私は身体ではない

今日はあらためて私は身体ではないということについて、再考してみたいと思います。これは、奇跡のコースで再三再四言われる原点とも言えることです。

何でそんなことに拘るのかといえば、私たちのあらゆる悩ましいことの大元が私は身体だとの思い込みから来ているからです。

もうすでに思い込みと決め付けてしまいましたが、白紙に戻して本当はどうなのかということについて見て行こうと思います。

とにかく、私と身体はいつも一緒であることは議論の余地がないですね。身体がリビングにあれば、私もリビングにいるし、身体が電車に乗っていれば、私も電車に乗っています。

では、いつも一緒だからという理由だけで、私は身体だと決め付けていいかというと、そんなことはありません。私はいつも自分のパンツと一緒ですが、私はパンツだとは思いません。

ただ、どうしても身体といつも一緒にいるという感覚だけはどうすることもできません。それなら、その感覚を脇に置いておいて、感覚ではなくて実際に確認できることだけを見ていくことにします。

私は身体のそばにいるかもしれないけれど、では詳細に、身体の内側にいるのか、いるとしたら身体のどの場所にいると分かるでしょうか。

どうやったって、身体の内側にこの私の居場所はないと分かります。では、身体の外側ということになりますが、果たしてどこにどんな姿の私があるでしょうか。

当然のこととして、身体の外側にも私を見つけることはできませんね。元々、私には大きさも形も色も何もないのですから、場所など見つけることは不可能です。

つまり、私はどこにもいないということが分かります。したがって、私は身体と一緒にいるという感覚は持っているものの、本当は私を見つけることはできないのです。

それなら、私は身体ではないという結論にならざるをえません。また、私が「私は身体だ」とは言えますが、身体が「身体は私だ」とは決して言いません。

もしも、私と身体が本当に一つものであれば、どちらも言えなければならないはずです。もうお分かりだと思いますが、私は決して身体ではないということです。

ただし、身体からやってくる無数の感覚を何らかの方法で感じることはできるので、どうしても身体そのものだとの誤解を生むのです。

実は、その感覚は大きなくくりでは知覚の一種であり、知覚とは想念が作り出したものであるということも明確になっています。

私は自分のことを、この身体ではないと感じると、すぐさま私はこの世界全体を覆うなにものかであるという感覚がやってきます。

そしてその感覚を大切にして、できるだけ頻繁に感じるように自分を仕向けています。そうすると、時々この質量のある身体と自分との同一化の頑固さに、いささかびっくりしてしまうことがあります。

何年もこんなことをやっていると、単なる理屈での理解だったものが、どうやらかなり腹の中へと降りてきた感じがして、今や私は決して身体ではないという感覚で生活することが増えてきました。

私は身体ではないということと、私はどこにもいないという事実によって、心が以前よりもかなり平安な状態でいられるようになったと思います。

死ぬ私も、傷つく私もいないということは、なかなか心地のいいものです。みなさんも試して見てはいかがでしょうか。

苦しみの原因

私は子供の頃から内臓が弱くて、時々腹痛に襲われることがありました。そういう経験が多いからかもしれませんが、そうした肉体的な痛みとは一体何なのだろうとよく考えたものです。

頭痛や歯痛、あるいは打撲などによる身体の痛み、そうした肉体的な痛みだけではなく、精神的な痛みというものもありますね

悲しみやさびしさ、恐れや怒り、そして喪失感などの否定的な感情はすべて精神的な心の痛みと言えますね。そして、ここからが本題です。

私たちはそうした心や身体の痛みこそが、苦しみの原因だと思い込んでいます。そうではありませんか?きっとそうに違いないと思っているはずです。

しかし、実はそうではないのです。身体の痛みであろうと、心の痛みであろうと、痛みそのものには何の問題もないのです。

勿論痛みを好む人はあまりいないのは当然ですが、それが苦しみを起こすわけではないということに気が付いて欲しいのです。

本当は、そうした痛みを「何とかしたい」と思うことこそが、苦しみを生み出す原因なのです。何とかしたいと思って、その通りになればそれは快楽を得られるのですが、そうならなければ、そこに苦しみがやってくるというわけです。

