子供の頃からあらゆる超能力に対して、憧れを持っていました。一世を風靡したユリゲラーという人が来日して、スプーン曲げなどを披露するのを見たら、自分でも試して見たり…。
勿論そうしたことにのめり込むまでには至らなかったのですが、そうした不思議な能力に対する興味や憧れがなくなったことはありませんでした。
会社員を辞めて、ヒプノセラピーやヒーリングのクラスに行くようになって、それまでの自分にとっては不思議な能力だと思っていたようなことを、実際持ち合わせている人が周りに増えてきました。
それで自分もオーラが見えるようになりたいとか、幽体離脱ができるようになりたい、リーディングや予知などができたらいいのにと思うようにもなったのです。
ところが、神はどうしたわけか、友人たちにばかりそうした能力を授けておいて、私には一つたりともそういう能力を授けてはくれなかったのです。
不思議なもので、もしかすると自分にも超能力が開花するときがくるかもしれないという、はかない期待がなくなった途端に、そうしたものへの憧れもきれいに消えていきました。
そして今となっては、そうした超能力が自分にはなくて本当によかったとさえ思えるようになったのです。それは、その能力を欲する自分とは誰かということを考えるようになったからです。
もしも、私にそうした能力があったら、きっと真の自己を探求するうえでの大いなる邪魔者になったであろうことは想像に難くありません。
なぜなら、元々あった超能力への憧れというのは、自分を守ろうとするエゴの欲望に他ならないからです。そこから脱することを難しくしたはずです。
こうしたことは頂上体験などと言われるようなものにも当てはまるのです。誰がそれを体験したいと願っているのかが重要なところです。
一過性のものには、本質的には何一つ価値のあるものはありません。永遠である本当の自分を発見することにこそ、本当の真実があるのです。