気づいたこと

随分と前から分かってはいたことなのですが、それが最近になってより明確化されたことがあるのですが、それはなかなかのショックなことなのです。

それは、自分が気にしている範囲というものが、ものすごく狭いということに気づいてしまいました。簡単に言えば、自分自身のことだけを気にかけているということです。

これは、あまりにも愛がないと言わざる得ないということですね。この世界には、あたかも自分しかいないかのように生きてきたということ。

勿論、家族は他人よりも大切だと思うごく普通の気持ちを持っていないわけではないのですが、日ごろ気にするということがとても少ないのです。

誰もが自分で何とかするのだろうという安易な思い込みによって生活しているために、いつも一緒であるこの自分のことばかりを気にかけているということです。

何か事が起きた時には、放っておけなくもなるのでしょうけれど、それ以外の時はやはり自分のことがもっとも優先されてしまうのです。

自分の好み、自分の都合、自分の快適さ、自分の考え方、こういうことで自分の気持ちが埋め尽くされています。

何でこんなに個人主義の生き方になってしまったのだろうかと考えても、はっきりとした理由を見付けることは難しいです。

一方、私からみて愛の深さを感じる人というのは、やっぱり私心を脱して、自分よりも家族や友人、あるいは国など、とても広い範囲に渡って気にかけているのが分かります。

そういう人は、どこかエネルギッシュで活動的であり、生き生きとしている印象を受けますね。私とは真反対な気がします。

私の場合は、自分の心の奥にいつも鬱々としたものを感じているのですが、それはきっと私心満載で生きているからなんだろうということに気づいてしまいました。

人としての自分を公平に見てみると、こんな感じになってしまいますね、残念ですが。そろそろ自分の人生の先の長さが見えてきた今、どうにかしたいという気持ちが目覚めかけているようです。

私心を脱して、何かのために人生を捧げるような生き方を是非していきたいものです。

組織について

私は会社員の生活を20年以上経験してきましたが、どうも組織というものが苦手のようです。単に組織というよりも、その組織がピラミッド型になっているのが好きではないのです。

企業などはその典型と言えますが、それ以外にも宗教団体や政治の世界、研究機関などでも、大勢の人たちからなる一塊の組織というのは、大抵がピラミッド型ですね。

これは私の個人的な好みの問題ですので、ピラミッド型組織が必ずしも悪いということを言いたいのではありません。

そのことをはっきりさせた上で、なぜピラミッド型組織が好きではないのかというと、組織の目的を全員が同じように持つことが難しいと感じるからです。

会社であれば、社長と平社員とでは、表面的にはその企業の業績を上げるために全員が働いていると言えますが、実際にはトップの人物と末端社員とでは働く目的が異なる場合が多いのです。

それは立場が変われば意見も異なるのが当たり前だからです。そうなると、そういう違いを見ないようにして、いかにも一致団結しているふりをするということが起きてきます。

こうしたことは、短期的にはごまかしておくこともできますが、長期的にはどこかに綻びができてしまうことになると思います。

私が理想とする組織とは、そうしたピラミッドのようなものではなくて、組織内の人たちがすべて一人ひとり互いと有機的に結びついていて、その結びつきは都度変化するようなものです。

例としては少しはずれるかもしれませんが、人の身体を形作っている細胞について考えてみると分かりやすいかもしれません。

細胞の一つひとつが組織の一員だとすると、細胞には組織全体の設計図である遺伝子があって、身体全体とそれのどの部分を自分が担っているかを知っているということです。

つまり組織内の一人ひとりが組織全体についての完璧な情報を知っており、その上で互いと連携をとりながら必要な責務をそれぞれが果たしているということです。

なんとすばらしい組織なんだろうと思ってしまいます。私たちが日本の国民として、日本のことを同じように知っているかと言われたら、全く自信がありませんね。

政治家や官僚は国民が知らないようなことをたくさん知っていて、あたかもピラミッド型の組織のようなイメージを感じてしまいます。

人体のような国家ができたらいいなと思ってしまうのは私だけでしょうか?

