最愛のペットたち

昨日ネット上で見つけたのですが、福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域に入って、人っ子一人残っていない廃墟と化した町を取材した映像を見ました。

町はそのままなのに、誰もいない風景というのは本当に不気味なものです。そして、可愛そうに置き去りにされた犬などのペットが群れをなしてある種、野生化しているような感じでした。

昨日、住民の方々の一時帰宅が始まったというニュースをミクシーで読んだのですが、いろいろ置いてきてしまったものなど、気になることが沢山あるのでしょうね。

気持ちを察すると胸が痛くなります。そして、きっと仕方なく置き去りにして来てしまって、とても心配しているペットを探したいと思っている人たちも多いはずです。

ペットは飼い主にとっては家族の一員ですから、離ればなれでいて、とても辛い思いを今までしていたのだろうと思います。住民のみなさんの大切なペットたちが、無事に見つかることを祈ります。

しかし、酷なようですが、ペットはもうすでに2ヶ月の間、沢山の被曝をしてしまったはずです。勿論、保護できたとして、きれいに身体を洗ってあげれば、そのときに付着している放射性物質を取ってあげることはできます。

しかし、きっと今まで命をかけて水を飲んだり、なんらかの食べ物を食べて生き延びてきたわけですから、かなりの内部被曝をしてしまったはずです。

何の罪もない可愛いペットたちを被曝させてしまったのは、我々人間の罪ですが、そのペットを抱きしめたりすると、必ずその人もなんらかの被曝をしてしまうことになると思います。

でも愛するものと一緒に生きるというのは、そういうことなのだと思います。一緒に避難することができずに、置いてけぼりさせてしまってごめんねと、思い切り抱きしめてあげて欲しいと思います。

最愛のペットたちは、きっとすべてを許してくれるはずです。

原発について その6

トイレをリビングの真ん中に作る人は誰もいません。もしも一部屋しかなければ、部屋の隅に置くでしょうし、何部屋かあれば別の部屋の隅に置くと思います。

土地が広い昔の田舎の家では、渡り廊下を挟んだ別棟にトイレがある場合が多かったと思います。でもそれでは、寒い冬など不便なので、結局今のようなトイレの場所が定着したんだと思います。

オフィスのあるマンションでは、ごみステーションという名前でエントランスの脇に6畳くらいの広さの建物にゴミ置き場が作ってあって、とても便利です。

分別されたゴミを回収される日まで、部屋に置いておかなくてもいいからです。このようにして、自分の身近な空間には、臭いものなどを置いておきたくないというのが人間の本能ですね。

これは、臭いものだけではなくて、危険なものを含めて自分に都合の悪いものと言い直すことができます。原発はその最たるものでしょう。

自分の身近に置いておいてはとてつもなく危険なので、たとえば東京電力は自分の管内の外である新潟県や福島県に原発を建てて、はるか離れた場所から送電しているわけです。

これはトイレの場所をどこにするかということと違って、誰かの安全を犠牲にすることになると分かってやっていることですので、とんでもないことです。

やっぱり、東電はどうしても原発を推進していきたいのなら、東京で原発を建てるべきだと思いますね。それができないなら、辞めるというのが筋でしょう。

昨日のニュースで見たのですが、日本とアメリカが共謀して、モンゴルに放射性廃棄物を埋めようと画策しているというのを知りました。

国内のどこにも、反対勢力が強すぎて捨て場所がなくて困り果てたすえに、他の国をターゲットにするなんて、あきれて物が言えません。

でも、こうしたことは一人の人間の心の中のメカニズムと全く同じだと知る必要があります。都合の悪い部分を抑圧して、存在を分からないようにしてしまおうとするのです。

そうしたことは場当たり的な解決方法であるのは明白で、結果として病気になったり具合が悪くなったり、人生で辛いことが起こることになるのですから。

癒しとは、そうやって隠してきた暗闇の部分を曝け出して、丸ごと認めてしまうことです。勇気もいるし、労力も必要ですが、そうやって向き合っていくことで希望が見えてくるのです。