私はお腹が痛くなるたびに、その痛みの中には、痛みそのものと苦しみの両方が混ざっているということをはっきりと感じていました。

そして、実は痛みそのものよりも苦しみの方がより辛いのだろうということも分かっていました。その痛みを何とかなくしたいと思いつつ、なかなかその痛みがなくならないことによって、そこに苦しみが発生するということに気づいたのです。

どんな痛みも、それ自体はそのままでOKなのです。それについて、あるがままを受け止めていられたら、そこには苦しみはやってこないのです。

それを何とかしたいという思いが問題なのです。その思いが強ければ強いほど、苦しみもそれにつれて大きくなるのです。

したがって、苦しみから解放されたいと本当に望むのであれば、どんな痛みも問題はないとはっきり理解したうえで、それを真正面から見てあげることです。

逃げも隠れも否定もせずに、それを見てあげることができれば、恐怖であろうが怒りであろうが、どんな痛みでも苦しみに姿を変えることはなくなるのです。

勇気を持って試してみて下さい。ご自分で検証することが何よりも大切です。

あまりに近いものは気づかない

幼いころに、時々遊びに来てくれる祖母が大好きでした。あるときに、姉に一番好きなのは誰かと聞かれて、即座に「おばあちゃん!」と答えたのでした。

すると、姉は「私はお母さんだな」と言っていたのを聞いて、不思議な感じになったのです。そのときの自分にとっては、お母さんのことを好きという対象とは思ってなかったからです。

それは、あまりにも自分と近すぎて、単なる好きな対象として見ることができない状態だったということですね。自分との区別がまだしっかりできていなかったのかもしれません。

その後しばらくして、姉の言っている意味がはっきり分かるようになったので、それは心が成長したということなのでしょう。

このように、我々は自分にあまりにも近いものを、対象として見ることができないために、近すぎて気づけないという状態になるということです。

海の中を泳いでいる魚は、海のことを知ることは決してないでしょう。それと同じようにして、私たちは自分とあまりにも近過ぎるために、本当の自己に気づくことができないでいるのです。

隠し絵というのをご存知でしょうか。ちょっと見ただけでは分からないのですが、じ~っと見つめているとある瞬間に、その絵の中に何かが浮かび上がってくる、あれです。

絵の隅から隅までくまなく見ているのですが、見えないときは何も見いだせず、しかし一度見えてしまうとなぜそれが見えなかったのかが分からないくらいに明確に見えてしまうのです。

あれと同じことが、真の自己にも言えるのではないかと思っています。本当はいついかなる時でもそれはもっとも近いところに提示され続けているのです。

それなのに、それは気づくことができずに人生を終えてしまうかもしれないとしたら、とても残念なことだと思いませんか?

誰も修行のようなことをする必要などないのですが、ただ注意の問題だと思うのです。どこに注意を向けて生活するかがとても大切なことなのです。

どんな人でもいつか必ず、いや今この瞬間にでも、「それ」を知ることは可能なはずです。よくよく、自分に一番近いところを見てみることです。今やってみて下さい。

何も分からない

昨日少しだけ瞑想しているときに、想念を止めるとてもいい方法を思いつきました。これが他の人にどれだけ効果があるのかは分かりませんが…。

それは、やや心が静まってきたときに、「分からない」という想念を作ってその中に没入するのです。そうすると、あっという間に心はもっと静まり返るのです。

これは頭で考えてやってみたというよりも、静寂に入っていくと、元々そんな感覚がやってくるのを逆利用したに過ぎません。

過去から追ってくる想念のほとんどが、「私には分かっている」という想いがベースになっているからなんですね。

私たちは人生を、何も分からないところからスタートさせました。分からないこと自体には、問題はないのですが、周囲から分かるようにならなければならないと教え込まれます。

それを信じたばっかりに、すべての苦悩が発生するようになったのですね。そこから、分からないままではいけないのだとの強い思い込みをすることになったのです。

そうして、努力をしつつ、分からなかったものを分かるようにしていくのです。私には、あなたの本当の気持ちが分かる、この世界で大切なことを知っている、そう信じ込むのです。