敏感さの違い

当オフィスにクライアントさんとしてセッションを受けに来られる方々は、大抵が敏感タイプで感受性の豊かな人が多いと思います。

繊細な感覚というものは、それ自体では悪いことでは勿論ありませんが、度を越すと本人としてはなかなかやっかいなことになるのです。

私も実はそうした部類に属するという自覚があります。幼いころからずっと極度の猫舌だったので、友達と一緒にラーメンを食べるときに、みんなが食べ終わる頃にようやく半分くらい食べられる感じでした。

ある日、自分に根性がないだけだと思って、みんなと同じペースで食べたところ、口の中の粘膜がベロッと剥がれてしまいました。

つまり、口中をやけどしてしまったんですね。それで初めて、ああこれは根性の問題ではないんだなと分かったのです。

45歳の時に癌を患って入院したことがあり、そのときにお腹の中心を30cmくらい縦に切りました。傷口はホッチキスの針のようなもので50箇所くらい止められていました。

それを抜くときにあまりの痛さに呻いてしまったら、担当の若い看護師さんに笑われてしまいました。そんなに痛がる人は初めて見たと。

人と同じことを体験しても、痛みなどの感覚をひどく強く感じてしまうのですから、笑われても仕方ありません。

怖がり、泣き虫、痛がり、こういった否定的な言葉で形容されてしまう人は、すべて敏感なタイプであるというだけなのです。そしてそれは生まれ持った体質なので、どうすることもできません。

敏感肌、腸の過敏症等々、敏感過ぎて困っている人はたくさんいます。勿論恥ずかしいことでもありませんので、笑われても、否定的に見られても構わずに、堂々としていましょう。

きっと、それほど敏感ではない人に比べて、多くのさまざまな情報を受け取ることができるのですから、一つの才能だと考えて自信を持って生きていくことです。

罪悪感のネタ探し

以前からこのブログでも何度となくお伝えしてきたことですが、誰の心の中にも同じように罪悪感というものがあります。

この罪悪感をいつも感じていたいと思う人は稀でしょう。できれば、この落ち込みの原因となるしつこい嫌悪感を排除したいと思うはずです。

ところが、気がつくとまたどこからともなく罪悪感が忍び寄ってきて、知らず知らずのうちに暗く虚しい気持ちにやられてしまうのです。

こんな自分では仕方ないなと、またここで罪悪感を積み上げてしまうのです。つまり、罪悪感を感じることで、また更なる罪悪感を重ねていくというわけです。

少しオーバーに表現すれば、朝目が覚めた直後から、夜眠りにつくまでの間にずっと罪悪感のネタとなるものを探し続けているとも言えるのです。

自分をもっと改善したい、もっともっとこうなりたいというような願望が強い人ほど、この罪悪感を探す名人になる可能性が高いのです。

理想の自分を追求することが習慣化されている人ほど、そうはなれていない自分に対して駄目出しをすることになるので、これは当然といえば当然のことです。

ところが、この向上心のような気持ちが、罪悪感を感じないような自分になりたいという思いを作り上げてしまうために、永久ループに入ってしまうことになります。

罪悪感だけで、グルグルと回して一生を終えてしまうかもしれません。一体どうしたらいいのでしょうか?解決方法はたった一つだけです。

それは逆説的な言い方になるのですが、罪悪感をやめられない自分をあきらめるということです。自分を改善することは不可能だということに気づけばいいのです。

人は死ぬまで罪悪感と共に生きていくのです。このことは、どうしようもないことなのだと心の底から受け入れることです。

所詮、人とはそういう生き物なのです。一旦そのことを本当に理解することができたら、罪悪感を感じることに罪悪感を感じなくはなれるはずです。

近未来の自分

自分の心の中をジィ~っと見つめて感じていると、私の場合はどうやら近未来に何かを期待しているようなところがあるようです。

人によっては、過去に意識が向かってしまうことが多い場合もあるのでしょうけれど、私の場合にはあまり過去を悔やむということはありません。

しかし、だからといって今日現在にしっかり根を下ろして生活しているかというと、どうもそうではないようです。

かといって、遠い将来について思いを馳せるというような年齢でもなくなってきたということもあってか、近未来がお気に入りのようです。

それも、今のところ実現できてないことを、その近未来に期待しているのです。不思議なことに、一体何を期待しているのかと考えてみても、別にこれといった具体性はないのです。

それで分かったのですが、近未来に何かを期待するというのはあくまでも表面的なことであって、本当のところは今の自分には期待できないという裏の事情を持っているということです。

若いときには、今が駄目でもいつかは…というように未来の自分に期待を持つこともできたかもしれませんが、年齢を重ねてくると自分というものが大体分かってきます。

正直なところ、それほど多くを期待できるものではないということも、知ってしまったということなのでしょうね。

だからこそ、仕方なく今でも未来でもない、その中間的な近未来というものにほんの少しの期待を持とうとしているのだということです。

でもよくよく考えてみると、近未来の自分だって、この自分であるわけです。やっぱり、今日この瞬間の自分というものをしっかり感じて生きることだと思うのです。

最近、明日があるかどうか、本当に分からないような状況になりつつあります。これをうまく使わない手はないのです。

期待を手放して、今日の自分がいかに生きるかというところに、常に意識を保ち続けることが大切であるし、そうすることの手助けがやってきているように感じています。

放射能の感知

夕べちょっと調子に乗って多めにお酒を飲んでしまったために、久しぶりに二日酔いになってしまいました。

若いころはしょっちゅうだったのですが、さすがにこの年齢ではある程度は身体をいたわることも必要だと思って、最近では適量で済ますようになっています。

この二日酔いの時というのは、とにかく胃の辺りがムカムカするのですが、気がつくとごく自然に自分で胃の辺りに手を当てています。

びっくりなのですが、ものすごいマイナスのエネルギーが出てきているのが分かります。長年ヒーリングをしてきたからなのか、手のひらがとてもエネルギーに敏感になっていて、手の奥まで鈍痛を感じられます。

