スポーツなどの世界では、みんなが優勝するだろうと思っていたチームが、大方の予想を裏切って大敗を帰することがあったり、その逆に無名の新人が優勝をさらってしまうことがあります。
こうしたことはどんでん返しと言われたりします。映画や物語の世界でも、誰もがこうなるだろうと思って観ていた展開が、根底からひっくり返されてびっくりするようなときにも使われる言葉です。
私は子供のころから、自分がごくごく普通の会社員をまっとうして人生を淡々と終えていくものと予想していたのですが、どうしたわけか今はセラピストをしています。
これも個人的にはちょっとしたどんでん返しのような感覚があります。この程度のことなら、みなさんの人生の中にも、沢山あるはずです。
ところで、誰にとっても共通の、しかも人生最大の大どんでん返しがあるとしたら、それは一体何だと思いますか?
私がしみじみ感じているのは、それは「この自分はどこにもいない。」というものです。これほどショッキングな大どんでん返しなど他にあるはずがありません。
今までどれだけ気を配って、何とかどうにか繋いであきらめずに生かしてきたこの自分がいないというのは、決してあり得ない大どんでん返しとしか言いようがありません。
自分の人生のすべての労力はこの自分のために尽くしてきたといっても過言ではないのに、そして今この瞬間だって自分の人生は続いているというのに。
それでもこの自分はどこにもいないということを知ってしまったのですから、人生にこんな皮肉なことがやってくるとは、想像だにできなかったことです。
でもこの自分はやっぱりいないのです。それが分かっても人生は続いていくことも分かりました。では一体この人生は誰が生きているのか?
そんなことをボーっと感じていると、突然やってくる感覚があって、それは「在る」というものです。しかも、何の理由もなくただ在るのです。
それが、今まで可愛がってきたこの自分が在るというのではまったくなく、この自分はいないということの直後に、ただ在るというのがふわっとやってきます。
それは人生を生きているというのとは全く異なる感覚です。特定の誰でもない何か、そこには個人としての自分はやっぱりいないのです。
そうすると、すべての肩の荷が降りたような深い安堵感もやってきてくれます。人生は続くのでしょうけれど、それを気にする自分がいないのですから。
この大どんでん返しほど、心を平和にしてくれるものは他にないでしょうね。いないのは、自分だけではなくて、他のあらゆる人たちについても同じです。
自分がいないのなら、これを書いているのは一体誰なんでしょう?きっと、地球に人類が誕生したときから決まっていたことがただ淡々と起きているだけなんだろうと。
そして、本当に心の底から100%で自分はいないということがはっきりした時には、この大どんでん返しを感じる自分がいないわけですから、そこには大どんでん返しもないものとなるんでしょう。