それが、次なる想念を生み出して、いつものストーリーを続けることになるのです。そこで、「何一つ分からない」ということを見つけるのです。

実際、今この瞬間だけを見つめていると、確かに何一つ分からないという状態がやってきます。それは、不安というよりも逆に肩の荷が降りるような、そんな感じすらします。

分からない、何一つ分からない、何も知らない、ただ在るだけ。こんな感じになると、とてもリラックスして、分からないことをそのまま認める状態になれるのです。

私たちが分かっていると信じているものは、すべて自分の心が作り出した幻想の中でのことなのですから、真理については本当は何も分かってなどいないのです。

そのことを素直に全面的に認めてしまうと、そこには何もない空虚な状態が見えてきます。それが、今であり、静寂である「それ」を見ていることなのかもしれません。

ストップボタンを押す その2

昨日の続きです。

単に苦悩を乗り越えても幸せにはなれない、それは苦悩と快楽の繰り返しというストーリーを続けることになってしまうというお話しをしました。

苦悩を乗り越えるのではなく、それも含めたストーリー全体を停止させることだけが、苦悩と快楽の繰り返しから逃れることになるのです。

そのためには、再生ボタンではなくて停止ボタンを押すのです。そうすれば、ストーリーが停止し、その瞬間に自分はそのストーリーの中の単なる登場人物ではなかったと気づくことになるのです。

ではストップボタンを押すとは、具体的にどうすればいいのでしょうか?それには、次から次へと浮かんでくる想念を停止させる必要があるのです。

あらゆる想念は、過去から現在の自分を追ってやってくるのです。そうして、その想念の中に含まれる快楽への欲望と苦悩への恐怖を見せ付けるのです。

そして、新たなストーリーの中へと自らをいざなうということです。想念を停止させることができれば、こうした過去からやってくる魔の手から逃れることができます。

想念を停止させるもっとも効果的な方法とは、その想念が発生する元をじっと見続けることです。想念そのものには目もくれず、ひたすらその源を調査するのです。

つまり、想念の大元である「私」を捕まえようとすることによって、そのことに意識が向けられるために、自然と想念が止まってくるのです。

そのときに、想念とは来ては去っていく幻のようなものだと分かるだけではなくて、その発生源である「私」も実在ではないと感じることができます。

そうやって、もっともっと「私」という想念のもっと奥まで注意を向け続けるのです。そこにこそ、決して変わらない何かを見いだすことができます。

「それ」はストーリーの登場人物とはまったく異なる次元の何かであり、そこは全くの静寂と無が支配している理解不能のどこかです。

そして、ひとたびその感覚を掴むことができたら、また再生ボタンが押されて、ストーリーが展開されだしたとしても、何かが変わるのです。

今までの苦悩は、種類の違う苦悩になります。苦悩がなくなるわけではないのですが、苦悩を安心して見ることができるようになるのです。

自分の呼吸よりももっと近いところに、「それ」は在り続けます。ただ、在るのです。

ストップボタンを押す

人生は短いようで長いようで、生きていればいろいろな事がありますね。苦悩することがあれば、楽になることもあり、正に山あれば谷ありのようです。

険しい山を登っているときには、ヘトヘトになって自暴自棄になってしまうことだってあるかもしれません。でも人は、そうした苦しさを何とか乗り越えて先へと進んでいくのです。

ところが、ここで勘違いしてしまうことがよくあります。それは、苦しみを乗り越えたら幸せになれるとの思い込みです。

確かに今までドツボに嵌ってもがき苦しんでいた人が、やっと平坦な楽な道に出られたとすれば、そこが天国のように感じてしまうかもしれません。

それは当然のことです。しかし、先ほども言ったとおり、その平坦な安楽な道は、またいつのまにか崖になったり、谷底になったりするのです。

そうやって、苦悩と安楽(快楽)は延々と繰り返すことになるということです。もう一度言いますが、「苦しみを乗り越えても幸せはやってこない」ということです。

一時の休戦状態を平和がやってきたと勘違いしているに過ぎないのです。本当に、こうした苦悩と安楽の繰り返しから抜け出すためには、苦しみを乗り越えるのではなくて、それを止めることです。