身体や特に内臓などに無理を強いると、そんなようにして後になってマイナスのエネルギーを放出して、毒だしをしてくれるということですね。

通常のヒーリングのセッションでも、大抵の場合にクライアントさんの身体のチャクラからマイナスのエネルギーが出てきて、手をとても痛くします。

ヒーリングをしている自分は、その痛みは毒だしの証でもあるので、それをとても嬉しく受け止めることができるのす。

このことをボーっと考えていたら、ふと放射能も同様にして手をかざして見たらもしかしてある程度感じることができるかもしれないと思ったのです。

人体から出てくるエネルギーのレベルなんて、ものすごく微細なもののはずなので、線量がある程度高ければ放射能も感じられるのではないかと。

放射能の困った点というのは、長い間残るということと、透明で臭いもないというところですから、それを感じ取ることができたら、何かの役に立つかなと思ったのです。

時間のあるときにでも、近くの井の頭公園の土や雑草の近くで試してみようかと思っています。何か分かったら、またここでご報告します。

武士道

「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という有名な言葉を残している「葉隠」という書物がありますが、あの中で次のような文章があります。

「幻はマボロシとよむなり。天竺にては術師のことを幻出師と云ふ。世界は皆からくり人形なり。幻の字を用ひるなり。」

「葉隠」の著者は、数百年も前にこの世界は幻想だということに、気づいていたということなのでしょうね。

物事を深く見る眼力のある人は、おのずと気づいてしまうものなのかもしれません。そして、もう一つこの「葉隠」のすばらしいところは、「私心」をなくせと書いてあります。

どんなに熟考したところで、そこに私がいるようでは決して正しい結論を導き出すことはできないというのです。

殿様に奉公する武士としては、殿様のために自分の命を捧げることができなければならないと言っています。ある意味、第二次世界大戦で行われた特攻隊のような気概を求めているのかもしれません。

私はそのことの是非をここで言うことはしませんが、常に死ぬことを意識しながら生きることの大切さについて、「葉隠」の中で著者は伝えようとしているように感じます。

したがって、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」というのを、もっと正確に表現すれば、「武士道といふは、誰かのために、死ぬことと見付けたり」になると聞いたことがあります。

私は、死ぬということにこだわる必要は基本的にはないと思っていますが、「私心」をなくすという点については、とても深く感じ入ることができます。

今ここにこうして自分がいる、という意識はただこうして自分のままでいるだけでは、なかなか消せないものです。

それには、二つの方法があると思います。一つは、自分以外の誰か、あるいは何かのために生きるということです。

そして、もう一つは真の自己を見るということ。真の自己に自分を明け渡すということ。そのことによって、本当の自分はこの世界のすべてだと気づくことができ、それこそが「私心」をなくす生き方に通ずるのかもしれません。

死への衝動

人間には、自覚しないままに生への衝動と、死への衝動の二つを内包する心の部分があるのです。一般的には、前者の方ばかりが取り沙汰されるようですが。

戦国時代や戦時中には、この死への衝動というものが満たされていたわけです。常に、自分や家族の死というものと隣り合わせで生活していたからですね。

このときには、生への衝動というものはあまり満たされることがありませんでした。安全な環境で安心しての暮らしというものはほとんど不可能だったわけですから。

こうしたこととまったく逆のことが、現代の日本で起きていると言えます。つまり、明日自分は殺されるかもしれないと思って生きている人はほとんどいない環境になった分だけ、生への衝動が満たされるようになりました。

ところが、それは一方では死への衝動を満たすことができなくなったともいえるわけです。飢えで死ぬようなこともほとんどない、今の日本では死というものが遠く感じられるのです。

そうなると、無意識とはいえ必死になって、そうした死を意識せざるを得ないような現実を作り出すことになるのです。

それは肉体的なものや精神的なものも含めて、個人的な健康の問題によって死を身近に感じるようにするかもしれません。

あるいは、社会問題として起きてくるかもしれません。私は原発の事故というのは、そうした背景があって起きてしまったことではないかと思うのです。

人間は表面的には、死というものから目を背けようとするものです。したがって、戦争が終わって表面的には死が遠ざかってしまうと、余計に死を毎日の生活から排除しようとしてしまうのです。

