あらゆるものの背後にある「場」

昨日のブログでは、自分が身体ではないなら、次のような感覚になるということをお話ししました。それは、「自分はどこにもいない」=「自分はあらゆるところに偏在している」ということ。

偏在するとは、どこにでも在るということですから、自分はこの世界のどこにでも在るということになり、つまりそれは、自分がこの世界そのものだと言うことになるかもしれません。

しかし、ちょっと待ってください。この世界といっても、私たちは一体どの程度目の前に広がっていると思い込んでいるものを知っているでしょうか?

今、地球の裏側で何が起きているか、ニュースやネットなどで知る以外には、直接見ることもできません。

だとすれば、私たちがこの世界と言う場合に想定しているものが、自分であるということではなさそうですね。

もっと簡単に言えば、今この瞬間自分が見ている世界こそが自分そのものだというようにすればいいわけです。

しかしここでも、困ったことが一つあります。それは、見る場所を変えれば世界の様相が瞬時に変化してしまいます。

クルマを運転しているときには、この世界は道路や行き交う人々になり、部屋で一人読書をしているときには、本のページ上の活字だったり部屋の景色となります。

つまり、刻々と自分であるこの世界はその姿を変え続けるのです。その目まぐるしく変化するすべてが自分だと思ってもいいかもしれません。

しかし、よく見つめてみると、その世界の姿の背後にいつも変わらないものがあることに気が付きます。それは、世界が様々な形で現象化する「場」です。

それはこの世界として何が見えてきたとしても、いつも変わらずに在るものですね。その世界が立ち上がってくる「場」こそが自分の本質だということもできます。

それはいつでも変わらずに在りつづけるのです。たとえ、人類が滅びてしまっても、地球がなくなったとしても、それは永遠に在るのです。それが、本当の私です。