苦しみを止めるとはどういうことでしょうか?実は、苦しみに限らず、平坦な道やもっと気持ちのいい道でさえ、それを止めるという気持ちにならなければ、繰り返しからは抜け出せません。

その繰り返しとは、自分が作っているストーリーなのです。そのストーリーが再生状態である限りは、苦悩もいつかやってきます。

再生状態において、ストップボタンを押す必要があるということです。そのことに気づかなければ、エンドレスのストーリーが続くだけです。

もしも、ストーリーをストップすることができたら、自分がそのストーリーの中の演技者ではなかったということに気づくことになります。

今この瞬間にそれをすることが誰にでもできるのです。本当の自己は、そのストーリーのプロデューサーとして、それを観照していたのだと気づくのです。

つづく

記憶と期待を手放す

昨日のブログでは、誰もが未来の自分に多大な期待を寄せているというお話しをしました。一般常識的には、期待するということは別に悪いことではないと考えられていますね。

しかし、期待というのは今を否定しつつ、もっといいものを手に入れようという欲望であると捉えれば、期待しない生き方がどれほど心が平安でいられるか分かります。

期待というのは、過去の記憶から生まれるものです。未来に何かを期待して、それによって何らかの行動をするのです。

すると、それが体験を生み、その体験の中から印象に残るものを記憶として蓄積するのです。その記憶には、満たされない否定的な想いなどが詰まっています。

それを原動力として、ある想念が起きてくることになり、その想念の中味として未来に対する期待、あるいは欲望がやってくるのです。

そうして、その期待を実現しようとして、また何らかの行動を起こすことになり、それが本人の体験となって残ることになるのです。

こうした、期待と記憶の連鎖、あるいは循環が延々と続くことになるのです。したがって、期待と記憶というものは、どちらかが単独であるものではなくて、互いに依存しあっているのです。

どちらが欠けてももう片方が残ることはできません。記憶がなければ、あるいは記憶を使わなければ何の期待も生まれることはできないのです。

また、期待をできるだけしないようにすれば、どんな体験をしようとも、そこには特別に印象に残るようなことがなくなってしまい、結果として記憶には刻まれなくなるのです。

過去の記憶を使わないようにするには、起きてくる無数の想念に巻き込まれることがないように気をつけて、日々の生活をすることです。

それが今に生きるということです。それができれば、期待も同時に起きなくなってきます。記憶と期待を手放すことができたら、完全に今このときだけに意識を向けることができるようになりますね。

それはきっと充実した時間を過ごすことが出来るようになるはずです。いいも悪いもないと思い込んでいた、記憶と期待、どちらも必ず自分を苦悩へと運んでいくということをしっかりと認識すべきだと思います。

明日への期待

誰もがこの先の未来に何かしらの期待を持って暮らしています。明日は、もっといいことがあるかもしれない、素敵な人との出会いもあるかもしれない。

一ヶ月後には、もっとましな自分になっているかもしれないし、一年後には希望の仕事に就いているかもしれないと。

もしも未来には、何もいいことは起きないと分かってしまったら、人生を生きていく気力すら失ってしまうかもしれません。

それくらい、未来への期待は大きなものなのです。私自身についても、これと言って何の用事も計画もないその日暮らしの人生なのに、もっと気づきがやってくるかもと期待したりします。

そのことに気づいては、ああ、また未来に何がしかの期待をしてるんだなと思ったりしています。それは、実は過去との繋がりにおいて、そうした期待が発生するのです。

簡単に言ってしまえば、過去に残してきた不満を未来に満たそうとする想いなわけです。過去が満ち足りていなかったからこそ、それを現在をすっ飛ばして未来で何とかしようとするのです。

これでは、大切な今を充実して生きることができなくなってしまいます。なぜ今が大切なのかというと、今に意識が向いている限り、過去の不満を見ることがなくなるからです。

ひとたび過去へ意識が戻れば、それが必ず未来への期待、あるいは不安へと変化していくのです。これではいつまでたっても、今を生きることができなくなってしまいます。

今、手にしてないものが、未来に手に入れられたとしても、それはいずれはまた失ってしまうものだということに気づくことです。

手に入れられるものとは、すべてそうした一過性のものなのです。本当に大切なものとは、永遠にあるもの、それは今あるものに違いありません。

それを見いだすことです。決して失うことのないものとは、一体何でしょうか?それこそが、昨日のブログで書いた「私で在るもの」です。それはいついかなるときにも「在る」のですから。

