本当の安心

私たちの願望が受動的になったとき、多くの人は安心したいと思うようになるものです。しかし、たとえ安心することができたとしても、それは一過性のものにすぎません。

なぜなら、安心することができた裏には、外的なあるいは物質的なものがその根拠となっていることがほとんどだからです。

お金が沢山溜まったからとか、素敵なパートナーが見つかったから、有名な会社に就職できたから、いい学校に入学できたからなど。

こうしたものをいくら手に入れることができたとしても、それもいつまで続くものか、そして明日はどうなるのか全く分からないのです。

この世界の何かを頼りにしても、それは必ず変化するものばかりです。だからこそ、その安心とは未来にはどうなるか分からないようなものになってしまいます。

これは、本当に安心することができたとは言えないのです。あるときは人と同じであると認識する事で安心することもあるし、またあるときは人と違うということで安心することもあるのです。

自分はごく平均的な人間だと思うことで安心したり、自分は特別な存在なのだと思うことで安心したりすることもあります。

このように、安心できる根拠というのは実に怪しいものです。それなのに、私たちはこの不安定な安心こそが幸せなのだと勘違いしています。

だからいつまでたっても幸せを手にすることができないでいるのです。真の安心とは、この世的な根拠のないものです。

それは自分が一個人として生きていると思い込んでいる限りは、やってくることはありません。なぜなら、個人としての人物は時間の中で生きているからです。

変化することのない、時空を超えた純粋な意識としての自分を思い出すことでしか、本当の安心を見出すことはできないということです。