これは、危険だと言われるよりも、安全だと言われるほうを無意識的に信じようとすることに繋がるのです。

こうしたことが表面で起きると同時に、それを利用するようにして、死への衝動を満たすための現実が起きてきてしまうということです。

月並みですが、明日死ぬかもしれないと思って、今日この瞬間を生きることができたら、きっと人生はもっとキラキラしてくるはずですね。

保身という罠

今回の大震災やそれに伴う原発事故などが起きたことにより、政府や東電などの情報隠蔽が明らかになってしまいました。

それは残念ながら、今でも続いているわけですが、そうしたことが発生してしまう理由のほとんどが保身であると言って間違いありません。

原子力の平和利用という名目で国を挙げて進めてきたわけですが、その背後に潜む最大の原動力となるものは保身なわけです。

保身とは自分を守る、自己防衛のことです。人間である限り、自己防衛しようとすることは正当であり、当たり前のことなのですが、それはある面では不幸を生み出すのです。

保身とは、自分は助かりたい、それがひどくなると誰かを犠牲にしても自分だけは守りたいという方向に行ってしまう可能性もあります。

保身で一番多いのが、自分の間違いを素直に認めないというものです。電力会社にしても、国にしても、メディアにしても、そこにいる人たちが自分たちの間違いを認めようとしないことが、情報隠蔽がなくならない最大の理由なのではないかと思います。

なかなか難しいことなのですが、保身が人生の中心に据えられてしまっていると、心は決して満たされないということに気づくことが大切なのです。

それは、私たちは自分の中に隠し持っている愛を発動することでしか、満たされることがないからです。保身は、愛とは真逆の言動を起こすことになるのです。

したがって、「人の振り見て我が振り直せ」ということわざにもあるように、間違いを認めない人たちのことを否定する代わりに、自分にもそうした一面がないかどうかチェックすることです。

十分にそれができるなら、今の日本の現状を意味あるものにすることができるのです。素直に認めて謝ることは、簡単なようでなかなか難しいことですね。

必死に保身したいと思っている自分をまずしっかり見つめて、それを丸ごと受容してあげましょう。自分の中でそれができたら、人に対して保身することが少なくなるのです。

そしてその結果、とても気楽な人生になってくるはずです。保身にエネルギーを注ぎ込んでいた毎日から開放されることは、きっと晴れ晴れとした気持ちのいい心の状態になれると思います。

真の自己としての気づき

私たちは自分の希望が叶えば必ず幸せな人生になると信じています。問題が解決してくれれば、幸福になれると思っています。

たとえば、隣家の人の音がうるさくて夜眠れないので、早く引っ越して行ってくれればいいのにとか、原発を廃止したら安全な国になれるのにといったことです。

そうしたことが実現したら、快適な人生にもなるし、平和で安全な暮らしが待っていると思うのは当たり前のことかもしれません。

そして、そうなるようにと、最大限努力をし、隣人と向き合って必要なことを伝えたり、原発反対運動に参加したりするかもしれません。

それはとても大切なことですね。手をこまねいて、誰かが何かしてくれるのを待っていたり、あきらめてしまうよりは、積極的に自分でできる範囲で行動することは大切なことです。

その上でのことなのですが、そうしたことがすべて叶って以前よりも快適で安全な暮らしができるようになったとしても、それはそれですぐに慣れてきてしまうのです。

そして、そのことは本当によかったと思っても、また違う問題が起きてくることになります。そしてまたそれを何とか解決しようという、繰り返しの人生になってしまいます。

心が満たされている状態とは、どんな環境でもいついかなるときにでもなれるし、今なれないものが将来そうなるということでは決してないということです。

何度もこのブログでもお話ししているように、問題の解決はその問題と同じレベルのところには存在しないということです。

真の問題の解決とは、それが問題だと信じているその思いの外に意識を向けることなのです。つまり、それを問題だとは思わない心の状態になることが、唯一の真の解決だということです。

今この瞬間に満たされていないと感じる理由は外側にはないし、満たされていると感じるとしたらその理由も外側にあるのではなく、内にあるということです。

そのためには、自分とは一体誰なのかということに真に気づくことです。広大なこの宇宙、この世界の中にポツンと存在してる小さな人間なのか。

それとも、その広大な宇宙を包含する透明で無限の器なのか、小さければ何かが足りないと感じるでしょうし、すべてだと分かれば足りないものはないと分かります。

本当の自分とは、この世界を抱きかかえながら、ここで起きている無数の事柄を丸ごと受容している気づきだということを思い出せばいいのです。