意地を張らない

若い頃から自分の人生において、邪魔だなあと感じていたものの中に自分の意地っ張りな性格というものがあります。

意地を張らないでもっと素直に何でも思ったことを表現したりすることができたら、随分と物事がスムーズに行くのになあと思うことがよくありました。

小学生のときに、何か悪いことをして廊下に立たされていたことがあったのですが、先生に自分から謝るということができなくて、ずっと放課後暗くなるまで残されていた記憶があります。

悪いことをしたとは全然思ってないのに、謝ることなど決してできないというような気持ちが強かったように覚えています。

なかなかしぶとい意地の張り具合なのですが、でもそのくせ本当にはとても弱虫で怖がりな面もあるので、我慢の程度を超えたらたちどころに意地などどこかに行ってしまうはずなのです。

そういうことなので、この薄っぺらなつまらない意地を張ることができたことも、それだけ周りから守られていたからなんだろうと今なら分かります。

夕飯に嫌いなものが出て、意地を張って一口も食べずに、お腹を空かしたままいると、そっと母親が何かおいしいものを持ってきてくれた、そんなイメージが残っています。

自分の命を賭けるような意地を張るのでしたら、ある意味すごいなとも思いますが、そうではないので私の意地は甘えのようなものを土台としている気がします。

つまり、意地を張っていれば、誰かが助けてくれるというようなニュアンスですね。意地を張るのをやめるというのは、それなりに勇気がいることかもしれません。

だからこそ、心を癒していくときには、この意地を張るということを手放していくことも大切なことの一つだと思うのです。

意地はこだわりやわだかまりなどとくっついて、人の心を頑なな状態にしてしまうのですから、あっても誰も得することはありません。

意地を張らずに、物事をなるべくあるがままに受け止めて、一日を素直に感謝できるようになりたいものですね。

7人の敵

もうかなり前に言い古された言葉かもしれませんが、「男は外に出ると7人の敵がいる」というのがあります。若い人は知らないかもしれませんが…。

それだけ、一歩外に出て仕事なり何なりをして来ようとしたら、それは大変なことなのだということを言いたかったのだろうと思います。

しかし、それは何も男性に限ったことではないはずです。女性にしても、そして子供にしても一歩外に出たらそれは人間関係という面倒な世界が待っているのですから。

昔は、結婚すると男性が外で働いて女性は家にいて家族を守るということが普通でしたから、さも男性限定のような表現になったのでしょうね。

今子供だって同じだと言いましたが、今日はそれについてお話ししたいのです。大人になると、意外に子供のころの苦労を忘れてしまうことが多いのですが、実は子供は大人以上に苦しんでいます。

大人になると、子供はいいよなあ、遊びと勉強だけしてれば生きていけるんだからと思っているお父さんやお母さんがいるかもしれませんね。

でも、本当は子供は大変な時期を過ごしているともいえるのです。なぜなら、この世界の全体像というものを把握していないので、何かにつけて恐怖や不安を沢山抱えています。

人は分かっていることはそれほど恐れないのですが、分からないことはやはり怖いのです。子供は、経験や知識が少ない分だけ大人よりも怖がるのは当然なのです。

その上、大人に負けず劣らず、外での人間関係に悩まされることも多いのです。イジメの問題や、競争社会での立ち振る舞いなど、大人顔負けのシビアな世界で生きていると言ってもいいと思います。

