私たちは常に誰が何と言おうが、過去はあると信じています。それは、今まで自分の人生をずっと生きてきたのですから、過去がないはずがありません。
ところが、その過去(あるいは未来についても)があるとの思いは、絶えず生まれ続けている想念によってその存在が確証されているに過ぎないのです。
もしも何らかの方法によって、自分の心の中に一つの想念も浮かんでこない状態になることができたとしたら、本当にそれでも過去があると言えるでしょうか?
いいえ、実は過去があるとかないとかという思いが浮かんでこなくなってしまうのです。なぜなら、想念のほとんどは過去がベースとなって出現するからです。
そして過去に関連したあらゆる想念のない心の状態において、一体過去にどんな意味づけをすることができるでしょうか?
それは勿論何もあるはずがありません。つまり、その時点において自分にとっては過去はないということと同等になるのです。
そうした経験は誰にでもあるはずです。何かに没頭しているとき、無我夢中で何かを続けているときなどは、まさにそのこと以外の想念の浮かんでくる余地がありませんね。
したがって、そのときには過去はないとも言えるのです。ただ、残念ながら元の状態に戻ってきたときに、またすぐにいつもの過去を伴った想念がやってくるので、やっぱり過去はあったということになってしまうのです。
過去とは自分という人物を作り上げているあらゆる体験や記憶のるつぼです。だから、過去がない状態の心では、自分がいなくなっています。
深い瞑想に入ってもそうした状態になることはできます。それは楽しさや苦悩といったエゴの体験はできなくなりますが、何もない無の状態、つまり平安を得ることができます。
そのときには、自分が本当は誰なのか、想念に惑わされることなく自覚することができるはずです。 そのことは、本来我々の本質は平安であり、至福であるということが言えるのです。