それは失うことができないものです。そこに、意識をいつも向けていることです。それは、過去を悔やんだり未来に期待することとは違って、永遠の心の平安の場所なのです。

私は私で在るもの その2

昨日の続きというか、もう少しだけ掘り下げてみたいと思ったことがありましたので、書いて見ることにします。

私たちは、私の○○、というものを無数に持っています。私の指、私の腕、私の胴体、私の顔、これらはすべて私の身体についてのものです。

また、私の感情、私の想い、私の考え、私の信念、私の気持ち、これらはみな私の心についてのことだとも言えます。

それ以外にも、私の性別、私の国、私の家族、私のお金、私の家、私のクルマ、私の学校、私の部屋など、実際に私の所有物であるものもあるし、そうでないものも含んでいます。

こうした、「私の○○」は決して私自身ではないので、それらを全部私から除外して残るものこそが、私で在るものと言えるかもしれません。

しかし、そうやって除外していって一体何が残るでしょうか?私自身の感覚では、何も残るものがないというのが正直なところです。

そうです、私で在るものとは、何もないのです。この世界のどこにも、私で在るものを見つけ出すことができないということに気づきます。

もしかしたら、このことはとても不安に感じてしまう場合があるかもしれません。でも、安心して下さい。どこにも見出せないとしても、確かに「私は在る」は残るのです。

これは誰にとっても必ず該当しないということはありません。したがって、「私は在る」こそが、本当の私なのかもしれません。

これはちょうど、あなたが寝ているときに見ている夢の中にあなた自身を見つけることができないのと同じことなのです。

これが自分だという存在が夢の中で活躍することは勿論できますが、その自分は決して夢を見ているあなた自身ではありません。

夢の中の登場人物としての自分がそこにいるだけですね。この世界のどこにも私で在るものが見つけられないのは、この現実という夢を見ているのが本当の私だからかもしれません。

そうだとすると、この世界のすべては本当の私が想像の中で創造したものだということができ、本当の私はあらゆるものの中に在る(偏在している)とも言えるのです。

私は私で在るもの

「私とは私で在るものである。」このように表現すると、当たり前であることのように聞こえてしまうかもしれませんが、実はそうでもないのです。

実際には、我々は自分のことを、「私は身体である」とか、「私は心である」のように思い込んでいるからです。

こうしたことが単なる思い込みなのだということは、このブログで今までに何度となく書いてきたことなのですが、その信じ込みを断ち切ることができないのです。

しかし、真実は「私とは私で在るもの」という以外に表現することができないのです。そして、本当の私は決してこれだとか、あれだというように示すことのできないものです。

私は身体だという思い込み、つまり私と身体との同一視を継続させている要因とは一体何なのでしょうか?それを暴いていきたいと思います。

そのためには、自分が今までに詰め込んできた既成概念、学習してきてしまった常識などを一旦脇へ追いやって使わないようにしておく必要があります。

その上で、私が身体であるということをどうやって信じ続けているのかを見てみると、その一つには一生自分の身体と一緒だからというのがあるかもしれません。

しかし、今自分の身体という言い方をしましたが、これは自分の所有物と考えることも可能ですね。ずっとパンツを穿いているというのと全く同じです。

パンツを自分だと思っている人は誰もいないように、自分の所有物でありずっと一緒であるものを自分自身と勘違いするということは馬鹿げた話しです。

だとすると、もう一つの要因と考えられるのは、身体からやってくる無数の感覚と自分が繋がっているということかもしれません。

でもそれも、感覚は私の感覚であって、私自身であるとは言えないはずです。こうして見て見ると、私たちは自分は身体だと単に思い込まされてきただけだということがはっきりします。

あらゆる苦悩の根本原因である、自分は身体であるとの思い込みをどうにかして、その嘘を暴いて「私は私で在るもの」に立ち返りたいと思います。