そうしたことを、自分が子供だった頃のことをよく思い出して、今の子供を見るようにしてあげることはとても大切なことではないかと思うのです。

自分の心を癒していくということにしても、そうした子供の頃の心をよく見てあげるということを除いては、考えることができないくらいに、このことは重要なことなのです。

お金にも半減期を その2

昨日のつづきです。

放射性物質と同じように、お金にも半減期を作ったらいいのにという半分冗談、半分本気のお話しをしました。

そもそも実態のないお金というものに、あたかも独自の価値があるかのような幻想を抱くことによって、お金を貯蓄するという概念が起きるのです。

その結果、貧富の差が発生し、競争社会が起き、1%の富裕層と99%の貧困を作ることになるという世界の苦悩が起きてきています。

お金そのものは幻想であって、何の価値もないと分かれば、お金をお金で買うようなマネーゲームはなくなりますし、不当な貧富の差も消滅していくことになります。

お金に半減期があるということは、なんらかの報酬としてお金をもらうと、その時点から使わずにいる限り、どんどん額が減っていってしまうということです。

だから、お金を手元に置いておけばおくほど、損をするというシステムなわけです。それは、ゆくゆくはお金というものなしで、経済が成り立つようにしたいということです。

言ってみれば、昔の物々交換のような経済活動に戻すということを意味します。報酬としてお金を受け取ると損をすると分かれば、他のものを受け取りたくなるはずです。

それが物々交換です。最も損をするのがお金を持つということになるなら、みんながお金はいらないという気持ちになるでしょう。

それが狙いです。誰もが自分の得意とすることを提供し、その代わりに自分が欲しいと思うものを他の誰かから提供してもらうという、とてもシンプルな世界になるのです。

誰かの命令によって、いやいや嫌いな仕事をすることもなくなるし、みんながそこそこ満ち足りた生活を営めるようになるのではないかと思うのです。

きっと経済の単位も国という大掛かりなシステムというよりも、もっと小規模な単位での生活になるような気がします。

お金持ちや貧乏人のいない生活、競争社会ではない生活、だからといって社会主義国家のような命令系統とは無縁の社会、これがいいなと思いますが、みなさんはいかがですか?

お金にも半減期を

私たちの身の周りに存在するもので、ずっといつまでも変わらずにあるものというのは一つもありません。どんなものでも、必ず朽ち果てるのです。

地球や太陽でさえ、必ず最後はなくなっていくものです。これが時間の中で生きている証のようなものだとも言えます。なぜなら、変化するものがなければ時間は入れ込めないからです。

ただ、人間が仮想的に作り出したものだけは、壊れずにずっと保っていることも可能です。なぜなら、はじめから実際には存在しないものだからです。

実は、お金というのは紙幣や硬貨としては目に見える姿をしていますが、実際には仮想的なものだといえます。ある役目をするために仮想的にこしらえたものです。

ところが、そのお金があたかも実際に存在するように感じるようになってしまったところから、人間の不幸が起きてくるようになったのではないかと思うのです。

まさに貯蓄という概念は、いずれは壊れて朽ち果てるような実在するものに対してのはずだったのが、実在しないお金に対してそれをするようになってしまったのです。

そこから、貧富の差が発生するようになりましたし、競争するという現実も生み出されるようになってしまいました。

お金を貯めるということが可能であると、節約するためにそれを使わずにいる、つまり買い控えということが起きてくるのです。

それが経済を活性化するのを邪魔し、不景気がまた更に不景気を作り出すことにもなってしまうのです。

お金を貯めるということができないようなシステムにしてしまえばいいと思いませんか?そのためには、お金を実在するあらゆるものと同様にして、少しずつなくなっていくように設定してしまえばいいのです。

放射能と同じように半減期というものをお金にも作りましょう!そうすれば、貯め込んで安心するなどということがなくなります。

貧富の差もなくなるし、今の経済が根本的に変わると思います。誰もがお金そのものに価値を見出すことをせずに、どんどんお金が流通する世の中になります。

誰一人として、お金を貯金していない世界をイメージしたら、とても気分がよくなってきました。こんな世界を実現できたらいいですね。

シナリオのなせる業

なぜ危険きわまりない原発がここまで来てしまったのか、そして今もってその方向を変えることができないのか、その理由が知りたくて調べていたのですが、調べれば調べるほど絶望することになってしまいました。

