「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という有名な言葉を残している「葉隠」という書物がありますが、あの中で次のような文章があります。
「幻はマボロシとよむなり。天竺にては術師のことを幻出師と云ふ。世界は皆からくり人形なり。幻の字を用ひるなり。」
「葉隠」の著者は、数百年も前にこの世界は幻想だということに、気づいていたということなのでしょうね。
物事を深く見る眼力のある人は、おのずと気づいてしまうものなのかもしれません。そして、もう一つこの「葉隠」のすばらしいところは、「私心」をなくせと書いてあります。
どんなに熟考したところで、そこに私がいるようでは決して正しい結論を導き出すことはできないというのです。
殿様に奉公する武士としては、殿様のために自分の命を捧げることができなければならないと言っています。ある意味、第二次世界大戦で行われた特攻隊のような気概を求めているのかもしれません。
私はそのことの是非をここで言うことはしませんが、常に死ぬことを意識しながら生きることの大切さについて、「葉隠」の中で著者は伝えようとしているように感じます。
したがって、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」というのを、もっと正確に表現すれば、「武士道といふは、誰かのために、死ぬことと見付けたり」になると聞いたことがあります。
私は、死ぬということにこだわる必要は基本的にはないと思っていますが、「私心」をなくすという点については、とても深く感じ入ることができます。
今ここにこうして自分がいる、という意識はただこうして自分のままでいるだけでは、なかなか消せないものです。
それには、二つの方法があると思います。一つは、自分以外の誰か、あるいは何かのために生きるということです。
そして、もう一つは真の自己を見るということ。真の自己に自分を明け渡すということ。そのことによって、本当の自分はこの世界のすべてだと気づくことができ、それこそが「私心」をなくす生き方に通ずるのかもしれません。