目をつぶり、ただ静かに横たわっているとき、自分の中の何ものかが必死に自分の身体のイメージを作り続けていることに気づくことができます。
目を閉じてしまうと、自分で自分の身体を見ることができなくなってしまうために、そうしたことが意識の奥で行われているようです。
ここに頭があって、両肩から手が伸びていて、首から下に胴体がこんなふうに横たわっていて、そして足が二本くっ付いている、といった具合に。
何かがそれを絶え間なく伝えてきているように感じます。これを忘れてはならないぞというような、そのくらいの力強さを感じてしまいます。
何でそれほど頑張らなければならないのかを考えれば、それは簡単に説明がつきます。それは、本当のことではないからです。
本当のこと、あるがままのことはただ何もせずともそのままでいられるはずですが、何かを偽っている場合には絶えずそれを正当化しようとする努力が必要になるのです。
そして、一つ騙したらそれを存続させるために、次々と騙し続けなければならないものが増えてきます。その大元が自分は身体だという想念なのです。
しかし、この思い込みを続けようとする力は、とてつもなく深い部分でがっちりと固められているために、普段の生活の中では気づくこともありません。
だから私たちはそうしたことを疑おうともしなくなってしまうのです。思い込んでしまったときが幼児の頃だったということもとても大きい要因となっています。
幼いころは防衛する方法を知らないので、騙されていくことに気づくことができなかったと言うことなのでしょう。
それでも、冒頭書いたように心を鎮めてただ感じていると、強烈なパワーで自分は身体であり、それはこうなっているというイメージで自分を縛り付けているものを感じます。
でも、「私はただ在る」と繰り返すことで、私の身体の輪郭は薄れていき、それとは対照的な無限の広がりであることを感じることができるのです。
それこそがコースで言う真の自己、ダグラスさんが言う本当の本当の自分、ヒンドゥー教などで言うところの真我なのでしょう。
どんな呼び名でも構わないのです。ただ、自分は個人だと思っている心、身体と自分を同一視している心を取っ払えば、元々の自分自身に気づくだけなのですね。