ものすごく巨大なタンカーが一度動いたら、そうそう簡単には方向転換もできないし、ましては止めるとなるとそう簡単にはいかないというのと同じかもしれません。

それにしても、いろいろなことが分かっていくうちに、事実は小説より奇なりというように、本当にドラマでも見ているような気がしてきます。

こんなことが現実に起こっていたなんて、何かの力が底辺で操っているとしか思えないのです。ああ、これもシナリオなんだなと。

いつも自分で、この世界で起きること、自分の人生で起きることはすべて台本があって、その通りに動いているだけなんだと言ってきました。

従って、どんな事実を知ってもそういうことになっていたのだからとして、受け入れようという心の準備はできていたはずなのです。

勿論そうなのですが、でも実際に分かってみると、う~んとうならざるを得ない感じがしてしまうのです。でも、逆にこれは人間技ではないなという確信もあります。

理性ではどう考えてもこんな流れになるはずはあり得ないと思うのですが、それでも現実にここまで来てしまったわけです。

仮に今すぐにすべての原発を止めたとしても、今までずっと作り続けてきてしまった放射性廃棄物については、もう処理するまともな方策がないようです。

今生きている誰にも100万年先まで、そのおもりができると自信を持って言えるような人などいません。100年先だって怪しいです。

改めて、すべてを天に任せるという気持ちになるしかありませんね。それでも、人としてできることは是非やっていきたいとも思っています。

誰を責めることも潔しとせず、かといってことの推移をただ見守るというだけでもなく、できるだけの行動をして、その上ですべてを受容するということ。

もうこれしか自分には残されてないなと感じる今日この頃です。感傷的になることも悪いことではないですが、どんなことになっても全部明け渡す気持ちを持ち続けたいと思います。

臭いものには蓋

セラピストの仕事をしていると、人間というものがいかに都合の悪いことから目を逸らそうとするかということを、いやというほど見せ付けられます。

それは、決して私のところにいらっしゃるクライアントさんが特別なわけではないというのは明らかです。私自身を含めて誰でもが、そうした傾向を持っているのです。

私はこの仕事をするようになって、そうしたことを一人ひとりの心のメカニズムとして見てきたのですが、それが個人レベルのことだけではないということがよく分かりました。

調べれば調べるほど、絶望的になってしまう原発のことにしても、取り返しのつかないことになると分かっていながらも、そのことには目をつぶって推進してきた人たちが沢山います。

私は、今もう正直言ってそのことについては絶望してしまっています。それでも、そのことについて自分なりにできることをやっていこうとは思っていますが…。

現在も被曝をし続けている福島やその他の人たちにしても、政府の言う、「大丈夫です」という訳の分からない言葉を信じたいという思いが強いのだと思います。

冷静になって情報を集めれば、子供たちや赤ちゃん、あるいは妊娠している女性などを退避させるべきであるとすぐに分かるような状況であっても、そこは見ないふりをしようとしてしまうのです。

現実に放射線は見えないですし、どこか身体に違和感を感じることもないという、ただそれだけで聞きたくない情報には耳を塞いでしまうのです。

残念ですが、それが人間の本来の性質だと言えます。こうしたことは、心理学でいう、防衛機制という言葉で説明される一つの生き延びるための方策といえるのです。

しかし、それは必ず人を幸福から遠ざけることになりますし、心の癒しではそうしたことをよく理解したうえで、手放していく作業を進めていくことになります。

人類レベル、あるいはこの日本というレベルでの癒しがどうしても必要だという気がしますが、どうしたらいいのかということになると、私には残念ながら具体的な解決策を見出すことができません。

人としてやれることはやる、その上で真の自己から見て、起きているすべてを完全に受容するということでしかないのかもしれrません。

正当防衛

先ほどミクシーのニュースを見ていたら、アルカイダの指導者で2001年の同時多発テロの首謀者とされるビンラディン容疑者が、アメリカ軍に殺害されたという記事が出ていました。

