとして増えることになるかもしれません。

この場合にはプラスマイナスの帳尻は合わないですね。伝える側は与える側とも言えますが、与えても何も減らないということです。

このブログもその一つの事例と言えると思います。私の心の中にある何かの思いを文章にして公表しても、私は何も失うことはありませんので何も減らないのは当たり前です。

そして、このブログを読んだ人も何かが減るはずはありませんし、もしかしたら新しい考え方だとして何かが増えたと感じる場合があるかもしれません。

実はブログを書く目的は伝えることだけではないのです。伝えることで自分が今まで分かっていたと思っていたことが更に明確になったりするのです。

場合によっては、理解していたと思っていたことを伝えることによって、新たな気付きとして体感することさえできることもあります。

私たちが本質的に与えられるものといえば、それは愛です。相手を愛しいと思うことや、その思いに従って何らかの奉仕をすることがあるかもしれません。

いずれにしても愛を与えても、愛は減らないですし、与えられた人は愛が増えるのです。そして、愛を与えた人だけが自分が持っていた愛に本当に気付くことができるのです。

シンプルなことですが、持ってもいないものを与えることはできないわけですから、与えることで自分は与えただけの愛を持っていたんだと気付くことになるのです。

自分の愛に気付く方法は実はほかにはありません。そして、愛を与えた人の心は、与えただけの愛が増えることになります。これが愛の法則です。

もしも自分の心の中に愛があるかどうか知りたいのでしたら、損得を度外視してとにかく与えてみることです。きっと、暖かな何ともすがすがしい愛の存在を感じることができると思います。

都合の悪い自分

私たちは誰でも自分にとって都合の悪いことからは目を背けようとしてしまいます。これはもう人間の本能であると言ってもいいかもしれません。

人間に限らず、動物でも都合の悪いことを無視してみたり、忘れようとすることはあるみたいですね。子供の頃に飼っていた犬の目の前にお菓子を置いて、「おあずけ」といって席をはずしてしまいます。

そうすると、彼はしばらく「おあずけ」の命令を守っているのですが、そのうちには我慢ができなくなってそのお菓子を食べてしまいます。

戻ってきて彼の様子を見てみると、食べてしまったお菓子のことはまるでなかったかのようなそぶりをするのです。

あれ!「おあずけ」にしておいたお菓子は?と言ってお菓子を置いておいた場所を指差すと、僕は知らないよというような態度をします。

それがおかしくて、そういういじわるを何度もやって遊んでいたことを思い出します。犬でもそうですから、人間が都合の悪いことを見ないようにするのは当然なのでしょうね。

都合の悪いこととは、自分は駄目なやつだということを感じてしまう自分のこととか、感じると苦しくなってしまう感情そのものなどを指します。

都合の悪い自分、都合の悪い感情、それは認めたくないこと、認めるのが辛いことともいえると思います。

そのほかにも都合の悪い自分というのがあります。意外かもしれませんが、多くの人にとって素のままの自分というのはかなり都合が悪いのです。

一昨日のブログで書いたサバイバル状態で生きている子供の意識にとっては、無邪気な自分、何も考えずに素でいられる自分というのはとても都合が悪いのです。

無邪気な自分を出してしまったら生き延びられないと思い込んでしまっているからです。だからこそ、その都合の悪い無邪気な自分は癒しを進める途中でもなかなか出てきてはくれません。

その自分にOKを出せるようになると、かなり癒しが進むのですが簡単ではありません。そして最後の誰にとっても最も都合の悪い自分というものがあります。

それは、本当の自分、愛の塊である満たされた自分の姿なのです。これこそが一番今の自分にとっては都合の悪い自分なのです。

そのことに気付いていくことこそが究極の癒しの道なのです。

鬱は心のストライキ

鬱といっても人によって、それぞれ少しずつ違いがあります。ただ、鬱々とした状態ではあるけれど、ごく普通の生活が営めるレベルのものから、身体が動かなくてやるべきことが何もできないようなものまで様々です。

しかし、それぞれ違いはあれど、鬱症状の根源とは今までのやり方、生き方のままでは自分がもたないので何とかして欲しいという訴えであると思って間違いありません。

それも切羽詰まった主張であるため、それはストライキを起こす労組のようなものだと言えるわけです。このままでは自分は困ったことになってしまう、もう我慢も限界だ。

だから、ストライキを起こして自分の主張を通してもらおうとするのです。ストライキと表現したのは、ごく普通にできることを何もしないようにさせられてしまうからです。

身体が動かない、朝起きれない、出かけられない、気力がまったく出ない、これは身体を使ったある種のストライキなわけですね。

困るのは、今まで普通に生きてきた自分なわけです。このストライキは軽いものですと、ある一定期間が過ぎるころには元に戻るのです。

しかし、度重なるストライキにも関わらず、自分の生き方を全く変えようとしない場合には、相当大きなダメージを自分に与える必要があるとして激しいストライキに突入してしまいます。

自分がストライキに遭遇していると自覚できるような場合には、心からそのことを受け止めてあげることです。そうして、ストライキを起こさざるを得なかった自分の苦しみを認めてあげることです。

