瞑想や座禅などをして、自分自身について深く見つめるという場合、実は気づかぬうちに間違った内面の見つめ方をしていることがあるのです。
そのことについて、私の事例を使って説明してみたいと思います。11年前に、会社員を辞めるまでの間、自分の人生はそこそこいいんじゃないのという思いを持っていました。
つつがなく安全な人生、誰からも後ろ指を指されない平和な毎日。そうしたものに自分で自分に満足していたのだと思います。
それは自分という人間を外側の視点から見ていたわけです。つまり、他人が自分をどのように見ているのかということを類推して、それを自分なりに判断して自分の評価としていたということです。
でもそれはいつまでも自分を騙しておくことはできませんでした。なぜなら、誰にも知れない心の奥で何かが違ってるということを感じていたからです。
このままじゃ違うんじゃないの?という声は自分以外の誰にも聞こえるものではありませんが、最終的に癌を患ったことによって噴出してしまいました。
それまでも自分の内面を見つめるということをまったくやっていなかったわけではないのですが、結局は外側の視点から自分の内面を見ると言う離れ技をやっていたということです。
本来それは不可能なことですね。つまり、こうした視点を間違ったままで、いくら瞑想や座禅をしてみたところで何の価値もないということです。
話しを元に戻すと、私たちにとって最も大切なことは、自分の内面という視点から内面を見つめるということなのです。
それには、一切の予備知識や常識などの前提となる評価基準などを度外視して見つめることがどうしても必要なのです。
それは、今この瞬間にただ自分が感じることだけを頼りに、内面を見るということです。あるがままをそのままに見るということでもあるのです。
それができて初めて、自分を本当の意味で内面から見つめることができるようになるのだと思うのです。
もしも本当にそれが十二分にできるとすると、きっとあらゆる自分に対して全面的にOKを出してあげることができるのでしょうね。
それこそが本当の心の平安を得ることでもあるし、真の許しということでもあるのだと思うのです。