アメリカとしては、彼をとことん追い詰めて殺害することが国としての意地であったとも思うのですが、そういう意味では約10年かけて目的を果たしたということですね。

しかし、あの惨たらしいテロの仇を討つことができてよかったと、喜んでばかりはいられません。なぜなら、これから先のアルカイダによる報復があるかもしれないからです。

9.11の時のようなテロが再び起きることを想定しておいた方がいいかもしれません。日本でも、単なる他人の喧嘩では済まされないかもしれません。

争いというのは、まさにこうしてどちらかの息の根が止まるまで、やってやられて、やり返してということがずっと続くのです。

憎しみ合うことには、一つとして意味を見出すことができません。それは、国と国、あるいは民族同士のような大きな争いに限らず、私たちの日常的なところでも言えることです。

子供の喧嘩でも、やられたらやり返せというように教える親もいるくらいです。泣き寝入りするような情けない人間になるなという気持ちがそう言わせるのでしょう。

争いをやめられない大きな理由の一つは、自分(たち)は正しくて相手側が間違っているという身勝手な思い込みです。

そしてもう一つの理由は、相手側によって自分(たち)は被害を被ったという思い込みです。そして、この二つは残念ながら双方ともに同じように持ってしまうのです。

その二つの理由が憎しみを生み出す原動力となっています。そして、どちらか一方が争う力を奪われない限りは、戦いは続くことになってしまいます。

また、自分(たち)からは手を出すことはないが、相手側から攻撃されたら、大切な人を守るためには正当防衛として攻撃し返すという論理には、なかなか根深いものがあります。

なぜなら、それは愛するものを守るという「愛」の一つの形であると感じてしまうからです。そうしたことは、場合によっては人の心に感動さえ与えることができるかもしれません。

でも冷静に考えて、いかなる場合でも攻撃することは決して「愛」の行為ではないということを忘れないことですね。正義の味方というのは、この偽物の愛といつも関連しているのですから。

原発について その5

人類の歴史がどれくらいの長さなのかは、詳しく知りませんが、それは地球の歴史からしたら本当にわずかなものだということは分かります。

そのチリのようなわずかな人類の歴史の中でも、ここ50年くらいのことを特定したら、もうわずか過ぎて見えないくらいかもしれません。

ところが、そのごくごくほんの短期間の間に、未だかつてやったことのないようなことをしてしまったわけです。それはもう取り返しのつかないこと。

それが原発ですね。何度も書いていることですが、たとえ戦争で大量虐殺があったとしても、大震災や津波で多くの大切な命が犠牲になったとしても、100年したら復興できるはずです。

でも原発だけはどうしようもありません。原発そのものがどうこうというよりも、発電のために核融合した結果、後に残る使用済み核廃棄物は人類の手に余るものです。

地中深く穴を掘って、そこに埋めてしまおうというのが現在の案らしいですが、その膨大な量に膨れ上がった危険きわまりない廃棄物を一体どこに埋めるのか。

実はその危険性がなくなるまでには、なんと100万年かかるそうです。これは人類の歴史よりもはるかに長い時間が必要になってしまうということですね。

今の科学では無毒化することは不可能ということらしいですから、絶望せざるを得ません。今までに、何度となく高度な文明が栄えては滅びるということが地球上で起きてきたらしいですが、今度は核の問題でそうなるのかもしれません。

その先頭をひた走っているのが日本も含めた原発大国の国々ということになります。日本は更に地震大国でもあるので、廃棄物を安全に貯蔵し続けることができるという保障がありません。

今となっては、なぜこんなことになってしまったのか、いくら憂いても如何ともしがたいというのが本当のところですね。

それでも、これが起こるべくして起こることになっていたことだと考えるしかありません。そういう筋書きだったということなんでしょう。

こうしたことを、暇に任せてつらつらと考えていたら、残りの人生は、できるだけ何かのため、誰かのために生きようという思いがやってきました。

そう思うと、原発も私にとっては無駄なことではなかったのかもしれません。