ストライキを起こさなければ自分が破綻してしまうと思ったからこその最終手段としてのストライキだということを分かってあげることです。

ストライキなど起こす自分は本当に怠け者だとして否定的にとらえてしまうと、人生は何も変わらずにこれまで以上にストライキが続くことになってしまいます。

ストライキは自分を見つめなおす絶好のチャンスが到来したということなのですから、自分はどんな無理を自分にさせてきたのか、どれほどの自己犠牲を強いてきたのか、そういうことをしっかりと検証することです。

自分のこれまでの正しさ、信念、信条、生き方などを見直して自己犠牲を強いない毎日を送れるようになれば、自然と鬱症状は消えていってしまうのです。

サバイバル

幼い子供にとって、家庭の中が安心していられるような場所でないと感じるような場合、毎日がまさにサバイバルのようなものだと言っていいと思います。

つまり、毎日楽しいことを探すというような無邪気な心で生活するどころではなく、どうやったら無事に自分は生き延びることができるだろうかと四苦八苦しているということです。

これはオーバーな表現に聞こえるかもしれませんね。大人の目線からは到底分かりようがありません。しかし、よくよくその子供の心を見てあげればすぐに分かることです。

父親と母親がいつも仲が悪かったり、家族の誰かが誰かを痛めつけていたり、そんな状態ではどうやっても安心などしていられないのは当然のことですね。

子供は自分が家族を何とか助けたいと思うのですが、所詮子供ですから何もすることはできません。それを子供心に自分は何て無力なんだろうと悲嘆するのです。

辛そうで幸せそうではない家族に対して、子供は子供なりにかわいそうに感じるため、無邪気な態度で家族と接することができなくなってしまいます。

つまり、甘えたり訴えたり、怒ったり、文句を言ったり、駄々をこねたり、そうした子供らしい毎日を過ごすことを自分からあきらめてしまうのです。

そうした本音を心の奥にしまいこんで、本当は大変な不満を抱えたまま大人になっていくことになります。そうすると、その隠し持っている不満や感情が日常生活のどこかに顔を出すことになります。

そして、困ったことに大人になっても幼い頃のサバイバルな人生をやめることができなくなってしまうのです。本人の生きる目的は、まさに生き延びるということのままになるのです。

そのため、他人からの評価を悪くしないようにと頑張る人生が待っています。そうやって、いやなことでも我慢しつつ人から認められて、生き延びようとするのです。

今日もいい評価をもらえて生き延びることができたと感じると、それが本人にとっての幸せだということになります。これが戦場で生きているサバイバルな人生を送っている人の姿です。

これでは一生を戦火の中で生き延びるという目的どおりの人生を送り続けることになってしまいます。みなさんは自分の人生をサバイバルだと感じてはいませんか?

もしも、そんな気がするという場合には、生きる目的をきちっと設定しなおす必要があるということに気付くことです。

そして、生き延びることが幸せに繋がるのではなく、サバイバルをやめることによってのみ心の本当の平安を手に入れることができ、それこそが今まで味わったことのない幸福感に繋がるものだと知る必要があるのです。

小さな世界 ~コースの教え~

自分にはこの身体があって、きっとその内側に自分自身が入っているという感覚が普通なのではないかと思います。身体の外側に自分がいると思っているはずはありませんね。

この肉体の内側だけは、外側の世界とは全く遮断された自分だけの独自の領域だと思っているのです。そしてそこは決して他人から侵害されることはありません。

勿論物理的に手術などでお腹を開いたりされることはあるものの、それも一時的なものでしかなくすぐにまた自分固有の世界に戻してもらえます。

この肉体に守られつつ身体の内側にいて外を伺っているのが自分というわけです。その自分というのは、自分の心を指しているといって差し支えないでしょう。

そうやって、身体の内側と外側が完全に分離していることで、自分と外側がはっきりと分け隔たれていることで安心しているのです。身体はある種の要塞のようなものですね。

身体の内側の小さな世界だけが自分であって、あとの外側は自分ではない別の世界が広がっていて、そこには数え切れないくらいの人や動物やらが沢山生きていると思っています。

そしてこの小さな世界だけを持っている自分というものがとても特別な存在なのだという思いを強く持っています。他とは比べるべくもない、大切な自分だというわけです。

その特別さは他のどんなすばらしいものと比較しても、ひけをとらないくらいに重要な感覚なのです。他の誰でもない60億人の中のたった一人の自分。

生まれてから今までずっと自分でいたその感覚にも特別さというものを感じてしまいますね。他の誰でもない自分は断じて一人しかいません。

こうした誰でもごく普通に持っている自分という感覚が、実は本当ではないと知ったらどうなるでしょうか?奇跡のコースでは、個別の自分というものはいないときっぱり言っています。

確かにその考え方は一見突拍子もないように感じられて当然なのですが、それを丁寧に紐解いていくと、最後にはこの世界でどうやったら幸せになれるのかというところに行き着くのです。

大切なことはここで幸せになること、その一点しかありません。何かわけの分からないことをもっともらしく勉強するのが目的ではありません。

もっとも基本的なこと、ただ幸せになるための訓練をみんなでしていこうと言っているだけなのです。そのために、インドに座禅をしにいかなくても、山奥で瞑想に明け暮れなくても大丈夫だと教えてくれています。

ごく普通の生活の中で、最短コースで幸せになる方法を教えてくれているのが、奇跡のコースなのです。そういわれたら、興味を持ちませんか?

その教えに取り組むかどうかは、自分の判断で決めていけばいいだけです。幸せになるために必要なすべての教えがあなたの前に用意されているのですから。