自分とは何ものなのかということについて、ある確信を持つことがとても大切なことだと思うようになりました。
それは自分の中で、少しずつ、そしてまた少しずつ変化してきた認識なのです。なぜこれほどまでにゆっくりとした変化なのかといえば、初めに持たされてしまった思い込みが非常に強かったからだと言えます。
私たちは、身体や心の発達によほどの障害でもない限りは、誰もが自然と自分と身体を同一視するようになってしまいます。
そして、そこから「私」という想念が立ち上がるのです。その後、その「私」という想念は、それを土台として様々な想念を作り続けます。
その一つは自分は心と身体を持った個人であるというものです。これは、日々の生活を積み重ねれば重ねるほど、確信となっていくのです。
そうやって、「私」とは一人の人間であり、一個人としてこの世界で生きていくことになるとの思いを強めていくことになります。
そして、そうしたことに誰もまったく疑いを挟むこともなくなってしまうのです。実は、幼いころには「私」がまだふわふわした状態なので、個人と誰でもない間を行ったり来たりするのです。
しかし、それも少しの間のことであって、小学校を卒業するずっと前までには大抵が立派な人間としての自覚を持つようになるのです。
自分が世界とは分離した個人であるとの想念は、必ず苦悩をもたらします。楽しいこともある反面、必ず苦悩もやってくるのです。それは部分としての存在だと認識することの宿命です。
そして、充分に苦しみを見出した後で、人によっては自分とは本当は何なのか?ということに目覚めようとしだすのです。
自分で自分を騙すことになってしまったいきさつを理解しようとしたり、今すぐにも本当の自分に目覚めたいと願って努力してみたりすることもあるはずです。
それは本当に人それぞれです。何が正しくて何が間違っているかということではありません。努力の果てに努力はいらないと気づくように、自分とは誰かを見る努力も今は必要なことだと思っています。